2−3
◇ ◇
「なぁ、橋屋。お前、体調大丈夫なのか?」
夏休みも目前となった頃、大学の学食でいつも通りに昼飯を食べていると、同じ文学部の川藤と杉堂から心配そうに声を掛けられた。
「え? 全然元気だけど」
そう返しながら、俺は目の前に置いたきつねうどんの麺を、ずるずるといつものようにすする。調子が悪いと感じるところは一つもないし、寧ろ日々充実していて心身共に調子がいいくらいだ。
しかし、向かいに座った二人は妙に険しい表情のまま頷きあうと、意を決したように口を開く。
「……じゃあその、目の下のクマはなんなんだよ」
「顔だって、やばいくらいやつれてるぞ」
「へ?」
「だからほら、ちゃんと見ろって!」
いつになく真剣な顔をした川藤が、カードサイズの小さな鏡を押し付けるように渡してきた。
何を言っているんだろう、と思いつつ、俺は渡された鏡を覗く。長方形の鏡の中には、見慣れたいつも通りの自分の顔があった。
別にいつも通りだ、と思ったのだが、しばらくジッと見ていると、目の下にくっきりと真っ黒なクマがあることに気付く。
「……あれ?」
おかしい。
今日も真田の部屋から大学に来たのだが、朝支度をする時に洗面台で顔を洗ったので、その時にちゃんと鏡で自分の顔を見ている。その時は、特にクマなんて見当たらなかった。
驚いて鏡を少し顔から離し、自分の顔全体を見る。そうして見えたのは、俺はこんな顔だったか? と思うくらいやつれている顔面だった。
「……なんだ、これ」
「んだよ、気付いてなかったのか?」
川藤が呆れたように息を吐く。
「い、いや。鏡はちゃんと見てたはずだけど……」
「じゃあ最近あんまり寝れてないとかか?」
俺は二人に向かって首を横に振る。
だって、本当のことだ。
なんせここ最近は、居心地のいい真田の家に泊まりっぱなしなのである。真田の家では目を閉じるだけでスゥっと、何かを考える暇もなく寝入ることが出来るのだ。おかげでぐっすり眠れるし、夢なども見ずに深く眠っているからか、寝覚めだってすこぶるいい。
こんなに身体に不調が出るようなことをした覚えはなかった。
「うーん、ぐっすり寝てるんだけどなぁ」
「じゃあなんか、今までと違うことしてるとか?」
川藤に言われて、俺は腕を組んで考える。
去年までと違うことなんて、何かあっただろうか。
──でも、あるとすれば……。
考えてふと頭に浮かんだのは、鮮やかな赤紫色の紫陽花が咲き誇るアパートのこと。
「んー……。強いて言うなら、友達の家にしょっちゅう行ってるくらい、かな?」
俺が絞り出すように答えると、二人は再び顔を見合わせ、やっぱり、というように頷いた。
「その友達って、経済学部の『真田』ってヤツのことだよな?」
「うん、そう。同じ高校で、クラスメイトだったヤツなんだけど。最近になってまたよく遊んでるんだよね。って言っても、アイツの家に俺が入り浸ってるだけなんだけどな」
確信めいた言葉に驚きつつ、俺はそう言いながら、再びうどんをすする。
さすがに真田の家の居心地が良すぎて、着替えやら何やら持ち込んで泊まり込んでいる、ということは言わないでおいた。
しかし、そんなことを考える俺をよそに、川藤と杉堂は妙に真剣な面持ちで俺をジィッと見つめる。
「……ソイツの家、行くのもう、やめた方がいいぞ」
「なんで?」
「なんかあの家、やばいらしいんだ」
経済学部に知り合いがいるという杉堂の話によれば、真田の家に行ってめちゃくちゃ気分が悪くなったり、体調を崩してしばらく寝込んだ人がいるらしい。人によっては妙に落ち着かなくて、一時間も居られなかったのだとか。
その話を聞いて、俺はそういえば初めて家に行った日に、真田がそんなことを言っていたのを思い出していた。
「うーん。でも俺にはむしろ、居心地がいいくらいなんだけど……」
「絶対勘違いだって! じゃなきゃ、そんなクマなんか出来ないだろ?」
「でもなぁ……」
そうは言われても、自分にとっては空き部屋があれば住みたいくらいに居心地のいいアパートなのだ。
とはいえ、冷静になって考えると、確かにおかしい部分もある。
あんなにいい部屋なのに、自分以外の人間が真田の家に遊びに来てる感じがしないことだ。
真田はもともと人当たりのいいタイプだし、高校の時も常に友人数人とつるんでいたようなヤツである。そんなヤツが、大学の同じ学部で友人を作れないはずがない。けれど遊びに行けば必ず家にいるし、休日も特に予定はないと言い切るのも妙な話だ。
杉堂の話を聞いた感じだと、あのアパートが原因で周りから距離を置かれるようになってしまったのだろうか。
「よぉ、なんの話してるんだ?」
三人で顔を寄せ合っているところにもう一人、同じ学部の大迫がトレーに大盛りカレーを乗せてやってきた。ちょうど俺の隣の席が空いていたので、大迫は「ここいいか?」と言いながら腰を下ろす。
「いや、実はさ……」
向かい側の二人が説明するのを、大迫はふんふんと聞きながらカレーを食べ始めた。俺もその様子を見ながら、うどんの残りに手をつける。
ひと通り話を聞いた大迫は、しげしげと横から俺の顔を大仰に覗き込んだ。そしてなるほどな、と頷く。
「確かに、ひでぇ顔してんなぁ、橋屋」
「……うるさいよ」
大迫はどちらかというと、遠慮をしないヤツなので、すぐそういうことを言ってしまう奴だ。
俺がふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くと、大迫は再びカレーをその大きな口に運びはじめる。
「で? その問題のアパートって、どこにあるんだ?」
「ワイマート近くの小道沿い。大迫、知ってるか?」
俺がそう言うと、大迫はすぐに思い至ったように、ああ、と頷いた。
「あれだろ、アパートとマンションが並んでるとこの、隙間みたいになってる道だよな?」
「そうそう。小道側にでっかい階段の入り口があって、今なら紫陽花も咲いてて……」
しかしそこまで説明したところで、大迫は、あれ? と眉をひそめた。
「……そんなとこに、アパートの入り口なんてあったか?」
「え?」
「しょっちゅうその通路使ってるし、紫陽花があるとこまでは分かるんだけど……。オレ、そんな階段見たことないぞ?」
大迫に言われて、俺は不意に真田が最初に話してくれたことを思い出す。
真田はそのアパートを最初『入り口のないアパート』だと思っていたのだ、と。そしてその話を聞いた自分も、最初は気味が悪いと言っていた。
それなのに、今の自分は……?
「おい、どうかしたか?」
隣に座る大迫に肩を叩かれ、ハッとして我に返る。
「あ、いや、その……」
どうして忘れていたんだろう、あの奇妙な話を。
動揺している自分を見兼ねたのか、向かい側に座る川藤がおずおずと口を開く。
「なんか、思い当たることでもあるのか?」
「あ、うん。……その、真田も最初は大迫みたいに、アパートの入り口が見えなかったって言ってたの、急に思い出して、さ」
「マジで?」
「うん。でも不動産屋と内見に行った時は普通に出入り口の階段が見えて、部屋も良かったから住むことにしたんだって」
古くて汚れた外観からは想像もつかないくらい、綺麗で居心地のいい部屋。自分もその心地よさに惹かれて、今や入り浸っている。
「なぁ、やっぱやべー家なんじゃねぇの、そこ」
黙り込んだ俺を見かねて川藤がそう言うと、杉堂も大迫も大きく頷いた。
「絶対やばいってその家……」
「だってその家に行くようになってから、橋屋はそんなふうになったんだろ?」
「……うん」
奇妙な『入口のないアパート』。
ある人には居心地がよく、ある人には一時間も滞在していられないくらい気持ちの悪い場所。
何故か都合の悪いところだけをごっそり忘れていたことも含め、確かに良くない場所なのかもしれない。
「な、なぁ、橋屋。普段からそいつの家に行っててそんな状態になったならさ、しばらく行くのやめてみたらどうだ?」
「そうそう。せめてそのクマが無くなるまで、とかさ」
言われて俺は、川藤に借りた鏡で改めて自分の顔を見る。
落ち窪んで影の出来た目の下、げっそりと痩けた両頬。自分の生命力が気付かないうちに、ゆるゆると削り取られてしまったような、そんな顔つきだった。
確かにこれは、この状態は良くないのかもしれない。
「……そう、だな」
俺は呟くようにそう答えた。