2−1
「よお」
「おー、いらっしゃい」
二週間後、俺は鮮やかな赤紫の紫陽花が満開になった『よひら荘』の二〇四号室を訪れていた。
「ほい、これが実家から届いた素麺な」
「最近蒸し暑いし、マジで助かるわぁ」
ビニール袋いっぱいに入った乾麺を手渡すと、真田がウキウキしながらキッチンの棚に置く。それを見ながら俺は、玄関を閉めて靴を脱いだ。
実はこの部屋に来るのも、もう四〜五回目になる。
初めて『よひら荘』を訪ねた日の翌日から、真田の部屋で感じた妙に安心感のあるあの居心地の良さが恋しくなってしまい、よく遊びに来るようになっていた。
さすがに初めて行った日の翌日は、昨日の今日で行くのは失礼だろうと思い、気を紛らわすために違う友人の家に行ってみたりもしたのだが、真田の部屋ほど落ち着くわけもなく。それから数日ほど一人で悶々と悩んだ結果、片付けを手伝うという名目で遊びに行ったのだった。
遊びに来て欲しいと言っていた真田は普通に喜んでくれたので、それからは新しく買ったゲームを一緒にしようだの、レポートを手伝って欲しいだの、何かしらの理由を見つけては真田の部屋を訪ねている。
今回は『実家からの食料をお裾分けする』という名目でやってきたわけだ。実際困るほど届いていたわけではないのだが、しょっちゅう遊びに来ているのだし、このくらいはするべきだろう。
俺はもう勝手知ったるといわんばかりにリビングへ向かうと、いつものようにソファに座った。
──ああ、これだこれ。
他人の家とは思えないほど妙にしっくりくる、圧倒的な居心地の良さ。そして、包まれる様な安心感と不思議な懐かしさ。
なんともいえない落ち着きの良さを味わいながら、室内をぐるりと見回す。よくよく見ると、前回来た時と家具の配置が変わっているような気がした。
「あれ、あのラックそこだったっけ?」
「ううん、ちょっと変えてみたんだ」
渡した素麺をしまい、飲み物を持ってきてくれた真田に尋ねると、そんな風に返される。
「やっぱずっと過ごしてるとさー、使いにくいなって部分が気になっちゃって、ちょこちょこ変えたりしてるんだよね」
「へー」
確かに、位置の変わる前のラックは少しばかり物が取り出しにくい印象があった。今は向きが変わったおかげか、だいぶ使いやすそうになっている。
しかし、真田はもともとそんなに家のことを気に掛けるタイプではなかったはずだ。以前のオンボロアパートに住んでいた時なんて「荷物が置けて、寝られればいいんだよ」なんて言っていたくらいなのに。
──住み心地のいい部屋に住むと、気になるものなんだろうか。
改めて部屋の中を見ると、置かれている家具や小物一つとっても、統一感があってこだわりを感じる。掃除もこまめにやっているのか行き届いており、インテリア雑誌で紹介されていそうなくらいオシャレだ。しかしそんな雰囲気を持ちつつも、動線がいいのかとても過ごしやすい。
「せっかくだし、こないだのゲームの続きやんない?」
「なんだ、やってなかったのか?」
「バイトと課題が忙しくてさぁ」
「そっか、じゃあやろうぜ」
真田の言うゲームというのは、以前遊びに来る口実の一つに持ってきたアクションRPGである。自宅のテレビが壊れたからと、真田の部屋に置きっぱなしにしておいたのだ。置かせてもらうし、暇な時にやっていいと言っておいたのだが、真田も真田で忙しくてやっていなかったらしい。
二人で協力してやるゲームなので、コントローラーをそれぞれ持ち、ゲームをスタートさせた。
◇
「……あれ?」
ふっと気付くと、俺はテレビの前に置かれたテーブルに突っ伏していた。顔を上げるとテレビ画面は真っ暗になっていて、肩には毛布を掛けられている。俺はどうやら眠ってしまっていたらしい。
「おー、起きたか」
真田はテレビの横にある勉強デスクの椅子に座り、ノートパソコンを開いて作業をしている。
「あっれ。俺、もしかして寝てた?」
「そう、ゲームのローディングなげぇなーって言ってたら、ウトウトしはじめてさ」
「えー、まじか。わりぃ」
俺はそう言いながら、まだ少しぼんやりする目を擦った。
確かにここ連日、バイトが少し忙しくて疲れてはいたのだが、まさか他人の家で寝こけるとは。
しかし仕方のないことだ。この家だと妙に安心してしまうので、自分も寝落ちてしまったのだろう。
「いやー、なんかこの家だと落ち着いちゃってさ」
「わかるわかる。オレも引っ越してきた日、気付いたら床で寝落ちてたし」
「マジか」
俺は来た初日とはだいぶ様変わりした室内を見回す。置かれているものは違うけれど、妙に包まれるような安心感は変わっていない。
「……他の部屋もこんな感じなら、俺もいっそ住みたいわぁ」
「あはは。じゃあ、空き部屋でたら教えてやるよ」
「おう、頼むわ」
真田は笑って言っていたが、俺は割と本気で引っ越したいので、本当に教えて欲しいなと思って答えた。
「橋屋も起きたし、そろそろ夕飯でも用意するかぁ」
そう言いながら、真田が椅子に座ったままうーんと両腕を上に上げて伸びをする。
言われて外を見ると、すっかり夕焼けしていた。
昼過ぎに来たのに、俺は随分長いこと寝ていたらしい。
「せっかく持ってきてもらったし、素麺でも茹でるか?」
「それじゃあなんか、具材いっぱい乗せて食べようぜ」
「ああいいな、冷やし中華みたいにするか」
俺と真田はさっそく近くのワイマートへ向かうと、きゅうりやトマトなどの野菜とハムを買い込んで帰った。
真田が素麺を茹でたり卵を焼いている間、俺が野菜やハムを千切りにしていく。茹で上がった素麺に具材を乗せていくと、見た目も立派な冷やし中華のようだった。
「おお!」
「なかなかいいんじゃね?」
リビングのテーブルに運び、それぞれ好きなつけダレで食べるとめちゃくちゃ美味しい。夏休みも目前の、蒸し暑さが酷くなってきたこの時期にピッタリの夕飯だ。
うまいうまいと食べていたら、山盛りに盛っていた素麺冷やし中華は、大学生二人の胃袋にあっという間に収められてしまう。
片付けたらアイスでも食べるか、と食べ終わった食器を流しに運び、真田が洗い始めた時だった。
……ピーンポーン。ピーンポーン。
玄関のインターホンが鳴る音。
「わりぃ、出てくれね?」
「おー」
泡だらけのスポンジを持った真田がそう言うので、俺は家主に代わって玄関を開ける。
すると、そこに立っていたのは、青いジャンバーに白いヘルメットを被った中肉中背の男。
「あ、お待たせしました! ○△□ピザでーす」
そう言ってにこやかに笑う男は配達員なのか、ピザの入っているらしい紙の箱を二つ、掲げて見せた。
一瞬面食らってしまったが、夕飯はたった今食べたばかりで、今日の会話の中にはピザの『ピ』の字も出ていない。
「すみません、うち頼んでませんけど……」
「え? ここ『ひらさか荘』の二〇四号室ですよね?」
「いえ、ここは『よひら荘』です」
「ああ、そうでしたか。すみません、間違えました」
配達員は申し訳なさそうに何度も頭を下げると、ピザの箱を保温バッグに入れて立ち去っていった。
俺は玄関ドアを閉めると、やれやれと息を吐く。
「配達の間違いだったわ」
「えぇ、またかよ?」
「うん。まぁ『ひらさか荘』は確かに『よひら荘』に似てるっちゃ似てるけど」
とはいえ、四文字と三文字では文字の長さで分かりそうなものだが。
「アパート名も部屋番号も、表札だって出してるんだけどなぁ」
真田が困ったような顔で言うので、俺はもう一度玄関ドアを開けて、改めて外から見てみた。
確かに、玄関ドアにある部屋番号の上にはアパート名、その下には『真田』と書いたマグネットのパネルを貼ってある。文字の感じからして、真田自身が手書きしたものだ。
確かにこれだけ掲げてあれば、ここが『よひら荘』の二〇四号室というのは間違いようもないのだが。
「うーん、急いでてちゃんと見てないのかもな」
「まったく、しっかりして欲しいもんだぜ」
「……本当だな」
洗い物を終えたらしい真田が、うんざりしたようにため息をついていたので、俺も同情混じりにそう答えた。