8−3
◇ ◇ ◇
それから二年が経った。
あの『よひら荘』に引っ越し、いなくなってしまった真田は結局見つからないまま。掃除の際に見つかった奇妙なノートは、手掛かりになるかもしれないと一応警察に届けておいた。が、真田が精神を病んでいたという証拠にしかならなかったのか、捜査に進展をもたらすことは出来なかったらしい。
俺のほうはというと、無事に就職先も決まり、大学もきちんと卒業。就職先は県外になるので、四年間住んだこのアパートを引っ越すことになった。
「……この家ともおさらばかぁ」
住み心地は、あの真田の部屋に比べたら普通だったけれど、可もなく不可もなく、大きな問題もなく四年間住めたのだから十分だろう。
新しい引っ越し先は、真田の件でこりごりだったのもあって、少し家賃は高かったけれど新築のアパートにした。真新しい場所なら、妙なジンクスなんかもきっとないはず。
引っ越しも目前に迫り、荷物の整理に追われていた、ある日。
……ピーンポーン。ピーンポーン。
突然、自宅のインターホンが甲高く鳴り響いた。
「ん、誰だ?」
時間はと、時計を見るとちょうどお昼時。
今日は特に誰かが来るような予定はなし、荷物も頼んでいない。手渡しの必要な郵便物か何かがあったのだろうか。
不思議に思いながらドアモニターを確認すると、そこには黒っぽい帽子を深々と被った配達員の姿。どうやら郵便ではない。
──何か頼んでたっけ?
「はーい?」
俺はモニターに映る配達員に向かって、疑問を持ちつつ返事をした。
「あ、お待たせしました! ○△□寿司です」
その配達員は、帽子のツバで顔は隠れていたが、かろうじて見える口元の両端を釣り上げて、妙に明るい声で言う。
宅配寿司なんて頼んでいない。
が、それよりもっと驚いたのは、その配達員の声が、あの居なくなった真田のものにそっくりだったことだ。
「真田!?」
俺は慌てて玄関へ駆け寄り、勢いよくドアを開ける。
そこに立っていたのは、どこか嬉しそうに笑う、青いジャンバーを着た配達員。
しかしこちらをまっすぐ見上るその顔は、よくよく見ると全くの別人で、モニターで見た時と同じように口角を不自然に上げており、ニヤニヤと笑う様子が気持ち悪い。
「えー、ご注文のマグロづくし丼セットに、こっちがセットの温かいきつねうどんでぇ」
半ば混乱した状態で惚けていると、配達員はこちらのことなどお構いなしに、抱えていた保温バッグから商品を取り出し始めていた。
「あ、えと。い、いえ! うち頼んでないです!」
ようやく我に返ってそう言うと、配達員はピタリと動きを止める。
そして視線を保温バッグからゆっくりこちらに向けると、こてん、と首を横に傾げた。
「え? そうなんですか?」
「は、はい。どこかとお間違えでは……」
「あれぇ? ここ『かたすコーポ』の三〇三号室ですよね?」
そう言いながら配達員は、首の向きを反対に傾げる。
俺は配達員のその様子と言葉に、背筋にゾクゾクと寒気が走るのを感じた。
このアパートの名前は『ふじのみやアパート』で、一文字も掠っていないし、この辺に『かたすコーポ』なんてアパートは存在しない。
「ち、違いますよ!」
叫ぶように答えた途端、空気を読まず腹の虫がぐぅ〜と鳴いた。
朝からずっと引っ越しのための作業中で、確かに今は極度の空腹状態。しかもさっき配達員の読み上げたメニューは、自分の好きなものばかりだ。
「……あ。す、すみません」
俺がつい謝ると、配達員はなぜか目を細めて、嬉しそうに笑う。
「いえいえ。まぁ、こんな時間ですもんねぇ」
それから、なぜか取り出した商品を保温バッグに戻さず、こちらに向かってぐっと押しつけてきた。
「いっそ、間違えて受け取っちゃったらどうですか?」
「は?」
言われた意味が分からず、つい思ったままの言葉が口に出る。
しかしそれでも、配達員は両手に商品である食べ物を持ったまま、同じような調子で言った。
「何も知らず、頼んだ物と勘違いして食べちゃってもいいんですよ?」
そう言う配達員の顔は、不自然なまでに口角を上げて笑っている。
何を言っているんだ。
その品物を待っているはずの人がいるのに。
「……するわけないでしょ!」
俺は商品ごと配達員を押し返し、玄関ドアを思い切り閉めた。そのまま鍵をガチャンと勢いよく閉め、普段はあまり使わないドアチェーンまで掛ける。
ドアの向こうは、まるで人などいないかのように、不気味なくらいにシンと静まり返っていた。
俺は恐る恐るドアスコープを覗く。
その向こうには、先ほどの青いジャンバーを着た配達員が、ビックリするような無表情で、じぃっとこちらを見て立ったまま。
うっかり出かかった悲鳴を手のひらで抑え、俺は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。息を殺し、じっと時間が過ぎるのを待つ。少しでもみじろぎをしたら、相手がまたインターホンを鳴らしてきそうで恐ろしかった。
しばらくすると、外の通路を人が歩いていく音がしたので、そろそろと腰を浮かし、もう一度そおっとドアスコープを覗く。その向こうに青い人影がいなくなっているのを確認すると、俺は大きく息を吐いて、再びその場にへたり込んだ。
「……くそ、なんなんだよ」
俺は頭を掻きながら、真田の部屋のことを思い出す。
なぜか妙に配達のミスが多い家だった。似た建物やそっくりな名前のアパートのせいかと思っていたのだが、すぐ下の階の一〇四号室では起きたことがないと、住人の汐見さんが言っていたし、月に一度掃除に行っていた日にもたまに来ていた。
なんだかその時にやってくる配達員に似ているような気がしたけれど、きっと似たような青いジャンバーを着ているせいだろう。それにもし、同じ人だったとしても、今のアパートは真田の住んでいたアパートと同じ地域なのだから、あり得る話だ。
しかしもう、それを確認をする気力はない。
ほっと一息をついた途端、ぐぅ〜っと空気を読まずに腹の虫が再び鳴った。
「……こんな時でも、腹は減るんだな」
自分のことながら呆れつつ、俺はお湯を沸かしてきつねうどんのカップ麺を用意する。
結局、真田はあれから見つからないままだ。
俺がここを引っ越したら、真田の家からはかなり遠くなってしまい、頻繁に確認しに行くことはできない。なので預かっていた真田の部屋の合鍵は、すでに真田のご両親に返していた。
カップ麺に粉末スープを開けて、そっとお湯を注ぐ。
乾麺の上に山を作っていた粉末が、みるみるお湯に溶けて、跡形もなく茶色のスープに変わっていった。
「……やっぱり、あいつは溶けちゃったんだな」
きっと、あの家に。
エピローグ)
それから数年が経ち、俺はすっかり社会人になっていた。
仕事にも慣れ、大学時代の友人たちと久々に集まろうという話になり、母校の大学がある街に降り立つ。
大学近くのレストランで食事をする約束だが、まだ時間があるのでついでとばかりに、俺はあのアパートの近くにも行ってみた。
大学から大きな通りを二本ほど越え、大通りから一本脇に入った住宅街の道路を川のほうに向かって歩いていると、横に入る細い路地が見えてくる。
見えて来た細長い小道は、建物と建物の隙間らしく薄暗さを湛えてそこにあり、小道の入り口から少し遠くに見える、灰白色の壁のアパートも以前と変わらず建っているようだった。
真田の住んでいた部屋辺りの小さなベランダに、青いジャンバーらしきものが干してあるのが見える。
俺はそのまま小道には入らず、アパートの出入り口が見えるかどうかも確認せず、来た道をゆっくり戻った。
真田はとうとう見つからないまま、死亡宣告が出たと聞いている。
もしその部屋に住んでいた人間が失踪してしまった場合、その部屋が何かしらの事件現場であったと認められなければ、アパート側に告知義務は特にない。
失踪した理由はその部屋ではないし、その部屋で人が死んだわけではないからだ。
でもきっと真田は、あの家に溶けてしまったんだと、俺は思っている。
今その部屋に、誰が住んでいるのかは知らない。
〈了〉




