8−1
「すっかりあったかくなってきたなぁ」
よひら荘の二〇四号室で、窓を開けた大迫がよく晴れた空を見上げて言った。篭っていた空気が、入り込んでくる風と入れ替わって新しくなる。
「そうだなぁ」
俺は掃除用のハタキを取り出して、高い位置の埃を落としながら答えた。
進級も決まり、すでに春休みに入った三月。真田がいなくなってもう半年になる。年が明けても俺は変わらず、真田の部屋へ掃除をしに通っていた。
年末、あの部屋でうっかり寝てしまい、真っ黒なクマが出来た時には大迫たちに「もう行くのをやめろ」と止められたのだが、それでも止めることはできなくて。もちろん、真田の両親に頼まれていたことというのもあるのだが、やめてしまうと諦めてしまった気がして嫌だったのだ。
せめて行く頻度を減らしたらどうだと言われ、これまで一週間に一度だったのを、今では月に一度と決めている。そしてまたうっかり寝ておかしなことにならないよう、可能な限り一人では行かないようにしていた。事情を知っている大迫たちは、俺が一人にならないよう、こうして必ず一緒に行って手伝ってくれている。
真田の部屋の中は相変わらず雑然としていて、真田が居なくなった後に色んな人が部屋中を手掛かりがないかと探し回って散らかしたまま、その時からずっとここだけ時間が止まってしまったようだった。
今日は家具を動かして、隙間に溜まった埃を掃除する予定である。
「どこやんの?」
「先月はこっち掃除したから、ベッドの下かな」
俺はリビングの中央にあるベッドを指差した。
真田を見たのは、ここに横たわってぼんやりと天井を眺めていたのが最後。体に掛けて眠っていたと思われるタオルケットは、綺麗に畳んで置いていた。
「となると、まずこれを動かさないとだな」
大迫がベッドの横に置かれていたサイドテーブルをポンポンと叩く。
「じゃあそれはこっちに……。あ、コレも動かさないとダメ?」
「あ、そうだな」
ベッド周りのものを、あれはあっちに、これはこっちへと移動させていると、玄関のほうから何か音が聞こえた気がした。
「……ん?」
俺はつい手を止めて、開けっぱなしの中扉の向こうにある、玄関ドアをじっと見つめる。
その様子に気付いた大迫が、不思議そうな顔で尋ねた。
「どうかしたか?」
「いや、なんか音がしたような」
「音?」
大迫と二人で玄関ドアを見ていると、再び「コンコンコン」と、指の骨を使って叩いているような、ノックの音がする。
「……誰かきた?」
「え、何だろう……」
恐る恐る玄関ドアに近づき、俺はそっとドアスコープから外を覗く。そこに立っていたのは、青いワンピースを着た、見知った顔の女性──。
「あっ、汐見さん!」
俺は慌てて鍵を解除して玄関ドアを開ける。やはりそこにいたのは、アパートの一〇四号室に住んでいる、汐見さんだった。
「ヤッホー、久しぶり」
「ご無沙汰してます」
「あ、ホントだ! お久しぶりですー!」
リビングから見ていただけだった大迫が、知っている人だと分かるや否や、嬉しそうに玄関までやってきて出迎える。
「掃除しにきてるみたいだったから、差し入れ持って来たの」
そう言ってコンビニのビニール袋を掲げて見せた。中にはペットボトルの飲み物が入っている。
「あ、すみません……」
「うおお! ありがとうございます!」
ビニール袋を受け取ると、汐見さんは履いていたスニーカーを脱いで、当たり前のように部屋に上がってきた。
「来たならインターホン鳴らせばよかったのに、なんで使わなかったんですか?」
リビングに案内しながら大迫が尋ねると、汐見さんは眉を下げて笑う。
「いやぁ、なんか期待させちゃうかと思ってさ」
「……あぁ、なるほど」
その返答に、俺は納得した。以前差し入れを持って来てくれた時、俺が分かりやすくガッカリしたからだろう。
「で、今日は家具を動かしてるの?」
汐見さんはリビング内のあちこちに家具が散らばっている様子を見ながらそう言った。
「はい、隙間の埃がすごくって。今日は大迫がいるし、力仕事を任せられるんで」
「引っ越しのバイトしてたんで、重いものの移動も得意っす!」
「へー、頼もしいねぇ」
大迫が自慢げに腕の筋肉を見せつけると、汐見さんがケラケラ笑う。
「あ、そうだ。家具動かしてるなら、ベッドの下とかも見た?」
「以前シミができてたって言ってた場所ですか?」
「そうそう」
「え、何の話?」
大迫が不思議そうな顔をするので、以前汐見さんが来た時に、真田が居なくなった時期に天井にシミが出来ていたことがあると聞いた話をした。
やはり俺はどうしても、真田が溶けて染み出したんじゃないか、なんて未だに少し考える。でも、人間が骨も何もかも残さずに、溶けてしまうなんて到底あり得ない話だ。
「ちょうど動かすとこなんで、汐見さんも見ていきます?」
俺と大迫でベッドの端と端を持って抱えると、色んなものを避けて作ったスペースにそろそろと移動させる。
ベッド下はやはり、埃や残されたゴミなどが溜まっていた。ただ、想定よりは少なく感じる。
「思ったよりは綺麗、か?」
「警察が一回捜索してるからじゃない?」
ひとまず大きなゴミを取り除き、埃を拭いていく。しかし見えてきたフローリングの床に、それらしいシミは見当たらなかった。
「やっぱ残ってないかぁ」
ベッドのあった辺りの床をしげしげと見つめて、汐見さんが少し残念そうに呟く。
「どのくらいのシミだったんですか?」
「うちに出来てたのは、結構大きかったよ。それこそ、ベッド全体くらいのサイズかな?」
汐見さんがその場で両腕を広げてみせた。
「でも、よくそんなこと思い出しましたよね」
「あはは。実は橋屋くんたちの話を聞いてから気になって、その時期の日記を読み返したの。そしたらそんなことが書いてあってさ、そういえばあったなーって」
「なるほど」
「まぁすぐ消えちゃったからってのもあって、記憶に残ってなかったのよね。あ、ちゃんと思い出したこととして警察には話しておいたよ」
汐見さんがそう言って俺に向かってウインクする。話してくれた時に、俺がつい『真田が溶けたんじゃないか』なんて言ったことを覚えていてくれたらしい。
結局、床にはその痕跡らしいものは何もないし、警察からも特に何も聞いてないので、きっと本当に何も出なかったんだろう。
「……そのシミも、なんだったんでしょうね」
「雨が入り込んだーってのも、考えにくいしなぁ」
ベッドの置いてあった位置は窓から離れていたし、飲み物が入っていたようなゴミも落ちてはいなかった。
そもそも音が響きにくいということは、それなりに分厚い壁や床になっているはず。ちょっとやそっとの液体程度で、下の階の天井に染み出すことは考えにくい。
「今日も手掛かりは何も無し、か」
息を吐きつつ、ベッド下にあったゴミを分別していると、変なノートのようなものが混ざっていることに気付いた。
「……ん? なんだこれ」
真田がいなくなってすぐ、家の中はひと通り探したし、警察だって一度捜索に入っている。なのに、こんなノートは初めて見た。
細長くて、短辺を閉じたスケッチブックのように見えるそれは、簡単にパラパラと捲って見た感じ、日付と文字、それから図形の書かれた日記のようにも見える。
三人して不思議そうな顔を見合わせていたが、汐見さんがふと腕時計を見て声を上げた。
「あ、やっばい。アタシそろそろ行かなきゃ」
何やら予定があるらしく、そそくさと玄関のほうへ戻っていく。
「また来月に来た時にでも、それがなんだったか教えて」
それじゃ、と手を振り、汐見さんは颯爽と帰っていった。
汐見さんを見送った俺と大迫は、もう一度見つけたノートに視線を落とした後、顔を見合わせる。
「……とりあえず、掃除を終わらせようか」
「そうだな」
つい、腰を下ろしてしまいそうになるが、あまりこの部屋に長居はできない。
ひとまずノートを置いておき、部屋の中に溜まった埃を一通り払っていく。動かしたベッドや家具を元に戻すと、俺たちもすぐに部屋を出た。
「とりあえず、これがなんなのかちゃんと見てみようぜ」
真田がいなくなったヒントが、何かあるかもしれない。
部屋から唯一持ち出したノートを手に、俺と大迫は駅前のファミレスへ向かった。




