7−3
二人してすっかり黙り込んでいた、その時。
ピーンポーン……。
静寂を割くように、玄関のインターホンが鳴った。
「……え」
驚いて顔を上げ、汐見さんを見ると緊張した顔でうんと頷く。俺はそれに頷き返すと、もしかしたら、とはやる気持ちを抑えつつ玄関へ急いだ。
「は、はーい!」
普段通りに返事をしてから玄関ドアを開ける。
しかし、そこに立っていたのは、鮮やかな深い青色ジャンバーに帽子を被った、配達員だった。
「お待たせしました! ○△□寿司でーす!」
配達員は鼻の頭を赤くした顔で、にこやかに笑い、何か品物が入っているらしいバッグを掲げて見せる。
少し呆然としたが、俺はすぐにハッとして言い返した。
「す、すみません。うち、頼んでないです!」
「えぇ? ここ『きさらぎ荘』の二〇四号室ですよね?」
「いえ、ここは『よひら荘』です」
「あれぇ? そうでしたか、すみませーん」
配達員は悪びれる様子もなく、へこへこと謝りながら立ち去っていく。
俺は大きく息を吐くと、玄関ドアを閉めた。
「えっなに? 間違い?」
「あー、そうみたいです」
不思議と配達のミスが多いと、真田が言っていたのを思い出す。しかし、ここに掃除に通うようになってから来たのは、今回が初めてだった。
「近くに似た様なアパートもないのに、なんなんでしょうね? 真田もよく『間違いが多い』って言ってたんですけど」
実際、自分がここに遊びにきていた時もよくあったことである。決まって彼らは青いジャンバーを着ていて、似た様なアパート名を口にしていた。やはり自分が知らないだけで、どこかに似たアパートがあるんだろうか。
「……アタシもデリバリー系は結構使うけど、間違い配達が来たことは一度もないよ?」
汐見さんが妙に険しい顔で言った。
「え?」
「それに、アタシこの辺一帯の建物名はだいたい把握してるんだけど『なんとか荘』ってつくアパートは、ここぐらいしかない」
「そんな……」
俺は慌ててスマホの地図を開き、あの配達員が言っていたアパート名『きさらぎ荘』を検索する。しかし、該当するような建物は見当たらなかった。検索範囲を少し広げてみたが、それでも出てこない。
「……どういうことなんだ?」
「よく分からないけど、やっぱり橋屋くんは、ここにあまり長居しないようにしたほうがいいのかもしれないね」
「はい……」
そう答える俺の肩を叩くと、汐見さんはリビングの中央に視線を向け、何かを探すように床を見始めた。
「どうか、しました?」
「ん? ああ実はさ。真田くんがいなくなったって時期に、うちの部屋の天井に変なシミができたことがあったの思い出してさ」
「シミ?」
「うん、二〜三日くらいで消えちゃったんだけど。何かが溢れて染み出したなら、場所的にこの辺だよなぁと思って」
そう言って汐見さんの差した場所は、ちょうどそのままにしているベッドの置いてある辺りだ。
「うーん、なんか溢したとか、それっぽい跡は残ってないかなぁって思ったんだけど、ちょっと動かさないと分かんないか」
汐見さんの言葉に、俺は再び背筋が凍るような感覚を覚える。
最後に真田を見た日、ベッドの下の床には、確かに何かを溢したようなシミがあった。近くに飲み物の容器などもなかったので、何のシミかは結局分かっていない。
それなら、あれは……。
「……やっぱり、真田は溶けたんだ」
ずっと思っていたことを、俺はうっかり口にしてしまった。
「えっ?」
「あ、すみません」
「どうして、橋屋くんはそう思ったの?」
慌てて取り繕ったが、汐見さんに真剣な顔で尋ねられ、俺は正直に話す。
「──言ってたんです、真田が。『オレはこの家に、溶けちゃうんじゃないかな』って」
「そっか……」
「真下にある汐見さんの部屋の天井にシミができてたんであれば、それってやっぱり真田が溶けてたってことですよね? さすがにもう乾いちゃってるかもしれないけど、この床を調べてもらえば……!」
俺は一人で動かせるはずのないベッドの縁を掴んだ。
「橋屋くん?」
正直に話した途端、自分の中で何かが溢れて止まらなくなる。
「俺、見たんです! あの日、床にシミができてたの。ずっと何のシミだったんだろうって思ってたけど、あれはやっぱり真田が溶けてできたシミだったんだ!」
きっとそうだ、そうに違いない。
「やめよう」
大きな声で喚き、ベッドを引きずろうとする俺を制止するように、汐見さんが俺の肩を掴んで静かに言った。
「……だって、ありえないよ。人間の肉体や骨も残さず溶かせる液体か何かを、何らかの理由で真田くんがかぶったのだとしたら、ベッドや床が綺麗にそのままなわけがない」
汐見さんの言葉に、俺はハッとする。そうだ、こんなこと、現実にはありえない。
「そう、ですよね……」
「たとえもし本当に溶けてしまったのだとしても、それを証明する方法はないよ」
そうだ、なんの痕跡すらもない現状では、真田がどうなったのかを知る方法は、何もないのだ。
◇
汐見さんが帰ったので、俺は掃除の続きを始めた。
リビングの残り半分の掃除を終わらせ、キッチンのほうを掃除する。キッチンと続きになっている玄関をみながら、俺は先ほどの間違い配達のことを考えた。
まさか、配達の間違いがこの部屋だけで起きていたなんて。
てっきり、アパート全体で困っているものだと思っていたのに。
一通り掃除を終え、俺はリビングに残されたミニソファに腰を下ろして考え込む。
青いジャンバーをきたあの配達員。
自分がこの家によく来ていた時に対応したやつに似ていたような気もするし、なんとなく違う気もするし。
ふと気付くと、辺り一帯に紫陽花が咲き乱れていた。
青やピンク、赤紫と色とりどりの四枚花が花開く、紫陽花畑。
ここはどこだろうか。
さっきまであのアパートの掃除をしていたはずなのに。
見回しても見回しても、どこまでも花畑が広がっているだけだ。
よく分からないまま緑の葉と、色とりどりに鮮やかな花をかき分け、ひたすらフラフラと前に歩いていると、妙に赤い色の花弁が密集した場所にたどり着く。
と、足先に何かが引っかかって転び、俺は地面に手をついた。
何に引っかかったのかと振り返ると、そこには人間の手が横たわっている。
「……え?」
青いブルゾンを着ている人間の腕。
見覚えのあるブルゾンの色に、その腕の繋がる先は、と視線を向けようとして……。
ハッと気付くとソファの上で目が覚めた。
「……夢」
疲れていたのか、ソファでそのままうっかり寝てしまったらしい。
掃除も終わり、あとは帰るだけだったので、室内は電気を消していたものの、カーテンを開けっぱなしだったせいか、外から入り込む街灯の灯りで部屋の中はうすぼんやりと明るかった。
ゆっくりと身体を起こしたところ、雑多に寄せられた家具と家具の隙間、何かがチカリと光った気がする。
なんだろうと思ってそちら近づくと、そこにはどこか見覚えの小さなベルト。
どこで見たのか考えて、ようやく思い至る。真田が気に入っていた青いブルゾンについていた、飾りベルトだ。光っていたのはベルトのバックル部分らしい。
あの青いブルゾンは、真田がいなくなってから何度も家の中を探したが、まったく見つからなかったのに。
「……うそだろ!?」
俺は息を呑むように叫ぶと、慌てて周辺の家具を動かし、ベルトを拾い上げる。
「……え?」
雑多に積まれた小物の下からようやく取り出したそれは、見えていた部分の反対側が何かで削れた様に千切れ、何か液体がついていたような痕跡が見て取れた。高温で溶けるのとも違う、薬品か何かに漬けたような溶けかたをしている。
なんとなく、持ち主はもうこの世にいないんじゃないかという気持ちになった。
夢で見た鮮やかな紫陽花畑が頭によぎる。
「……お前、本当に溶けちゃったんだな」
俺は真田が最後に言っていた言葉を思い出していた。
秋になったら着るのを楽しみにしていたブルゾンを着て、溶けてしまったのだ。
きっと、この家に。
どう言う理屈で消えたのかは分からないし、証明する方法もないけれど。
俺は見つけたベルトをぎゅっと両手で握りしめた。
そう、この部屋の主はもういない。
もういないのなら、
「……それなら、俺がここに住んでもいいよなぁ」
呟くように口をついて出た言葉に、俺は自分でゾッとした。
今、何と言った?
慌ててかぶりを振り、俺は見つけたベルトを放り出して、逃げるように急いで部屋を出る。
おかしい。おかしい。
なんでそんな風に思ってしまったんだ。
アパートを飛び出すと、小道のほうではなく大通りのほうへ回って走り出す。
確かにあの部屋は居心地が良くて、安心できる場所だった。
住みたいとすら思ったこともある。
でも、真田がいなくなって、やばい場所だという自覚を誰よりもしていたはずなのに、どうして!
俺は大急ぎで自分のアパートに戻ると、すぐに洗面台へ駆け込み、鏡の中の自分を見た。
そこにあったのは、目の下に真っ黒なクマを作り、げっそりと頬の痩せた自分の顔。
きっと、あの部屋で眠ってしまったせいだ。
あの部屋は、事故物件ではない。
それでも気付かないだけで、ヤバい部屋はきっとあるのだ。




