7−2
螺良さんを見送った俺は、二〇四号室の鍵を開けて部屋に入る。
靴を脱ぎ明かりをつけ、キッチンを抜けて開けっぱなしの中扉からリビングへ入った。
かつて迷路のような配置になっていたリビングの家具たちは、それぞれ壁際に寄せられ、中央に置かれたベッドに行きやすいようになっている。
室内を一通りチェックするが、以前来た時と特に変わりはなかった。誰かが家に帰ってきたような形跡は何もない。
「……今日も変化は無し、か」
人が住んでいないと、家の中は簡単に埃だらけになるし虫が湧く。
俺はため息を一つ吐き、頼まれている掃除を始めた。高いところから順番に埃をはらい、床に溜まった分をかき集める作業。
こんなこと、いつまで続ければいいのだろう。
この部屋は相変わらず、妙に居心地がいい。人を一人、飲み込んだ場所なのに。
そうしてリビングの半分ほどの掃除を終えた頃だった。
ピーンポーン……。
不意にインターホンが鳴った。
この部屋に掃除しに来るようになってから、滞在中に鳴ったことは一度もない。俺はもしかしてと思い、大急ぎで玄関ドアを開けた。
「真田!?」
しかしそこに立っていたのは、青いロングコートを着て、白いコンビニの袋を持った女性。一〇四号室の住人、汐見さんだった。
「ごーめん、アタシだ」
「……汐見、さん?」
「その様子だと、まだ部屋の主は帰ってきてないみたいだね」
「……はい」
分かりやすく落ち込んだ俺を、汐見さんが困ったように笑って見ている。
「とりあえず、上がっていい?」
「ちょっと散らかってますけど、どうぞ」
「お邪魔しまーす」
履いていたショートブーツを脱ぎ、部屋へ上がってきた汐見さんをひとまずリビングのほうへ案内した。
「へー、間取りはおんなじだけど、やっぱり雰囲気は違うねぇ」
「真田がいた頃とはだいぶ変わっちゃってるんですけど」
俺の説明に、汐見さんがキョロキョロと辺りを見回す。部屋の隅に乱雑に集められた棚などを見ながら、汐見さんは何か考えるような顔をしていた。
「……あれが、変なレイアウトになってたっていう家具?」
「はい。なんかこう……渦を巻く迷路みたいな感じになってたんですよね。ちょうどこの、残ってる跡みたいな感じで」
そう言って俺は床に視線を落とす。床には変な位置に家具が置かれていた時の、汚れの跡が残っていたので、それを指差した。
「ふーん……」
「それで、汐見さんはどうしてここに……」
まじまじと床を見つめる汐見さんに、俺はここに来た理由を尋ねる。
「ん? ああ、帰ってきたらちょうど橋屋くんが二階に上がってくのが見えて。あー、また掃除しに来てるんだろうなぁと思ってさ」
そう言うと汐見さんは、袋からあったかいコーヒーのペットボトルと、肉まんを一つずつ取り出し、俺に向かって差し出した。
「はいこれ、差し入れ」
「……あ、ありがとうございます」
俺はそれぞれ受け取ると、豚まんにくっついた紙を剥がしてありがたく齧り付く。ほかほかの生地の中から、じわっと豚肉のうまみが沁み出して、口の中に広がっていった。
なんだか妙に心に沁みて、鼻の奥がツンとする。
「差し入れついでに、どうなったのか聞こうと思ってきたんだけど……」
汐見さんはそう言いながら、コンビニの袋からもう一つ豚まんを取り出して食べ始めた。
俺は残りの豚まんを食い尽くすと、鼻をすする。
「──まぁ、ご覧通りですよ」
「そうみたいだね」
「いつまでこんなことを続けるんだろうって、虚しくなってたとこです」
カーテンを開け、暗くなった窓の外を眺めながら、もらったコーヒーを開けて一口飲んだ。
なんの手がかりもなく、もう三ヶ月が経つ。
一週間に一度くらいの割合でこの部屋にやってきているが、真田が帰ってきた痕跡に遭遇したことはない。
もう一度連絡する、という言葉を信じて待っていたご両親と度々連絡をとっているが、すっかり憔悴していた。
「ねぇ、聞きたかったんだけど。橋屋くんはその真田くんって子と、そんなに仲がよかったの?」
「……実は、そうでもないんです」
真田とは高校の時のクラスメイトだっただけで、よく話はしたけれど学校外で会って遊ぶことはなかった。大学に入ってからも、学内で会えば挨拶をする程度。真田がこの部屋に引っ越しをしたのをきっかけに、よく遊ぶようになっただけで、特に親友だったというわけでもない。
「そうでもないのに、部屋の掃除まで引き受けちゃうなんて、橋屋くん、案外お人好しだったりする?」
「ぜんぜん、そんなんじゃないですよ。ただの贖罪というか、罪悪感みたいなものでやってるだけです」
「贖罪?」
汐見さんがよく分からない、という表情でじっとこちらを見る。俺はその顔に、眉を下げて笑って見せた。
「最後に会ったの、本当に俺だけなんです。話をしたのも。なんであの時、この家からすぐ引き摺り出そうとしなかったのかなって、後悔してて……」
どう見てもボロボロの状態の真田を、俺はあのまま見殺しにしたようなものだ。
「二日なんて悠長に待たず、もっと早く、無理矢理にでもこの部屋から出してれば、こんなことには……」
真田は自ら外に出たようだが、俺は未だに信じられない。
あいつは、この家に食われたのだ。きっと。
「橋屋くんは、この家のせいって思ってるんだね」
部屋の中をぐるりと見回しながら、汐見さんがつぶやくように言う。
その言葉に頷こうとして、俺はハッと我に返った。汐見さんはこの部屋の真下に今も住んでいる。
「あ、すみません。住んでらっしゃるのに」
「ううん。アタシも、この家が原因なんじゃないかなって思ってるからさ」
「え?」
汐見さんの言葉に驚いてそちらを見ると、どこか困ったような顔をしていた。
「アタシのお隣だった咲野ちゃん。この間、引っ越したんだよね」
「咲野さんが!?」
「一ヶ月くらい前かな。咲野ちゃんが相談してきたんだ。身体がだるくて、やる気が出なくて『家から出られない』って」
背筋がゾクリと粟立つのを感じる。それではまるで、真田の時と全く同じではないか。
「……もしかして、すごいやつれてたり、しませんでした?」
「うん、してた。『毎日八時間以上寝てるし、元気なつもりなんですけど、おかしいですよねぇ』って、目の下に真っ黒なクマつくって言ってたよ」
そう言う汐見さんの顔は、見たことないほど険しくなっていた。よほどひどい状態だったのだろう。
「それで、橋屋くんたちが言ってたこと思い出して、引っ越しを勧めたの。最初は渋ってたんだけど、一度親御さんに来てもらった方がいいよって言ったら、ちゃんと呼んだみたいでね。そこからトントントンって、引っ越して行っちゃった」
「……咲野さんは、間に合ったんですね」
「うん、そうみたい」
真田のようにいなくなる前に、この家に食われる前に、脱出できたのだ。
「そういえば部屋に入る前、大家さんにお会いしたんですけど」
「ああ、螺良さん? 珍しいね。冬場はアパート側までいらっしゃらないのに」
「なんか洗濯の落とし物を届けてたみたいです」
「へー」
汐見さんが豚まんを食べ終わり、自分の分のコーヒーを取り出して飲み始める。
「咲野さんの前に住んでた田所さんのこと、教えてもらえました」
「えっ、マジ?」
「田所さんはなんか、連絡もなく『自分探しの旅』に出てたみたいです」
「『自分探しの旅』……なるほど、どうりで」
俺の言葉に、汐見さんが呆れたような顔をしていた。きっとそれだけで、郵便受けがいっぱいになっていたことや、部屋の明かりがつかなかった理由を察したのだろう。
「結局、真田くんとは全く違う理由だったってわけね」
「はい……」
これで完全に、参考になりそうな手掛かりになるものはなくなった。
誰か人が死んだわけでもなければ、何か曰くがあったわけでもない。
それでも、何かがおかしい家は存在するのだ。




