4−2
◇
「ごめんなさいね、うちの子が」
「い、いえ。俺ももっと早く気付いていれば、良かったんですけど……」
道すがらひたすら謝り続ける真田の両親を宥めながら、俺は四人を例の小道のほうへと案内する。
「こんなとこあったんだなぁ」
「こっちのほうって来たことないから知らなかったや」
真田の両親の後ろに続いていた冨上と寺町は、物珍しげに小道の周囲を見回していた。
昼間でも周囲の建物のせいで薄暗い小道を進みながら、俺はもしこれで出入り口がなかったら、どうしたらいいのだろうと考える。しかし、灰白色のアパート前までくると、こちらの思いとは裏腹に、アパートにはちゃんと出入り口の階段が存在していた。空間を覆っていた壁も、ベランダ柵のついた窓もなくなっている。
見覚えのある様子に俺はひとまずホッと胸を撫で下ろした。
「……こっちです」
そう言って先頭きって出入り口の階段を上がり、四人を引き連れてカンカンと簡素な階段を踏み鳴らしながら二階へ向かう。ゾロゾロと二階の通路を一番端まで進み『二〇四』と数字の書かれた玄関ドアの前に立ち止まった。
「この部屋です」
俺がそういうと、真田の両親は玄関ドアの数字の下に書かれた建物名や『真田』と書かれた文字を、しげしげと物珍しげに眺める。
「そういえば、ご両親はここに来たことってあるんですか?」
「実は、契約自体は私たちの名義なんですが……」
「来るのは初めてなんです」
真田によく似た顔の二人は、なんだか申し訳なさそうに言った。
どうやら真田がいい物件があるからと見つけてきて、両親は契約書類に判を捺しただけらしい。学生のうちならよくある話だろう。
「とりあえず、入りましょうか」
さすがに端の方とはいえ、狭い通路に何人もいるのはよくない。俺はひとまずインターホンを押した。
ピーンポーン、と室内で音が響いているのが小さく聞こえる。しかし、しばらく待ってみたが、誰も出てくる気配はない。
俺は二日前のように何度も押してみたが、やはり反応はなかった。
「おーい、真田ぁ? いるんだろー?」
痺れをきらした冨上が、ドンドンと玄関ドアを叩く。それでも反応はなく、室内はシンとしていた。
「……なんだか、変な臭いがするわね」
不意に真田の母親がハンカチを取り出すと、眉をひそめて鼻と口を覆う。
確かに、玄関の辺りを生ゴミの腐ったような臭いがじんわりと漂っていた。俺はこの臭いに、ものすごく心当たりがある。
「……あの。実は、部屋の中にゴミがすごい溜まってまして。一昨日来た時に、少し捨ててはおいたんですが」
「そうなの? まぁなんてこと」
おずおずと言った俺の言葉に、真田の母はがっくりと肩を落とした。きっと、情けなくて仕方がないのだろう。
「おーい、真田! オレだ、冨上だ!」
冨上が引き続き呼びかけたが、反応はない。
「……何も聞こえないね」
寺町が玄関ドアに耳を押し当てたが、中からは物音一つしなかった。
「あ、もしかしたら……」
一昨日のこともあるし、と、俺はゆっくり玄関のドアノブをひねる。するとドアは、思った通りなんなく開いてしまった。
「やっぱり……」
「……うっそだろぉ」
不用心すぎるまさかの状態に、冨上も愕然とする。
「一昨日来た時も開けっぱなしで、帰る時に鍵を掛けるように言ったんだけど……」
結局真田は、あのまま鍵を掛けずにいたらしい。
そうであれば、真田は一昨日のあの状態のまま、ずっとベッドの上で寝ている可能性が高そうだ。
「とりあえず、入ろう」
そう言って、冨上が玄関ドアを全開する。
すると同時に、ほんのり玄関前に漂っていただけの生ゴミの腐敗臭が、むわっと身体にまとわり付くように、一気に外へ流れ出てきた。玄関と続きになっているキッチンは、一昨日とたいして変わらずゴミ袋と酷い臭いで充満している。特に臭いは、連日ずっと高い気温のせいで、腐敗がより進んだのか、酷くなっていた。
「まぁひどい……」
「アイツは何をしてるんだ……!」
さすがに真田の両親も、あり得ない光景に顔を真っ青にして驚いている。
「……なんだこれ」
「話には聞いてたけど、酷いね……」
寺町と冨上も、あまりに酷い惨状に顔を歪めていた。自分だって初めてみた時は驚いたのだから、無理も無い。
「橋屋がきた時から、部屋はこんな感じだったのか?」
「うん。俺が帰る時に少し減らしたんだけど、あんまり変わってない、かな……」
冨上に聞かれて俺は頷く。それなりに頑張って、そこそこの数のゴミを運び出したつもりだったが、どうやら焼け石に水だったようだ。
「とにかく、アイツに会わないことにはな」
ハンカチで鼻と口を押さえ、玄関で尻込みする寺町とは対照的に、冨上はふんっと鼻息荒く腕まくりをしながら、ゴミ山の迷路を進み始める。さすがにもう靴を脱いてあがるのは躊躇われたので、靴を履いたまま、俺も冨上に続いて部屋に上がった。
「私たちはこのゴミの山を先に片付けているよ」
「わかりました、お願いします」
真田の両親はキッチンを埋め尽くすゴミの量に圧倒されたのだろう、玄関近くから積まれているゴミを外に出し始める。
俺は先を進む冨上の後に続いてキッチンの奥へ進み、開け放しの中扉を通り抜け、リビングのほうへと向かった。
「うわ、なんなんだよこれ……」
少し先を行く冨上が、戸惑うような声を上げる。背が高くてがっしり体型で、いわゆるケンカの強そうなタイプの冨上ですら、あの奇妙に配置された家具の様子はドン引きしてしまうものだったらしい。
「一昨日来た時からこうだったよ」
「ったく、どんな意味があるんだコレ」
呆れ果てつつ、冨上は分厚い身体を壁沿いにできた通路となっている隙間に、横向きでねじ込むようにしながら進む。
「よく遊びにきてた時は、過ごしやすいようにしたいからって、しょっちゅう模様替えしてたんだけどね」
最初は綺麗な置物や小物であったであろうものが床に散乱し、歩を進める度に何かに躓いた。よろけて掴まった棚は埃が溜まっていて、指先にざらりとくっつく。
インテリア雑誌を見ながら、おしゃれな家具や置き物を飾り、こまめに掃除をしていたあの頃が、まるで遠い昔のようだ。
「こんなんじゃ、過ごしやすさなんて皆無だろ」
呆れ果てたように冨上が呟く。まったくもってその通りだ。
「本当だよね、これじゃあまるで……」
自ら外に出づらくしてしまったみたいじゃないか。
そこまで考えて、俺は口を閉じた。
頭の隅を真田の言っていた言葉がチリチリと焦げ付いて、眩暈がする。
急に黙った俺に、冨上が不思議そうな顔を向けた。
「どうかしたか?」
「……いや、なんでもない。とりあえず、いこう」
「おう」
ぐるりと渦を巻く迷路のようになったリビングを少しずつ進み、ようやく中央にある、少し開けた場所にたどり着いた。ここまでくると、つけっぱなしのエアコンのおかげで少し涼しい。
一昨日はここのど真ん中にあるベッドの上で、痩せ細った真田が寝ていた。
「おーい、真田ぁ? 寝てるのか?」
冨上の呼びかけに、答える声はない。
どんと鎮座するベッドの上には、もっこりと人型に膨らんだタオルケット。誰かがタオルケットに綺麗にくるまって、横になっているようにしか見えなかった。
床に散らばった紙やゴミを躊躇うことなく踏みつけながら、冨上がベッドに近づいていく。
「おい真田、いい加減に……!」
そう言って手を伸ばし、タオルケットを思い切り引き剥がした。
が、そこには人間はおろか何もなく、誰もいない。
「……は?」
「え、いない?」
寝ている人間が掛けているような形で、タオルケットがただ綺麗に膨らんでいただけだった、ようだ。
明らかに、冨上が剥がす直前までは確かに、中に人がいるように見えたのに。
「……どこ、いったんだ?」
冨上は面食らった顔でタオルケットを握り締めたまま、キョロキョロと辺りを見回す。俺もつられて周囲を見た。
相変わらず雑然としているなか、ベッド脇のミニテーブルだけが妙に片付いていて、そこにはコンビニの白いビニール袋が置かれている。これは、自分が一昨日買ってきて、食べろよ、と置いていった差し入れだ。
袋の中をそっと覗くと手付かずのままらしく、エアコンがついた部屋とはいえ、この連日の暑さのせいか、おにぎりは異様な臭いを発している。
「なぁ、真田いたかぁ?」
困惑しているところで、リビングの迷路を通っている途中らしい寺町の声が、こちらに向かって呼びかけてきた。
それで少し正気に戻ったらしい冨上が、迷路の壁になっている家具のほうに顔を向ける。
「いや、いない。……誰も、いない」
「えぇ、うそ。マジで!? たいへんだぁ〜!」
寺町の慌てた声が、来た道を戻るようにキッチンへ移動していった。真田の両親に誰もいなかったことを伝えに行ったのだろう。
雑多なリビングの中で、ゴオゴオとエアコンの音だけが虚しく響いていた。