4−1
「真田のやつ、あの家から引き摺り出したほうがいいと思うんだ」
俺はちょうどバイトが終わったという寺町と大学近くのファミレスで落ち合うと、今日の昼過ぎに真田の家に行った時の状況を伝えてからそう言った。
「……僕も、そうしたほうがいいと思う」
うんうんと頷いて聞いていた寺町は、青ざめた顔で同意する。その様子に、俺は真田の家から逃げ出した自分の感覚はやはり間違っていなかったのだな、と息を吐いた。
あんな、痩せ細った身体で元気だと言い張るなんて、明らかにおかしい。そんな友人を見捨ててきた自分は、薄情でおかしい奴なのかもしれないと、少しだけ心に引っかかっていたから。
「でも、僕たちだけじゃ難しそう、だよね……」
「……まぁ、たしかに」
俺も寺町も、どちらかと言えば小柄で細身なほうなので、痩せてしまっているとはいえ、自分たちよりも身体の大きい真田をゴミ屋敷の中から引きずり出すのは至難の業だ。
「あ、冨上くんならいけないかな?」
「真田と同じ居酒屋でバイトしてる人、だっけ?」
「うん。真田くんより背も高いし、身体も大きいからいけるかも。ちょっと連絡してみるよ」
寺町が冨上に連絡をすると、ちょうどバイトが終わったところらしく、ファミレスで合流することになった。
連絡からほどなく、冨上もファミレスに到着し、俺たちは真田の救出について話し合う。初めて会った冨上は、確かに真田よりも上背があり、がっしりとした体型をしていた。
「実際の様子を見ないことにはなんとも言えないけど、引き摺り出した後はどうするんだ?」
「あ、そっか。どうしよう……」
冨上に言われて、俺は再び頭を悩ませる。家から出すことばかり考えていて、その先を考えていなかった。
「その、できれば入院とか、病院にかかったほうがいいような気もするんだけど……」
「そんなにヤバいのか?」
「うん……」
意識がないとか、動けなくなっているわけではないし、電話もメッセージも全部ではないが対応できている。だから救急車を呼ぶのは躊躇われた。しかし、あのままあの家にいることは、絶対良くないと思う。かと言って、自分の家では狭くて連れて行くのは難しい。
「橋屋くん、真田くんと高校の時にクラスメイトだったんでしょう? それなら親御さんの連絡先とか分かったりしないの?」
「……あっ」
寺町に言われてそうだった、と思い出す。実家の両親に相談すればなんとかなるかもしれない。
「まぁ病院に入れることになったとしても、両親に連絡はしたほうがいいだろうしな」
冨上がドリンクバーから持ってきたらしいコーラを飲みながら、落ち着いた声で言った。
「そう、だね。ちょっと聞いてみる……」
俺は遅い時間ではあるものの、実家に連絡を試みる。
連絡をしながら、一人で考え込まなくてよかったな、と内心考えていた。自分でも思いの外動揺していたらしく、普段なら思いつきそうな真田の両親へ連絡する、という選択肢がまったく頭になかったからだ。もし一人だったら、こんなに冷静に話を進められていなかっただろう。
実家の両親に事情を説明すると、すぐに連絡をとってくれることになったが、やはり時間も遅いので翌日になるという返事だった。
「よし、じゃあ真田の両親と連絡とれたら、一緒にアパートに行く日を決めよう」
「ああ、そうしよう」
翌日、真田のご両親と連絡のついた俺は、真田のあまりよくない状況を説明した。するとご両親は熱心に話を聞いてくれて、連れ出すならなるべく早いほうがいいだろうと、最後に真田の様子を見に行った二日後には、寺町と冨上、そして真田の両親を揃って案内することが決まっていた。
◇ ◇
「……トントン拍子に決まったものの、一応真田にも言っておいたほうがいいんだけど、どうしたもんかな」
怒涛のやり取りを終えた俺は、自宅アパートのベッドの上で、ぼんやりと天井を見ながら呟く。
あの酷い状態の家へ案内するのだし、真田本人には事前に伝えておこうと思いたち、その前日に電話をしたのだが、なぜか出なかった。何度も掛けたのだが、十何コールもした後、留守電に切り替わってしまう。メッセージも送ってみたが、既読にはならなかった。
体調が悪化して電話に出られなかったのかもしれない。
俺は真田が郵便物を見ている途中で、バラバラと床にぶちまけていたのを思い出す。やる気が出ず──というよりは、体力のなさから疲れて最後まで内容を見れていないようだった。
あの時と同じように、電話に出るのも途中で辞めてしまっているのかもしれない。そんな気がする。
「……やっぱ、直接言いに行くしかないか」
俺は案内する日の朝、先に一人で真田の家へと向かった。
連絡ができなかった以上、こうして直接両親が来ることを伝えなければと思ったからだ。
いつものように大通りから日夜関係なく薄暗さをたたえる小道を進み、灰白色に染まるアパートの前に立つ。アパート前に植っている紫陽花の、枯れた花枝が刈り取られていたこと以外、二日前とさして変わらない……はずだった。
しかし、いつもならあるはずの出入り口が、あの幅の広い大きな階段が、ない。
「……は?」
大きな階段と、その上部に高く開けているはずの空間全体が、薄汚れた灰白色のコンクリートの壁になっている。なんなら、小さなベランダ柵のついた窓も、一階と二階の二つ分が壁に生えていた。
おかしい。
ありえない。
これはいつだったか、真田が説明してた『入口のないアパート』の状態だ。
「どう、なってるんだ……?」
訳がわからなくなった俺は触って確かめることもできず、二、三歩後ずさると、そのままぐるりと回れ右をして、小道を大きな通りのほうへと駆け出す。
そうしてそのまま一度小道から出ると、通りの方からぐるりと回ってアパートのあるあたりを見てみた。反対側は全く関係のない、別の建物が立っていて、アパートのほうへ通じる道らしいものは何も見当たらない。やはり出入り口となるものは小道側にしかないのだろう。
俺はもう一度小道のほうへ戻り、アパートを見上げた。
アパートはさきほどと変わらず、窓の並んだ灰白色の壁があるばかりで、出入り口となるような階段はどこにもない。
「……なんで?」
訳がわからず呆然としていると、不意にポケットに入れていたスマホが振動し、身体がビクッと跳ねる。
今日は寺町と冨上が、遠方からくる真田の両親を駅で出迎えた後、アパート近くのバス停まで一緒にくる予定になっており、そろそろバスが到着するという知らせだった。
〈寺町:出迎えよろしく!〉
スマホを見つめながら、俺は唇を噛む。
この不可思議な状況を、これからくる面々になんと言えばいいのだろうか。
混乱した頭のままで、俺はひとまずバス停でみんなを出迎えようと、そちらへ向かった。バス停はもう一つ向こうの通り沿いにあるので、もう少し進んで角を一つ曲がれば指定のバス停が見えてくる。
しかし俺は、バス停が見えてきた辺りで思わず足を止めた。
数メートル先にあるバス停の横。
そこに、鮮やかな青いワンピースを着た女性が立っていたのだ。
最後に真田の部屋を訪れた日の帰り、アパート前ですれ違ったものの、すぐ煙のようにいなくなってしまったあの女性。顔は見ていないし、今も遠くてよく分からない。しかし、髪型や体型、着ているその服と全体的な雰囲気、そして何よりあの鮮やかな青色は、あの時の女性と全く同じである。
俺は怖くてバス停にも近づけず、来た道を後退りながら曲がったばかりの角を戻っていった。
「……もう、なんなんだよ!」
バス停の見えない場所まで来ると、俺は外にも関わらず、その場にしゃがみ込んで縮こまる。
ただでさえ訳の分からないことが起きているというのに、今度はお化けかもしれないヤツまで出てくるなんて。
「……これは夢だ、夢だ、夢だ」
しゃがみ込んだまま、俺は両腕で頭を覆いながらぶつぶつと唱える。
本当に、夢ならどんなによかったか。
アパートの壁も、真田のことも、いっそ夢であればよかったのに。
俺はそのまましばらく動けず、時間が過ぎるのをただ待っていた。
十分ほど経った頃、再びスマホが振動する。寺町たちがバス停に到着したという連絡だった。
向こうが着いてしまった以上、待たせるわけにはいかないので、意を決して立ち上がり、ふらつきながらもバス停へ向かう。
角を曲がりバス停が見えたかと思うと、ちょうど停車していたらしいバスが走り去っていくところだった。幸い、バス停の前にいた青いワンピースの女は見当たらない。
代わりに、年配の男女を連れた寺町と冨上が、こちらに気付いて手を振っている。
俺は大きく息を吐くように胸をなでおろし、手を振り返しながらバス停へ駆け寄った。