渇望の始まり【ジェイル視点】
ハミルトン親子の訴えから、さらに1週間後。スフィアの肖像画が完成した。僕にとってそれはモデルとの別れでもあった。
どんな大人しい少女も、別れ話は必ず揉める。よって別れの時だけは人気のない時間を選んだ。
予想に違わず、スフィアは取り乱して
「もうここには来ないでくれって、どうして? 絵が完成したからって私たちの関係はそれだけじゃないですよね?」
「悪いが僕にとって君との関係は、よりよい絵を描くためだけのものだ。それ以外の感情は無い」
「そんな! じゃあ、どうして絵を描く以外に、私の個人的な話を聞いてくれたんですか!? 私に触れて抱いたんですか!?」
僕以外の人間にとって、相手を知りたいというのは純粋な好意の証らしい。
しかし僕が彼女たちの全てを知ろうとしたのは
「君というモチーフをより理解するためだよ」
例えばリンゴだって目で見るだけより、触れて嗅いで味わって味や硬さや匂いを確かめたほうが、より正確に描写できる。普通のモデルにそこまで望めないが、彼女たちとはその機会があった。だからやった。
それだけのことだと説明されたスフィアは「酷い!」と激高して
「つまり先生にとって私はリンゴと同じだって言うんですか!?」
「リンゴと同じわけがない。感情がある分、物言わぬ物質より複雑で面白い。描き甲斐のある題材だ」
弄んだわけじゃない。粗末にしたつもりもない。本気で興味があったから、真剣に向き合って描いた。
馬鹿にしたつもりはなかったが彼女は傷ついて
「題材って……感情があると言いながら、けっきょく物扱いじゃないですか。あなたがこんな情の無い人だなんて思わなかった」
それは彼女の観察不足だ。一度でもちゃんと僕を見れば、そこに自分が望む愛が無いことは一目瞭然だったろうに。誰も彼も僕を理解しているつもりで、実際は自分の見たいものしか見ていない。
しかし彼女たちの幻想に付け込んだのは事実だ。だから僕は理解や許しを求める代わりに
「僕が憎ければ、いつかの彼女のように訴えたらいい。コイツに弄ばれて捨てられたと。自分は教師と寝たとね」
「そ、そんなこと言えるわけ……」
「そうだね。言わないほうがいいだろう。僕がクズだと証明する代わりに、君はそのクズに穢された愚かな女になるから」
「ひ、酷い。本気で愛していたのに。初めてだったのに」
期待を裏切られて酷いと泣いて容易く嫌えるなら、そんなの愛じゃない。何度も心を引き裂かれて死ぬほど苦しみながら、それでも手放せないのが愛だ。
僕はそんな気持ちで絵を描いている。だから自分の絵に、そういう愛が欲しい。
「そんなことより、この絵を受け取って欲しい。これは君のために描いた絵だから」
しかし「先生の絵が好きです」と近づいて来た少女たちはいつも
「こんな仕打ちをしながら絵をあげたいなんて、意味が分かりません! いくら綺麗でも、こんな汚らわしい絵はいらない!」
僕が差し出した絵をバシッと叩き落し、スフィアもまた去って行った。
僕は美術準備室の床に落ちたキャンバスを虚しく見下ろしながら
「……君だって嘘吐きじゃないか」
僕の絵が好きだと言ったくせに、本当は大して興味が無い。あったとしても色恋に負ける程度。君たちが欲しいのは自分を愛する男だろう。
僕は全く逆だった。自分なんて誰にどう思われても構わない。ただ生涯に一度でいい。僕を心底憎む者さえ否定できぬような真の傑作を描きたかった。
その執念の始まりはいつだったろう。
僕は侯爵家の長男に生まれながら魔法の才が無かった。いわゆる100人に1人の無能。しかし魔法を持たない無能でも、代わりの才能があれば周囲に認められる。
僕の場合それは絵だった。両親は躍起になって僕の絵の才能を伸ばした。画材に専用のアトリエに専属の教師。果ては評価まで買い与えて。
これまで獲得した数々の賞が実は不正だったことに、僕は15歳で気づいた。しかもその不正が僕だけでは無かったことを。
審査を担当するすでに成功した画家たちの多くは、自分への支援と引き換えに、新人に賞を与えて引き上げる。
時に大してすごいとは思えない画家や絵が脚光を浴びているのは要するに金の力で、僕もそうだった。
この世で芸術だけは、そういう利害とは無関係に、真に才能だけが評価されると思っていたのに。そんなのは、それこそ美しいだけの絵空事だった。
けれど物事には必ず例外がある。無名どころか忌むべき犯罪者が描いたのに、世間に認められた名画があった。
その絵を描いたのは12人もの少女を強姦のち殺害した凶悪犯。狂暴なほどの少女への愛は、男の筆に神を宿らせた。
犯行がバレた男は死刑になり、少女へのおぞましい欲望の象徴である絵は、焼却処分を命じられた。
ところがあまりの素晴らしさに、絵を惜しんだ係の者が、密かに自分のものにしていた。
係の者の死後。事件から40年後に、家族がその絵を発見。再びどうするか審議されたが、今度は正式に焼却を免れた。例え憎むべき犯罪者が描いたものでも、処分するには忍びないほど美しい絵だと、世間が認めた証拠だった。
僕もそんな絵が描きたい。心や懐に余裕がある時だけ受け入れられるような平凡な絵ではなく、食うに困るほど窮しても、まだ手放せないような。僕を殺したいほど憎くても、その絵だけは捨てられないような。利害も善悪も全て覆す圧倒的な力のある絵を。
その試しに少女たちを使うようになったのは偶然だった。
偽りの成功を拒んだ僕は実家と縁を切って、貧乏画家になった。肖像画でも売って稼げれば良かったが、僕は絵への執着が激しすぎていい作品は手放せない。逆に適当な絵を自分の作品として世に出すことにも耐えられないので、商売にするのは無理だった。
だから絵そのものではなく、知識と技術を売ることにして美術教師になった。
給料のほとんどは最低限の衣食住と高価な画材や画集や展覧会のチケット代で消えた。僕に好意のある女生徒はタダでモデルになってくれたので、自然と彼女たちを描くようになった。
最初はひたすらに絵を描いていた。密室に酔わされて誘って来たのは少女のほうだった。
性欲は乏しかったが、スフィアにも言ったとおり、モチーフをよりよく知る機会だと思った。名家の子であれば婚前交渉したなどと言えまいという打算もあった。
思ったとおり、目で表面をなぞるだけより、いい絵が描けた。加えて僕への甘い期待が、彼女の表情を輝かせた。
そして最後。卒業後は当然、僕と結婚できると思い込んでいた彼女に、その意思は無いと伝えると
『何よ! 少し絵が上手いだけの美術教師風情が! 筆一本で生きて行けるだけの実力も無い癖に! 私よりも絵を選ぶなんて気取らないでよ!』
あれだけ『先生の絵は素晴らしい』『世界一の画家です』と熱心に褒めてくれた彼女が、それまでの評価を覆し、僕の絵を床に叩きつけて踏みにじった。
でも、これこそが真の評価だ。怒りに任せて踏みつけにできるような絵には価値が無い。
僕の憧れの絵が焼却を免れたように。真に力のある絵なら僕の死を願うほど怒り狂っても、きっと激情のまま傷つけられない。
僕はこの体験を忘れられず、何度も繰り返すようになった。彼女たちが僕への愛を失った後も、作品を評価してくれるのか知りたくて。
しかし結果は全敗。どれだけ心血を注ごうと、今度こそはと期待しても、僕の筆に神は宿らない。
それでも一生を費やせばいつかは、という想いが消えない。だから僕はきっと、これからもこの愚かな試みを続けるだろう。
傑作を描きたいという執念と、本当の評価を知る機会が消えぬ限り。




