90・狩猟
酒場の前の闇にローズが姿を現したのが分かった。
すぐ僕の側に駆け込んで来る。
「ローズ、どうした」
【かーちゃん】
グルカも立ち上がり、ローズに駆け寄る。
【西から嫌な気配が近付いて来る】
「くそっ、やっぱりか」
猟師たちも顔つきが変わった。
「準備に掛かれ」
タモンさんの一言で皆が動き出す。
「アーキス」
僕は出て行こうとしていたアーキスを呼び止めた。
「なんです?」
「一応、放鳥場を確認して来て欲しい。 グルカを付ける」
「へいっ。 グルカ、来てくれ」
グルカがサッとアーキスについて外に出て行った。
酒場の隅に不安そうにアーリーたちが固まっている。
「心配いらない。 辺境地のいつもの光景だよ」
そう言って僕は微笑んで見せる。
「魔獣の被害なんて、いつ起こるか分からない。
装備に時間が掛かる兵士より、住民ですぐに動ける猟師たちのほうが使い勝手がいいんだ」
僕がローズの背中を撫でていると、アーリーが近寄って来た。
「ロージー、久しぶりだね。 いつもリブを守ってくれてありがとう」
ローズはふわりと尻尾を振って、アーリーの顔を舐めた。
「ダイヤーウルフですよね。 今、問題になっているのとは違うのですか?」
ワイアットは少し混乱しているようだ。
「僕がこの領地に赴任した時に、自分が飼っていたこのローズを山に放して群れを作ったのさ。
その群れから若い狼たちが離反したようで、それが西に姿を見せ始めていたんだ」
ある程度、群れが大きくなると分離することはある。
しかし今回の狼たちは人間に慣れた群れに対して反発しているのだ。
「人間、または家畜を襲う危険がある」
相手はまだ未熟な狼魔獣だ。
「倒すのは何とかなるだろう。 でもそうなると瘴気が異常発生し、森に瘴気溜まりが出来る」
下手をすると、より強い魔物を生む可能性まであるのだ。
「イーブリス様、準備が出来ました」
揃った猟師たちを見回して、僕は頷く。
「僕の我が儘ですまないがダイヤーウルフは出来るだけ捕らえてくれ」
怪我をさせて無力化するように頼む。
「へい」
まあ、一番の問題は、僕がその狼たちを討伐したくないということなんだが。
猟師たちが外に出て行く。
「エイダン、頼みがある」
「はい」
一歩前に出た大柄なアーリーの従者に僕は頼み事をする。
「アーリーとワイアットを連れて館に戻り、僕が山へ向かったことをスミスに伝えて欲しい」
「承知いたしました」
「えっ、俺も行きますよ」
騎士であるワイアットが名乗り出る。
「すまないが、相手は魔獣なのでそれ相応の装備が必要になる」
ソルキート隊長がワイアットを止めた。
「ついでで悪いが領兵で酒を飲んでいない者に声を掛け、町と館の警備を強化して欲しい。
必ずしも山へ向かったとは限らないからな」
もし町や館が襲われたら被害が出る。
特に今は殿下がいるのだ。 怪我などさせられない。
「わ、分かりました」
アーリーがチラチラとこっちを見てるけど、連れて行かないからな。
館を出た時点で、僕はある程度の装備は身に付けて来た。
武器は要らない。 魔法と体術があるからね。
町中とはいえ、辺境地の夜だから警戒は怠らないことにしているんだ。
「じゃ、殿下たちには適当に誤魔化しておいて」
「分かりました」
タモンさんの店の前でアーリーたちと別れる。
エイダンが礼を取り、ワイアットとアーリーの腕を掴んで館へと向かって行った。
その背中を見送る。
「行こう」
僕たちは山に向かって歩き出す。
結界を抜けると、ゆっくりと進んでいたローズの足が早まる。
「ローズは先に洞窟に戻れ。 リルーたちが心配だ」
立ち止まって僕を振り返り、少し迷っていたがローズは頷いた。
【うん。 気を付けて】
「ああ、また後で」
西から不穏な空気が流れて来るのが分かる。
僕たちはそこから西へと移動する。
途中でグルカとアーキスが合流した。
「放鳥場の周囲に張ってあった罠に何かが掛かったみたいです。 でも逃げたようで姿は見えず、血の匂いがしてました」
暗いから詳しいことが分からないのは仕方がない。
西の温泉施設の猟師に警戒するように伝えて来たそうだ。
「そうか、ありがとう」
やはり魔獣のことになるとアーキスは頼りになる。
「はあはあ、ちょっと休ませて」
【とーちゃん、こいつ弱い】
走り回って疲れたようで、座り込んだアーキスをグルカが馬鹿にした目で見る。
やめてやれ、魔獣と人間じゃ体力が違い過ぎるだろ。
「しかし、手負いですか。 ちょっと厄介ですね」
ソルキート隊長がタモンさんと顔を見合わせ、猟師たちは警戒を強めた。
その時、
ウォーーーン、ウォーーーーン
遠吠えが聞こえる。
「あれは、リルーたんだ!」
アーキス、ウザい、キモい。
確かにリルーだけど。
「動くな!」
僕は、立ち上がり駆け出そうとするアーキスを止める。
すぐ近くで血の匂いがした。
アーキスたちを追って来たのか。
洞窟にも異変があるとしたら、こっちにいるのは別ということになる。
ガサリと音がして真っ黒な体毛をした、大きな熊が現れた。
「森林熊じゃねえか。 こんなのデカいの見たことねえぞ」
年寄りの猟師が呟いた。
曇っていた空から光が差し、闇夜に月が顔を出す。
黒い体毛にギラギラと血が流れている。
「アーキス、ゆっくりと離れてリルーのところへ。 グルカ、お前もだ」
「う、うん」
【やだ、とーちゃんといる】
グルカは低く唸りながら熊を牽制し始める。
「お前じゃ無理だ、こいつは僕たち人間で倒す。 グルカ、洞窟の仲間を守れ」
そして俺は前を向いたまま猟師たちに指示を出す。
「僕が足止めする。 後は頼む」
猟師たちとソルキート隊長が無言で頷くのを感じる。
正直、僕の風魔法だけではどれだけ止められるか分からないけど。
「行くぞ!」
僕は魔力を開放し、熊の血が流れている傷口に向かって手を払った。
同時にアーキスとグルカが駆け出して行く。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
獣の狩猟で猟師たちは本領を発揮する。
一斉に弓が放たれた。
グギャアアアアア
厚い毛皮に阻まれたが、爛々と光っていた熊の片目に一本の矢が突き刺さる。
恐らく罠で出来たであろう傷は首の背中側だったようで、イーブリスは細かく風を起こしながら背後に回る。
片目を潰された熊が、動く気配だけでイーブリスを追うように身体を動かす。
「イーブリス様!」
デカい図体をしている熊でも案外動きが早い。
ガアアアアア
鋭い爪を振りかざした熊が体重を掛けて振り下ろした腕は地面に叩き付けられる。
イーブリスはその僅か横に立ち、冷静に熊の首に魔法を至近距離から放つ。
グアアアア
雄たけびは悲鳴のように響き、熊の動きが止まる。
熊の首はぶらりと垂れ下がったまま地面へと身体ごと倒れた。
「おおおおお」
「やったああ」
猟師たちの声がする。
「大丈夫ですか、イーブリス様」
ソルキート隊長がイーブリスに近寄る。
黒い血溜まりが月の光に不気味に光り、濃い瘴気が渦巻く。
「皆、離れろ」
イーブリスが叫んだ。
「へっ」「ひゃああ」
死に切れない魔獣が身体から瘴気を立ち上らせ、最後のあがきのように身体を震わせる。
人間への強い恨みが瘴気を呼び、ますます膨れ上がった。
「くそっ」
このままでは魔物が発生しかねない。
「させるか!」
イーブリスが熊魔獣の身体に取り付き、まだぶら下がったままの首を抱えて身体を足で蹴り、伸び切った首の肉にもう一度魔法を叩き込んで切り離す。
地面に落ちたイーブリスの身体が熊の血に塗れると同時に瘴気の渦が消えた。
猟師たちが、念の為、脇や傷口から心臓部に目がけて何本も槍を突き刺す。
タモンはイーブリスの身体を抱えて少し離れた。
「まったく、とんでもないことをなさる」
ソルキート隊長はイーブリスの顔を覗き込み、血で汚れた顔を拭う。
「えへへ」
ニヘラと笑った少年に、猟師頭と領兵の隊長が同時に呆れた。