鏡面に爪痕 -03-
王妃は、絢爛な容姿を保つことを徹底して、己に課した。社交界で噂の美容クリームがあれば取り寄せて塗り込み、よい香りがする香油で髪に艶を出す。吟味した美しいレースや、与えられた宝石で身を飾る。
彼女は輿入れしてからほんの少しで、田舎の素朴さを捨て去り、大国の王妃に相応しく、あっという間にあか抜けて見せた。
「鏡よ、鏡、この国で一番美しいのはだあれ?」
鏡に映る姿を見て、問いかける。
「それは、あなたです。お妃さま、あなたはこの国で一番美しい」
答える言葉に、喜ぶのではなく安堵する。
「そうよ、私は美しい。だってこんなに努力しているもの」
その甲斐があってか、輿入れから三度目の夏至祭が開かれる頃も、王の寵愛は醒めることなく、足しげく王妃のもとへと通う。そして、その頃には、彼女の王に向ける愛は、きわめて受動的なものとなっていた。
口答えをしてはいけない。反抗をしてはいけない。裏切ってはいけない。幻滅させるような真似は、一切してはいけない。彼が己に抱く、全ての夢想の受け入れ、それら全てを反映すべくただそこに存在しなければならないのだ。
そこに、王妃の意思や人格は必要とされず、まるで、人形 ―― さもなければ、死体のようだと思う。それでも、王妃は、王を受け入れ、なにより、望まぬ行為に安堵するのだ。
冬でなくとも、どこかふさぎ込みがちな王妃だったが、彼女の心を慰めるのは小さなお姫さまの存在だった。あの冬の日から、白雪は新しい母によくなついた。
事ある毎に、それこそ、庭で珍しい形の石を拾ったからと、そんな些細な理由で、王妃を尋ねては纏わりつく。白雪の教育係は良い顔をしなかったが、当の王妃は、自分に向けられる好意を無碍にすることなく、その時ばかりは、自身を手入れする手を止めて、彼女が差し出す、何の変哲もない小石を褒めた。
ある日、白雪がいつものように、自分が種を植えた花が咲いたからと言って、一輪の花を片手に優しい王妃を訪ねた時、彼女は珍しく髪を下ろしていた。手元には、銀の盆に並べられた、手鏡といくつもの櫛、そして華奢な造りの硝子瓶。
「お母さまは白がお好きよね?」
王妃は差し出された白い花を笑顔で受け取ると、柔らかな花弁に顔を寄せる。目を閉じて、香りを楽しんだ後、銀盆の上に櫛と並べた。
「姫、お花が増えたわ」
磨きこまれた銀盆は、花を反射している。鏡面に映った花に指先を滑らせながら、悪戯っぽく笑う王妃に、白雪はぱっと弾けるような笑みを浮かべて見せた。
「お母さま、きれいな髪!」
王妃は、自身のライ麦色の髪が、白雪のお気に入りであることをよくわかっていたので、伸ばされた手が波打つ髪に触れることを咎めなかった。
「いい香りでしょう?新しい香油を手に入れたの」
そう言って、香油瓶の蓋を開け、己の髪に戯れる白雪に差し出す。ふわり、とハーブの香りが白雪の鼻腔をくすぐる。小さなお姫さまは、うっとりと目を細めて、香りを楽しむために頭を振った。幼いながらも、淑女の仕草に、王妃は笑みを浮かべる。
「姫の髪もとかしてあげる。いらっしゃいな」
銀の盆を携え、カウチへと移動する。王妃の揺れる髪にじゃれつくように、白雪は王妃の後を追う。王妃は、小さな姫を隣に座らせると、一番大きな荒歯の櫛を手にして、香油を垂らした。
「櫛の歯と歯の間が大きいものから、小さいものへ順に使うのよ」
王妃の水晶のように磨きこまれた爪が彩る指先が、白雪の黒髪を掬う。
「本当に黒檀のように美しい黒髪、もっと細いものからでもよかったかしら?」
王妃の言葉に、白雪は視線を銀の盆へとむけた。曇りのない銀盆には、一番小さなボタン程度の隙間が空いた荒歯から、ようやく髪の1本が通るのではという細歯まで4本の櫛が並べられている。一番大きな櫛は、王妃の手の中。全部使えば、5回も髪を梳いてもらえるのだ。
「だめ、順番にして」
幼い白雪のわがままに、王妃はその意図を理解しているのか、していないのか、優しく笑みを浮かべて快諾した。
王妃は丁寧に白雪の髪に櫛を通す。細かな櫛の目が引っかかれば、その細い指先で絡まりをほぐしながら。
「あなたも、いずれ、殿方のために髪を梳かすのよ」
王妃の言葉に、白雪は不服そうに鼻を鳴らした。
「白雪はいつまでもお母様にしてほしい」
甘える言葉に、王妃は唇の両端を持ち上げる。そして、小さなお姫さまの髪を優しく撫でた。
「本当に、黒檀よりも艶のある、きれいな黒髪ね」
王妃は指先からこぼれるシルクのような黒髪を見つめる。本当に美しいそれは、王の寵愛を得た先の王妃から譲り受けたものだろうか、と思い至り、思わずそれから目をそらせば、今度は、肩に流した自分の藁色の髪が目に入った。白雪の弾力のあるしなやかな髪とは違い、細くうねりやすい髪だ。
なぜだか、今すぐにでも立ち上がって、鏡の前へ行き、尋ねたくなった。
「鏡よ、鏡、この国で一番美しいのはだあれ?」
きっと、魔法の鏡は、いつものように答えてくれるはずだ。
「それは、あなたです。お妃さま、あなたはこの国で一番美しい」