鏡面に爪痕 -01-
王が新しい妃を迎えたのは、先の妃が亡くなって、おおよそ一年後だった。前王妃の愛娘である白雪が、ちょうどお人形に着せたドレスのリボンを結べるようになった頃である。
新しい王妃は、恋も知らないような、まだ稚けなさを残した少女で、その婚姻は明らかな閨閥結婚であった。
豊穣を思わせるライ麦色の髪と、木の実のような丸い目を持つ彼女は、小さな頃からその見目麗しさは誉れ高く、そして、それゆえに不幸だった。
もし、彼女の祖国が貧しい国でなければ、そうでなくとも、彼女が人好きのしない容姿であれば、きっと、両親は、娘よりも自身と年が近い王の、さらに後妻へと差し出す必要はなかっただろう。
彼らは綺麗な娘と引き換えに、隣国からの侵略に対する安全と、先進国の治水の技術と、そして、それを行う財力を手に入れた。
少女の容姿が祖国を救ったのだと、彼らは嫁ぐ娘に言い聞かせ、その麗しさを保つようにと、不思議な鏡を授けた。
それは、問いかけると、真実を答えてくれるという魔法の鏡である。
「鏡よ、鏡、この国で一番美しいのはだあれ?」
国を発つ前日に、少女は鏡に尋ねてみた。そうすると、まだ甘い少女の声に鏡は答えたのだ。
「それは、あなたです。姫君……いいえ、隣国のお妃さま」
輿入れの日のことである。緊張した面持ちの若い王妃は、この日のために誂えられた衣装と、唯一の嫁入り道具である鏡を手に、自分の倍以上の年齢の王のもとへと嫁いできた。
王妃の幼さを残した顔立ちには、大いなる諦観とわずかな期待がまじりあっていた。
まだ、恋も知らぬ間に、国の重大な責任を背負ってしまったのだ。自身の行動が、祖国の命運を握っていることを、彼女は正しく理解できるほどには大人であり、一方で、まだ己の万能感を信じる育ちの良い子供だった。
何より、相手は、祖国を救い、守ってくれる王である。
優しい人だろう。
また、前妻との間に、小さなお姫さまがいるのだと聞いた。
仲良くなれるといい。
そう信じて乗り込んだ白馬が繋がれた馬車を迎えたのは、自分の父よりも幾分か年若い王様と、自分の妹と同じ年に生まれたのだという小さなお姫さまだった。
王は、若い王妃の手を取り、目を細めた。しかし、その笑みは、期待していた傷ついた羊に手当を施す慈しみからの微笑みではなく、香ばしい料理を前にした舌なめずりとともに浮かべるものに近く、王妃は身を竦ませた。
「噂に聞いていたより随分とお綺麗だ」
一方的な賛辞に、彼の視線の行く先は、まだ小さなふくらみを押し上げた胸元あたりを漂うばかり。決して、王と王妃の視線が交差することはなかった。寄る辺なしに、伏せた視線の先には、小さなお姫さまがたたずんでいる。お姫さまは、血を塗ったような赤い唇をわずかに開き、上気した頬は血の色を透かして、初めて出会う王妃をじっと見つめていた。
見知らぬ人が珍しいのかもしれない、と警戒心を抱かせないよう、王妃が笑みを浮かべて見せれば、王もまた、幼い娘の存在を思い出したように姫君を振り返る。
「娘の白雪だ。仲良くしてやってくれ」
ぞんざいな仕草で背を押された白雪と呼ばれた姫君は、はっとしたように、瞬きを一つ。その小さな指先でスカートの裾を持ち上げて礼をした。ほほえましい挨拶に、王妃は、この娘にとって良き母親になれればいい、と願った。
「仲良くしてね、白雪姫」
婚礼の儀は滞りなく行われた。一方的に貪られるようなその行為は、少女が抱いていた幻想を打ち砕くのには十分だったが、やがて諦め、現実を受け入れた。