8・団長、あるいは逆さ男
門に、閉めるべき扉が無い場合、それは門と呼んでいいのだろうか。
北門を見るたびに、そんな疑問が脳裏に浮かぶ。
この街の北門には、門柱しかなかった。
鍵も扉もそこには無く、大人たちの背丈より少し高い、そこかしこが欠けてしまった古い門柱が二本、ぽっかりとした距離を空けて立っている。
門の先にあるのは外の世界。外の世界に灯は無いようで、二つの門柱の間には、まるで黒いゼリーのような粘ついた暗闇の壁がそびえていた。
北門が壊れてしまったのは随分と前の事で、シロが一千二百夜ほど前、散歩中に辿り着いた時にはもうこの有り様だったらしい。
なんで直さないのだろうか、という僕の問いに、外に出るような気概のある大人なんて居ないから閉める必要もないんじゃないの、とシロは予想を答えた。
暗い人々の様相を思い返すに、まったくもってその通りだと思う。
僕らは二本の間に広がる暗闇をめがけ、進む。
門柱が近くに迫ってきた。
この暗闇の向こうに、隣街がある。どれほど歩けば着くのだろう?
分からない。隣街について団長に尋ねても、何も教えてくれなかった。
そもそも、隣街はどんなところなんだろう?
この街から去った青空が居るのだから、きっと華やかで、影が居場所をなくしてしまうぐらい明るいのだろう。いや、却って、どこもかしこもまばゆい青ばかりで、目が痛くなってしまうような光景なのかもしれない。
街が華やかなら、人々もまた賑やかなのだろうか。
隣街の大人たちは俯いて歩かず、その目には物や僕らがちゃんと映る?
大人だけじゃない。僕ら二人以外の子供も居るのだろうか。彼らに会えたとして、僕はともかく、シロはうまくやれるだろうか?
そして何より、本当の青空とはどういうものなんだろうか。
暗い人たちが僕の空に向ける、崇拝にも似た憧憬、そして彼らが持っているという本当の空の記憶が正しいのなら……青空というものは、僕に流れる青い彼らとそっくりで、そして彼らを、右目に映る右端から左目に映る左端まで、雄大に広げたような存在なのだと思う。
そんなことを夢見ていたせいで、僕は前が見えていなかった。
鼻っ柱を何かに勢いよくぶつけ、僕は弾かれて後ろに転んだ。両手を路面につけて、尻餅をつく。
門柱にでもぶつかったのだろうか。でも、それにしては柔らかい感触だった。僕がその疑問の答えを見つける前に、答え自身が僕の右手を握って身体を引き上げた。
立ち上がった僕の目の前に、二本の門柱に挟まれた暗がりに、団長が立っていた。
***
僕らは団長のことを、逆さ男とも呼んでいた。
このあだ名からあの人の容貌を想像するのは難しいだろう。でも、団長を知っている人からすれば、これ以上にしっくりと馴染む名もないはずだ。
団長は顔が上下逆さまについている。
四角く角ばった顎がてっぺんに、1mmも残さずに毛髪を剃り尽くした頭頂が首の上に乗っている。団長が口を開くたびに、その身長が少し伸びたり縮んだりする。
その様子は滑稽でありながらも妙に不気味で、本人もそれを自覚していたのか、団長はいつも黒い帽子を目深にかぶっていた。
帽子のつばのすぐ下に、洞穴から外を覗う蝙蝠のような目が鋭く二つ覗いていて、口は帽子の中に押し込まれている。おかげで団長の声はいつでもこもり気味で、なにか話すたびに帽子がカコカコと揺れた。
僕もシロも団長その人について、個人的な話はついぞ聞いたことがない。
本当の名前さえも、知らないぐらいだ。
***
僕は黒目だけを動かしてシロを探す。
左手首は自由になっていた。シロは上手いこと逃げおおせたらしい。
ほっと一息つくと、正面に立つ、赤と黒を足して割った色の外套を羽織った男を見る。
「戻りなさい」団長の声は、口が上の方に付いているせいで、より高い場所から降ってくる。
「嫌です」ただのワガママなら何度も二人で仕掛けたけれど、これはそんなものじゃない。
膝がぐらついて、靴の裏の下の路面の感触がぐにゃぐにゃと歪む。でも。
「何故?」
「戻りたくないからです」他の理由もあったはずなのに、口から出たのはこれだった。
「理由になっていません」僕が言い終わるや否や、即座に否定する。
「僕らの感情は理由にならないんですか?」それは思いがけず、射掛ける矢のような言葉だった。
団長は黙る。逆さまの目は気難しそうに細められ、その視線は彼の脳内にしまわれた物事を探り、触り、思案する。
口は帽子に隠れて見えない。ただ、苦悶に歪んでいるような気がした。
「空を見たら、帰って来ますから」
「帰ってきません」その声は少し聞き取りづらかった。
「そうかもね」僕じゃない。団長の背後からの声。
団長が大人外れの速さで振り返ろうとすると「動かないで」とまたシロの声がした。
団長は諦めて僕の方へ向き直る。やけに従順だ。
「あなたにも怖いものはあるみたいね。やっぱり、刺さったら痛いのかしら」刺さる物。それなら、シロの言葉以外に、身近な物がひとつある。
「シロ、それは」本来なら僕が持つべき物。
「あなたのナイフ、借りたわ」
何も聞かされていない。肋骨の内側から、じんわりと微熱が込み上げた。
「私たちを連れ戻して、また見世物にするつもり?」シロは刃を団長の背につけたまま、問う。
「そうです」覚悟を決めたように淀みなく答えるけれど、それが却ってわざとらしく聞こえた。
「お断りするわ」にべもなく。
「あなたは私たちに……特に私に、色々とくれたけれど」
「どれもこれも下らない自己満足の塊。罪滅ぼしの真似事で気分は晴れた?」
僕らの足元に、門の周囲に横たわる路面は濡れそぼっていた。その灰を足から吸い込んだシロの、ダークグレーの声だけが着々と重ねられていく。
僕はそれを止めようとも促そうともしなかった。
「私が欲しかったのは、あなたが押し付けた色じゃない」
団長は呻き声に近い何かをあげかけて、しかし途中で遮られる。
「愚かなフリはやめて。ずっと分かってたクセに!」美しく真っ直ぐ垂直に、糾弾が彼を貫く。団長は遮られた言葉を、そっと外套の陰に打ち捨てた。
「ソラ、走って」呆然と眺めていた僕を、現実に引き戻す声。
「色が消えたら、追いかけるわ」
「だから、早く外へ」外へ、門の外へ。隣街へ。本当の空へ。
「この街を出るのよ!」この街を捨てて。
僕は鞄を開けて、無造作に空瓶を一つ、路面にそっと転がす。ころころ、ころころと、音を立てて、団長の案山子じみた片足にぶつかった。
まるで他の暗い人たちと同じように、大人らしく大人しく、団長はのろのろと瓶を見下ろす。外套が力なく垂れていた。
「ソラ?」疑念と怒気の滲んだ声が僕を押す。
「それは多分、消えませんから」
「……それでは」僕は一歩踏み出し、歩き、走る。
団長の外套を少し掠めた時、それは無抵抗に揺らめいた。
体が門をくぐり抜けていく、街の匂いが薄らいでいく。
知らない香りが空気に混じる。
外へ。