7・見上げる男
六本目の裏路地を抜けると、北門へと緩やかに曲がりながら伸びる大通りに出た。
シロは僕の左手首を、通りに沿うよう導く。ここからはこの大通りを行くしかないようだ。
僕は左手首を引かれながら、右曲がりの歩道を進む。通りに人影はない。そういえば、門に近づけば近づくほど、暗い人たちの姿を見なくなっていったような気がする。
五本目の灯が落とす、うすぼんやりとした光の輪から僕の左足が出たとき、この通りで初めての人影を見つけた。
彼はこちらに背を向けて、北門の方を向いている。
シロの足が止まる。握る指先に警戒の気配。
「他に道は?」僕は密やかに訊ねる。
しばしの沈黙。
背後で電灯がじりじりと明滅し、僕の足下に伸びる影が暗闇への出入りを繰り返している。手持無沙汰になった僕は鞄を軽く振って、からからと中の空瓶を鳴らした。
シロはそれでも動かない。
四回ほど僕の影が消えた頃、シロは逡巡を捨てて、道なりに歩き出した。シロの地図にも他の道は載っていなかったらしい。
僕らは暗い背中に近づいていく。
その背中は男だと、それなりに近づいてようやく分かった。彼は立ったまま、ぼんやりと揺れている。
灯を三つ越えて、男の横を通り過ぎる。
横目に表情を伺うと、そこには何もなかった。彼は何の表情も浮かべずに、見ているのかいないのか、そもそも見えているのかいないのか、それすらも判然としない目付きを北門の方へと向けていた。
彼の視界を真似してみても、消えそうな星を飲み込みそうな空が天井のように被さっているだけだった。
シロは彼を注意するに値しないと判断したようで、その視界に入っても足を止めなかった。遠のく背景に男の気配が溶けていく。
僕も概ねシロと同意見だったが、それでも万全を期しておきたかった。彼の気配が完全に消えてしまうその寸前に、振り返って彼の下へと戻ることにした。
戻ろうとした僕の左手首がくいと引かれ、立ち止まる。僕は鞄を揺らしてきらきら鳴らす。ガラス同士の当たる音。
「念のため、だよ」左手首のすぐそばに広がる空間にそう言って、僕は再び歩き出す。左手首に抵抗はなかった。
北門を向く男の前に、見える僕と見えないシロが立った。
しかし彼は、僕もまた透明であるかのように、見えもしない青空を見やるだけ。
「こんばんは」僕は何気ない調子をつくって挨拶する。この街での挨拶はいつ何時だって「こんばんは」だ。
彼はこのとき初めて僕に気づいたようで、のったりと鈍重な動作で顔をこちらに向けた。その口元からのっそりとした呼吸音が聞こえて、辛うじて生きていることがどうにか実感できる。
僕はその顔に見覚えがあるような気がしたが、暗い人たちはみんな同じにしか見えないせいで、はっきりとは思い出せなかった。男は挨拶を返さずに、曖昧な顔で僕を見る。
「僕の事は知ってるでしょう? 見世物小屋のソラです」
やはり返事はない。彼らが価値を見出だしているのは、僕ではなく僕の空。
僕は呆れ顔にならないように気を付けながら、鞄を開く。左手首の透明な手は自然と離れてくれた。
鞄には、七本の空瓶と、雑多な荷物がそれなりに整理されて、しかしそれなりに乱雑に詰め込まれていた。僕のナイフも入っているはずだけれど、どうやら奥の方にしまわれてしまったようで、一見した限りでは見当たらない。
僕は空瓶を一本つかんで、鞄を閉じた。
「空が欲しくはありませんか?」空瓶を指でつまみ上げ、彼の目の高さでぶら下げてやる。
瓶が揺れると、中の青空に突風が吹き抜けた。雲が東から西へと流れ去り、太陽が途切れ途切れに陽光を落とす。
男は羨ましげで妬ましげな表情を浮かべて空瓶をじっと見つめる。空瓶は目の前なのに、高く見上げるような目線。
しかしどんなに焦がれようとも、彼は手を出さなかった。彼の右手左手は、使い古しのロープのように、だらりと垂れ下がったままだ。
「この空はあげますので、僕らのことは黙ってて下さい」僕は空瓶を振りながら言う。振り乱される空に合わせて動く男の緩慢な目線は少し滑稽で、微かに不愉快だった。
僕は男の右手を掴んで引き上げ、その手のひらに空瓶を押し込む。そして落とさないように握らせてやる。
すると、その男が初めてまともに動いた。
男は右手に入った空瓶を、僕がやったみたいに、指でつまみ上げる。腕はそのまま上へと伸ばされていき、青い空瓶が暗い空へと近づいていく。その腕は、僕の手では届かないところまで持ち上がって、ようやく止まった。
そして男は夢見るように、空へとかざした空瓶を眺める。
僕はその反応に心地よい手応えを感じてほくそ笑む。どうせ、彼の目には映らない。
「それで、僕らのことは内密に。いいですね?」
男は空瓶から目を離すことなく、おぼろげに頷いた。煮え切らない応えだけれど、これ以上を要求するのは酷だろう。
「ありがとうございます」ひとまず、おざなりに礼を言っておく。
この礼には、何も返ってこなかった。
「そんなに青空が好きなら、何で隣街に行かないの?」からころと小石が転がるような声。僕じゃない。
僕の左隣に、淡い煉瓦色を帯びたシロが居た。
彼女に踏みつけられた煉瓦たちはわずかに色を喪っていて、その下に敷かれた地面の、黒に近い茶色が透けて見えていた。
「青空は隣街に行ったんでしょ、なら、追いかければいいじゃない。ただ見てるだけじゃなくて」強い語勢でありながら消え入りそうな声で彼女は問う。
答えはなかった。男は空瓶を見ていた。
シロは不満げな唸り声をあげながら色を捨て、見えなくなる。
僕は何も言わない。気持ちは分かるが、無駄だってことは分かり切っていた。
「その瓶は、他の人に見つからないようにしてください」
男の反応を伺うことなく言葉を継ぐ。
「他の人に見つかると、空を奪われますよ」
仮面じみた表情が動く。僕は思わずほくそ笑んだ。
見えない手指に左手首が掴まれて、北門へ向かう道へと引っ張ってきた。
僕は男とのやりとりを切り上げ、一歩目を踏みしめる。
歩く。歩く。男が僕らの意識から消えていく。
それと入れ替わるようにして、北の世界が、北へ伸びる街道の行く先が、僕らの意識へと滑り込む。