25・青空を、この手に
シロは僕が握ったままの左手を持ちあげる。少し沈んだままの僕と沈まないシロはちょうど同じ背丈になっていて、僕らの目線は水平線でかちあった。その中間に、手が昇る。
「よく見失わなかったわね」
「際どいところだったよ。君が嫌がる理由が、やっと分かった気がする」夜になったシロの存在を勝ち得るために捧げた祈りは、まるで荒唐無稽な妄想を現実に留めようと足掻くような行為だった。
だけれど、僕はもう一つの妄想を右手首に流していた。
「ありがと」笑みのようで笑みでない柔和な表情。
「どういたしまして」
「それで、ここからどうするの?」そう、ここからだ。
「僕の手を切ってほしい。望遠塔でやったように」
それを聞いたシロは決然と頷き、その肩から膝下まで覆うカーテンによく似た服の右腰に備え付けられたポケットから、見えないナイフをするりと出す。「このまま切ればいい?」
「いや、僕の手をもう少しだけ、透明になった所に近づけてくれないかな」
シロに手を引かれる形で、僕らは海岸へと一歩進む。繋いだ手が、かつては夜色だったガラス色の空間へと入り込む。
僕に透明は見えない。それでも、その空間がぽっかりと丸く、夜色でなくなっていることはなんとなく把握できた。
「ここね」
「ああ」
見えない刃を握った緑の右手が僕の手首へと近づいていく。刃先が僕の青白い肌をなぞる。二度目になってもやはり手つきはぎこちなく、僕はここでも喉元を焦がす焦れったさに苛まれる羽目になった。僕がやる、と言えたらどんなにいいか。
僕の手首に仄かな痛み。そして波打つようにぶれた一本の線が引かれ、やがて線は青い口を開く。開かれた口を左手指でさらに押し開き、その裂溝から、僕の空が雲と風とを包んで流れ出る。それは青い油絵の具を溶かした液体じみていて、僕の呼気が吐き出されるたび、大きな流れの波となって噴き出した。
液状の青空は、下に、海面に吸い落されなかった。
その代わりに色を喪った夜がいる空間へと流れこみ、現れた青色は奪われた夜色の代わりに透明な闇に色を塗っていく。青空はガラスに注がれるようにして透明な空間を隙間なく満たし、そしていつしか、膨らませた風船ぐらいの大きさをした青空が、夜塗れの暗がりに生まれた。
青空ではいつものように、あの塔でも見たように、朝まだきから午前へ昼へ、鳥が舞い雲が飛び、そして陽光が見る者すべてに降り注いだ。
僕は左手の人差し指と中指で、右手首の傷をそっと撫ぜる。傷は最初からなかったかのように跡を濁さずに消える。
だけど青空は消えなかった。青空を沈め飲む夜色は、その円形の空間にはいなかった。
ふわふわと丸っこいその青空は、夜に飲まれることもなく、月明かり以外の光が差さないはずの海岸に、白い陽光を配りまわるように差し込ませた。
僕らは互いに手を離さぬまま、声にならない感嘆の声を子供っぽくあげる。
「できた」きっと僕は、まさしく太陽の如く笑っているだろう。喜びの波が僕を打ち、空へと打ち上げてしまいそうだった。
シロは消えない青空をぱちくりと眺めている。「これは……」
「青空だよ、僕らの青空!」僕は青から春めいた息を吸う。「それも消えないやつ! ずっとある空、夜に負けない青だ!」
「消えない……」急かされるようにナイフをしまったシロは、青空を慎重につつき、触り、そして満開の手のひらを差し入れた。「暖かい」そう言ってほのかに笑いかける。僕は笑い返すまでもなく、ずっと笑みを浮かべたままだった。
青空が差し入れた陽光のおかげで、僕らの全身が見通せるようになった。僕はあちこちに黒い砂をつけ、濡れていない部分が一片もない自分の有様に、更に笑った。
「……夜になった甲斐が、あったわ」光が赤い彼女の顔を照らす。うららかな光の中、暖かな瞳が光る。手は青空に入れたまま、揺らめくように遊ばせる。風が雲が指の隙間を通り抜け、枝分かれをして流れ去っていく。
「塔の屋上で青空を見たとき、こうなったらいいなって思ったんだ」
僕も左手を風船型の青空にひたす。何かがはっきりと手に触れるわけじゃない。だけど、その場に遊ぶ軽やかな暖気はこの手すべてを抱くように包み、僕は僕が僕に帰ったような懐かしくも心地よい感慨でいっぱいになった。
「消えない青、夜じゃない空、色んな物がもっと、よく見える世界」僕は塔のてっぺんでそんな世界の夢を見た。
「夜じゃない、世界」そして今は、そんな世界に二人で行きたいと願っている。
「これなら、もしも隣街……から帰っても」シロが言う。「青空を、見れるわね」
「僕は世界をこうしたいんだよ」
「大きく出たわね」
「かなりね」
シロはたなびく雲を掴もうとして、するり逃げられる。僕は逃げ出した雲を受け止め、手のひらにぶつかった雲は三々五々と散りながら、やはりするり逃げていく。僕は不意に拳を握ってやり、雲の尻尾を捕まえる。
「手伝ってくれるかい?」
「その馬鹿でっかい絵空事を?」
「うん」僕が拳を開くと、そこにはもう、白い雲は居なかった。
「具体的にはどうするつもり? 片っ端から夜色を奪え、なんて言うつもりじゃないでしょうね」
「それしか思い付いてないんだ」
シロは生ぬるい表情を浮かべ、僕を三度海に叩き落とす……素振りだけをした。
「やっぱり駄目?」
「夜男にも相談してみましょ。今のままじゃちょっとね」
「協力する気はあるんだね?」
「やぶさかではないわ」シロは少し、照れ臭そうだった。
「じゃあ、早速、君の気が変わる前に。夜男に相談してみよう」
「これを見せながら話すのがいいんじゃない? 私はここで待ってるから、呼んできて頂戴」そう言って彼女は、成り行きで握ったままになっていた手を離し、両手で空を、水遊びでもするように玩ぶ。
「それがいいね。……あ、そうそう」
シロは空で遊びながら、僕を見ないまま続きを促す。
「僕を海に突き落とすの、楽しんでなかった?」
「さっさと行きなさい」
僕らは同時に笑って、僕は車が止まったあの道端へ、素足のまま走り出す。




