21・最後とこれから
「おかえり」一つ目はその一つ目を望遠鏡から離さないままそう言った。
「なんだ」彼女は腕を伸ばし、シロの前髪を一房、脇に避けてやる。「結局、顔が隠れたままじゃないか」
「今はこれでいいの」露になったままの左目で柔和に笑う。
「そっか。君がいいなら」
「えっと、一つ目……さん」と僕は歩み寄る。
「一つ目、でいいよ。遠慮する仲でも無いだろう?」聞いたシロが困ったように苦笑する。
「じゃあ、一つ目」交わした言葉も過ごした時間も足りないはずなのに、不思議と心地良い響きだった。
「これを。太陽が見たいなら、と思って」僕は鞄から、逃がしてしまった空瓶の残りを差し出した。
「おや、懐かしい色だね……。確かにその空があれば、一瞬だけ太陽を捕まえられるだろう」声に回想の気配が混じる。僕らがあの空に喚起された、つんと胸の穴を突く寂しさ。
「一瞬だけ?」
「望遠鏡で太陽を覗くと、光に目を焼かれてしまうのさ」女は片目のあるべき肌を、あれば眼窩はそこにあるはずだった位置を人差し指でなぞる。「このように、ね」
「直接見ればいいじゃない」シロが口を挟む。
「それはできない。私が見るのは望遠鏡を隔てた向こうだけ」
「……太陽を探して捕まえて。その眼を潰してでも、見たい、と」
「最後に見るものがあの輝きならば、私は本望だ」
「でも僕の空に昇る太陽ではダメ。作り物だから?」
「いや、君の空は美しい。かつての空と違ってはいても偽りじゃない、贋物なんかじゃない、別の空だ」申し訳なさそうに眉を歪め、口元と頬に慰めを湛えて。
「だが、私が探しているのは、あの日見上げたあの空なんだ。残されたこの目を奪うのは、あの空じゃなきゃ駄目なんだ」ぐずる子供に留守番の約束を言い聞かせるように。
「なんで、そこまで?」
「他に無いからさ」その答えもまた、それ以外に無かった。
何も言えなかった。あれほどまでに僕らを揺らしたこの空が突っ返された動揺が口を塞ぎ、そして何より一つ目の覚悟は僕を圧倒するあまり、僕を寄る辺なき思索の平原に突き落とした。僕はさ迷い歩き走って転び、試行錯誤の地平線をあてどなく放浪する。
他に何も無いと言えるほどに渇望するものが、望みが、僕にはあるのだろうか。
青空、僕の空? 僕は空のために不可逆の犠牲を払えるか? 一つ目の覚悟は僕の両手には有り余り、そもそも僕の視界にも収まらないほど巨大な代物だった。その全貌はまるで把握できず、同質のものを知らないであろう僕は、覚悟の中身を推し量る手がかりをさえ持ち合わせてはいなかった。
僕が勝手に気圧されていると、それを知ってか知らずか、一つ目が僕の頭に手を置いた。
「……でも、それはそれとして、それも欲しいな」
「え?」かけられた言葉と置かれた手、その両方の真意を測りかねて、意識の間隙からすっとんきょうな声が漏れ出た。
「それ、ばかりじゃ良く分かんないわ。ちゃんと言ってごらんなさいよ」シロがからかい混じりに助け船を出す。
「うーむ、君も中々に意地悪く育ったねー。その空瓶だよ空の瓶。くれないかな?」
「でも、これは」本物の空じゃない。
「その空はその空で好きなんだ。言ったろう? 偽物じゃない別の空だって」一つ目は僕の頭に置いたままの手を下ろす。彼女の喪われた視線が、僕を真摯に見据えた気がした。
別の空。僕は塔の頂きで見上げた空を反芻し、そして網膜に焼き付けられた青写真を振り返る。
本物でなくても、あの輝きは。
「ありがとうございます」僕は握ったままだった空瓶を、一つ目の手のひらに乗せる。彼女は雲の流れる瓶をそっと握り、望遠鏡の土台部分、彼女の右肩のすぐ前にことんと立てた。葉が数枚、風に乗って流れている。
「ありがとうは、受け取る側の……私の台詞だね」一つ目が瓶の中を、流れ去る葉を見送ったような感覚。「もう少し誇りなさいな、自分の空と、空以外の自分を。一人でも歩けるぐらいに」
「元はと言えば、あなたが動揺させたんじゃない」シロが言う。僕を庇ってくれているのだろうか。
「いやいや。他の誰かに何を言われようと気にならないぐらいに、だよ」
「でも私たちはまだ子供で」とシロが言いかけたところで、一つ目の手のひらが彼女の視界を覆って止めさせた。
「子供、子供、と……それを逃げ道にし続ければ、永遠にそのままだよ」
「どうせ永遠にこのままなんだからいいじゃない」
「それは」一つ目が逡巡する。
珍しく歯切れの悪い一つ目に、シロは隠そうともせず落胆してみせる。
「私たちがこの姿のまま、どれだけの時間を過ごしたか知ってるくせに。ここにだって時計ぐらいあるでしょ?」少しずつ、少しずつ、声に怒気が滲み始める。
「子供であることを逃げ道に? ええそうよ。でも中身だけ変わってどうするの?」一つ目の残された目を厳然と睨む。
「この不確かでぐらぐらした体つきのまま、心だけ老成しろとでも言うつもり?」内包されていた大きな怒りは自嘲を巻き込んで、本当に矛を向けるべき相手ではないと知りながらも、どうしようもない濁流となって一つ目を穿つ。
「そんな事は望んでいないよ」
「そんな事なのよあなたが望んでるのは!」放たれた怒声が四方の壁へ飛び、望遠蛇の腹にぶち当たった音は跳ね返って空間を飛び回った。
「私たちはどうせずっとこのままで、背伸びしたって身体は変わらない」
「それなら子供だからって言葉を盾に、好き勝手したっていいじゃない!」それは言葉通りに酷く子供っぽい言い草で、彼女は怒りながらも悲しげに喚き散らす。
「……それは、とても悲しい事だよ」少女の怒りの間隙を縫い、致命的な一瞬に言葉はぽつりと差し込まれた。
怒りを喉元に溜めこんだまま、言葉に詰まる。僕も彼女も、言い返す弁を持たなかった。




