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2・シロという少女

 僕は、彼女をシロと呼んでいる。今は僕の青空を飲み干して青くなっているが、それでも僕はシロと呼ぶ。

 色に合わせて呼び名を変えるのはややこしいし、アオだと、僕と二人でアオゾラ――アオとソラ――になってしまって、少し気恥ずかしいというのもあった。


 彼女には生まれつき色がなく、誰かや何かの色を捕食することで、僅かな間だけ、貰った色を身に(まと)う。土色を食べれば土色に、鏡色を奪えば銀色に成る。

 万華鏡からこぼれた色とりどりの破片に触れた時なんか、なんとも言えないまだら色になってしまった。


 彼女に色を喰らわれたモノは、色を失ってしまう。普段の彼女同様、透けて、見えなくなってしまう。

 色のない時の彼女はまったく見えやしなかった。目のいい僕だって、気の長い団長だって、隠れた彼女を見ることはできなかった。

 それでもなお、僕だけは時おり、彼女の気配というか、呼気というか、そういった曖昧なものを感じ取って見つけることができる時もあった。しかしそれも運が良ければ、そして彼女が僕からも隠れようとしなければ、の話だ。


 彼女はガラスよりも空気よりも透明で、街灯の光さえも彼女をすり抜けて、一片の影も落とさない。だから本当は、シロという名前だって正確じゃなかった。



***



 観客が見守る舞台で、シロが完全に空を飲み干した。


 彼女の肌も髪も、あの青空と同じ色に染め上げられていて、その表層にはいくつかの雲が浮かび、時折、鳥が羽ばたいた。身体からは透明さが完全に失われ、僕を観客から覆い隠していた。

 シロは壇上から、長い前髪の後ろに光る青い瞳で観客どもを睥睨(へいげい)し、静かに息を吸い込むと、口を開いた。


「何が楽しいの?」


 その罵倒の言葉は、ひゅうひゅうと音を立てる風鳴りを引き連れていて、風が吹き上がった先にある夏空のように眩しかった。


 開口一番の罵倒を受けて、観客の群れは黒い顔にわずかな苦味とほのかな喜色を浮かべる。

 彼らの窪んだ耳には風鳴りしか聞こえず、彼らの淀んだ目には空しか見えない。彼らが求めるのは青空だけ。空を纏う少女が発する言葉であれば、その内容は何だっていい。

「ねぇ、答えなさいよ」観客どもの様子に苛立って、シロは不快そうに応答を促す。無駄だと知っていても訊かざるを得なかった。

 されど観客は何も答えない。彼らは吹きつける夏風をその身に受けながら、心はこの場に無いようだった。


 なおも反応の無い観客に、シロの言葉は熱を帯びる。だがその熱は届かない。その無意味さに、その冷たさに、シロの苛立ちは更に募る。そして再び、熱を込めた言葉を吐いて……。

 千を超えて繰り返された光景に、僕は思わず肩をすくめる。ここでこうして肩をすくめるのは、確か四百と八回目。その内ため息を吐かなかったのは、今回を入れて七十と二回。


 シロが脳内に収めている罵倒語辞典はとても分厚い。何度も手引かれたせいで全てのページが漏れなくよれ、たびたび口にするフェイバリット・フレーズには開き癖が付いていた。


 シロの意識は罵倒語辞典を縦横無尽に駆け回る。

 その口は、何となく目に入った言葉や、開き癖の付いた言い回しや、今とっさに思い付いたオリジナリティ溢れる皮肉なんかを、片っ端から観客どもにぶちまけている。こういう時、シロの舌は壊れた換気扇のプロペラみたいにけたたましい音を立てて回る。


 だけど、たとえシロの口から情熱的な罵詈雑言(ばりぞうごん)が吹き荒れても、その声は内容に関係なく、その身に纏う色と同じ色を帯びてしまう。赤錆の浮いた言葉さえ、観客にとっては心焦がれる青い風だ。

 結局のところ彼らは、あの少しだけ苦味の混ざった表情で、シロの嵐にゆらゆらと揺れているだけだった。



 シロが吐いたおぞましい言葉たちが、重複する単語も含めて百に達しそうになった頃。

 その風のような声が掠れて萎みがちになり、声音の中核からは寒々しい気配が滲むようになった。声が小さくなっていくのと同時に、シロの身体も色を喪っていく。少しずつ、されど確実に、明瞭な青は薄れて弱まる。

 半透明になったシロの背中を通して青みを帯びた視界が開けていく。観客どもが見えてきた。彼らは若干の寂しさを黒目に浮かべてはいるが、しかし当然のことなのだから、と虚ろな顔色のままで淡白に受け入れる。


 シロの声が小さくなったのは、疲れてしまったわけじゃない。少なくとも彼女の心はまだ、気焔を吐いている。「何が楽しいのか」という疑問をきっかけに生まれた、彼女の罵倒の数々は、僕と彼女が抱える共通の不満と苛立ちであり、そして命題でもあったからだ。

 そう簡単に、尽きるもんじゃない。


 だけれど、シロがいま声に乗せている風のような青は、僕の青空から借りたものに過ぎない。言葉を送り出す度に、少しずつ、借り物の色はシロから離れていって、シロも、シロの声も、色を喪っていってしまう。

 色の無いシロの体が誰にも見えないように、色の無いシロの声は誰にも聞こえない。だいたいシロが百十回ぐらい罵倒語辞典を捲る程度に声を出すと、彼女の声は透明になってしまう。


 そして、シロの声が消えるぐらいの時間に、この見世物はおしまいを迎えるようにできている。


「答えなさいよ、この……」シロは百十一個めの汚れた言葉を撃ち出す途中で、全ての色を喪う。その声と姿が透明になる。結局、シロが何と言おうとしたのかは分からなかった。


 今にも消えそうだった電灯がとうとう消える。


 見世物の終わりを告げるブザーが、ひび割れた音で鳴り響いた。

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