14・背の低い塔
車はしきりに荒息を吐き出しながら、坂を登っている。
その呼吸に合わせて、僕らは座席ごと振り上げられる。
昔、シロが思いっきり揺らしたロッキング・チェアに座らされた時に感じたのとよく似た吐き気が首元に昇ってくる。
今、隣の席で白いシロは顔色をさらに白くしつつ味わい深い表情を浮かべていて、あの時やり返していたらこんな顔が見られたはずだったんだなぁ、と僕は変な感銘を覚えていた。
吐き気に感銘でフタをするのも限界に近づいてきた頃、車はどうにかこうにか坂の頂上へ登り詰めた。
おぞましいロッキング・チェア運動は鳴りを潜め、車の呼吸も整った。彼女は静かに緩やかに呼気を吐き出しながら、平坦な道をするすると行く。
僕らの背後には登ってきた道があり、道を挟んで俯き花が斜面にまでびっしりと座りこんでいた。
そして前方には、ぐるりと一回転してしまいそうなほどに悠々と引き伸ばされた左曲りの道が続き、そして、今の車を12時の方向として、道なりに進んだ車が7時の方向を向く地点に、低く伸びる塔があった。
「何だろう、あれ」僕が言ったとき、シロもとうに塔に気づいていたらしく、僕らは同じ、11時の方向を見ていた。
「塔でしょ、塔。タワー。ちっちゃくて可愛いわね」にこやかに返す。
「登るよな?」夜男はなんとなしに提案する。
車がカーブに突入し、じわじわと左へ左へ曲がっていく。車の鼻が11時を指す。
「え、あの塔が隣街なの?」
シロと夜男が同時に笑いだした。声が車内に反響してやかましい。
「塔は塔よ、街じゃない」嘲笑いと苦笑いを混ぜた大笑いでシロが言い。
「だが、興味はあるんじゃないか? と、思って提案したのだよ」カラッと笑って男が繋ぐ。
僕の脳内はかき混ぜたようにグチャグチャだった。
何を言い返せばいいのか、それとも反論せずに男の提案に返答すればいいのか。混濁した言葉の海をかき回すうちに、車の鼻先が10時を向いた。
「そもそもお前は、言葉の裏を探ろうとしすぎ。俺は善人なんだから、もっと素直に受け取っていいのよー」
「善人かどうかはともかく、難しく考えようとして空回ってるのは事実ね」
「……ずいぶん気が合うね、二人とも」反論にも答にもならない返事でやり過ごす。
「お前は」夜男。「あなたは」シロ。
「からかい甲斐がある」二人。
再び二人が笑いだした。近くで燃えていた二つの焚き火が、くっついて大きな炎となって燃え上がる。
屈託ない二人の声に心地よさを覚えていたけれど、それを表だって認めるのは癪だ。
ひとまず僕は、呆れ顔をしてみせながら、車の踏みしめていく先へと目をやった。
車の正面には電灯が二つ備え付けられていて、それはまるで人の顔における双眼のようだった。
しかしそのうち一つにはもう光るだけの力が無いようで、車は片目を瞑って暗がりを行く。
その目が9時の方向に向けられた時、笑いの熱はひとまずおさまった。
「話を戻すが」さっきの笑顔ではなく、いつもの余裕顔を夜男はたたえている。
「塔には寄らないのか?」男がドーナッツから離した右手を迷いなく動かすと、僕の側の――僕は左側に座っていた――ガラス窓がするするとドアに飲み込まれていった。
誰も座っていない、僕の前にある座席の窓もなくなっている。
現れた大穴からは外気がひゅるひゅると入ってくる。雨はもう止んでいたが、湿度の名残が涼しげな夜風を柔らかく縁どっている。
ほぼ正面から左寄りに、件の塔が見えていた。
やはり低い。そのてっぺんが夜空に溶けているせいで正確な高さは見切れないけれど、家なら三階建てぐらいだろうか?
「ちゃっちく見えるかも知れんが……街の外には変わりないぞ?」
「見識を広げておく事をお勧めするね、良識ある大人としては」
「そりゃ街の中しか知らないけどさ」
「私は登ってみるつもりよ」僕の不満はさらりと流されてしまった。
「いいねぇ、お父さん嬉しいよ」男は黒い白目の中の黒目をシロに向ける。
シロは白い髪をかきあげて、男の黒目に目を合わせる。そして穏やかに笑んで言う。「そもそもあなたに言われるまでもなく、探検してみるつもりだったから」
「おっと、そりゃ失礼。無用なお節介だったかね」
僕も行くつもりではあった。
シロが行くからじゃない。僕の知らない物事を、知るために。
車が8時に差し掛かる。あと1時間。
「あなたは待っていてくれるの?」
「降りた後のことは心配しないでいい。任せとけ」
「なら、二人で行こう」シロが楽しそうに頷く。
「オーケー。話はまとまったな」言いながら男はガラス窓を閉める。
嫌な予感がする。シロが僕をびっくりさせる時の物言いにそっくりだった。
男は右足を大きく持ち上げ、中空で一瞬止め。そして叩きつけるように踏み降ろした。
車の嘶きが空間を切り裂いて轟き、俯き花さえ目覚めさせてしまいそうだ。
金属の身体が、限界まで引き絞られてから解き放たれたゴムのように加速して道をかっ飛ぶ。
そして窓の外にある風景は、細く細く千切れそうなほど細く引き伸ばされる。僕らはまた背もたれに叩きつけられたが、辛うじて受け身を取れたことだけが救いだった。
僕らが奥歯を噛み締めているうちに、車型の長針は7時を指した。
満身創痍の僕らが外に出た時、雨は既に止んでいた。踏みしめる土に残る水気は仄かで、吹き散らされる間際だった。
僕らの背後で、ドアが大きな音を立てて閉じられた。僕はまるで追い出されてしまったかのような釈然としない寂しさを覚え、ごく自然に振り向いた。
錆び付いた車の脇腹に張り付いたドアは、四枚ともしっかりと閉じられている。運転席の窓だけが開いていて、そこに夜男がだらしなく腕をかけている。
彼は夜空の下ではぼんやりとしか見えない黒い腕をぶら下げたまま、僕らとその背後に立つ塔をその両目に収めていた。
「来ないの?」白いシロが素直に問う。
「飽きるぐらい居たからな。来て欲しかったか?」
「いや、別に。でも案内を頼めたら楽かなって」僕は小さな意地を張る。
「なに、迷うような構造じゃあない」夜男は人差し指を塔めがけて突きだし、そのまま上にずらしていく。「ずーっと一本道さ」天を指差すような体勢で、指は止まった。
「……一本道を登り続けるだけ、か」
「大した高さじゃないから、いいけれど」さらりとシロの声。彼女の心はもう、登り始めているようだった。
彼女は嘘を言っていない。塔は夜男が指差す天より遥かな下で、ぷつりと終わっていた。
「若けりゃそうかもな。じゃ!」
男が妙に威勢のいい挨拶を投げつけると、欠伸代わりに唸りをあげて車が目覚めた。彼女は始めだけゆっくりと、しかしついには雄叫びをあげて走り出す。
そしてついには音も姿も伸びる道の行きつく先に、道と空との挾間に消えた。
「待っててくれないの?」シロが憮然とした様子で口を開けている。白い口内に白い歯が並び、白い犬歯が鋭くとがっていた。
「多分、戻ってくるよ。多分」それ以外に返しようがなかった。
ふいに静けさが支配する。車の音は聞こえない。腹から吹き出る低い唸りも、路面をこする車輪の悲鳴も。
「あの人、ワケわかんない」シロの感情がたっぷり乗った鈍い罵声は、黒い路面に落ちて砕けた。
「……だね」しみじみと、心から、同意した。