12・幼い大人は夜を更かす
男は片手で器用にドーナッツ型装置――たしかハンドルとか言ったはずだ――で車を操りながら、空いた手で頭を掻く。
「起きてるってのは、寝てるの逆さま。今の俺やお前達のように、動いて、喋って、自分の意思がある」
「んで、寝るってのはー、ぼーっとして、身体がじんわり暖まって、ふかふかした所に横になって……」
彼は適切な言葉を手探りで拾い集め、探り探り文章を組み立てていく。彼の目線は斜め右上、きっと頭の中を覗いていた。
「すると意識が……現実に二割、幻想に三割、そして暗闇に五割、振り分けられて、その中間を気紛れに漂うんだ」
「よく分かんないです」夜男は夜男なりに心を砕いてくれたけど。それでも、未知のピースで組まれたパズルは、完成しても理解に苦しむ姿を取った。
「だろうなぁ……まぁ、とにかく……静かで、緩やかで、少しだけ死んでるような感じだ」
「死ぬ」シロは曖昧な事象を確かめるように呟く。
「……あなたの言うことをまとめると」そしてくっきりと言葉を紡ぎ始めた。
「ノロマな人々は眠っていて、あなたや私たち……まともな人は起きている。そういうこと?」
「冴えてるな、少女」心からの賛辞がひょいと飛ぶ。
二人は楽しそうだった。
シロは好奇心に任せた知識の補食を、そして夜男は好奇心の口唇を向けられることを、シロが自分の言葉を吸い込んでいくことを、それぞれ無邪気に喜んでいた。
「お前達子供は起きている。だって寝るには早いだろ? やりたいことがまだまだわんさか有るはずだ」男は喜色を脇に起き、抑え気味に始める。
「俺たち……俺や団長、起きてる大人たちは」
「背こそデカいが中身は十。遊びたい盛りの心がままに、やりたいことやって夜更かししてんのさ」
彼の振る舞いを振り返る。拭いきれない童心。呼気に混じって吐き散らされるいたずらっぽさの残滓。
「眠い目をこすって無理に起き続けて、丑三つ時に好き勝手はしゃぎまわる、ロクでもねぇクソガキ共。それが俺たち、起きてる大人さ」そう男は締めくくった。
数秒の静寂。シロが思考の積み木を組み立てる音がする。
「あなたがクソガキっていうのはしっくりくるけど」それだけ告げて、シロが黙る。
「そいつは嬉しいね」
「でも」僕はシロの言葉を引き継ぐ。「団長も同じっていうのは、しっくり来ないです」なぜ僕は、団長を庇っているのだろう?
「おやおや。アイツも随分と慕われ……いや、畏敬されたモンだな」
畏怖と尊敬。僕が団長の逆さまの目を覗くたびに感じた暖かな震えは、それなのだろうか。近いような気がしなくもなかった。
「でもアイツは、湖に落ちたビー玉を諦められなくて、夜になっても救おうとする悪い子さ。ビー玉は望んで落ちたってのにな」
「ねぇ、ぼんやりとした表現でかわすの止めてくれる?」
「何を訊くも自由。しかしどう答えるかも自由。受け取った回答を自分で咀嚼してみんさい」
「具体的に言い換えてくれるつもりは無いのね」
「ないない」
男のくれる言葉は、夜の闇にいつも居る、僕らを誘う音の無い呼び声みたいに、近づけば近づく程に離れていった。
「……まぁいいわ、次の質問よ。あなたが黒いのは何故?」
男は意外そうに笑う。
「やっとその質問か。最初に訊かれると思ってたんだが」
「何を訊くも自由なんでしょ。いいから答えて」問いには溜め息が混じり始めていたが、それでもシロは止めない。
「そうやね。世界がこうなる前から、夜以外の時間があった頃から、夜更かしばっかしてたからかね。夜空の色がうつっちまったんじゃねぇかな」
「ねぇかなって……それ推測ですよね?」
「空色の少年。お前は自分に青空が流れてる理由を説明できるかい?」
僕は押し黙る。
「俺も同じだ。そうだからそう、としか言えないのさ」
「いつの間にやらこの色が染みてきて、濃くなって、とうとう元の色を忘れちまった……それだけさ。理由とか原因なんざ分かりゃしない」
彼はその悲愴な身の上話を何事もなく言ってのける。
「そう、あなたは元の色を忘れたの」シロが知らずして秋声を宿し呟く。繊病質な声だった。
「消えかけてるぜ、お嬢さん」男は振り向きもせずに言い、僕はハッとしてシロへ視線を向ける。
煙水晶色の彼女を透かして、そして雨粒に濁る窓を透かして、湿った蕾の放つ光が見えてしまっていた。
「ガラクタで良ければ使ってくれ。後ろに詰めてある」男は速度を緩めた。
揺れの柔らかくなった車内で、僕らは座席の後ろを覗き見る。
そこにあったのは、乱雑に押し込まれた無数のガラクタ。頭が潰れたねじ、蛇腹のパイプ、曲がったくぎ、大量のマイナスドライバー。金属質で堅い、ボコボコとへこんだ箱から、紐が何本も伸びた物体。鈍い鈍色をした傷だらけのポリタンク。手頃な長さの軽くしなやかそうな木の枝。壊れたガス灯の直線的な首。まだある。
もっと見てみたかったし、腕を伸ばして触れてもみたかった。でも、色は期待できそうに無いから止めた。
「大事なものなの?」シロはガラクタに向き合ったままだ。
「……まぁ、それなりには」
「大事なものなら大事にしなさい」
「そう言われたのは二回目だ」
「一回で覚えなさいよ、馬鹿。あなたも所詮は大人ね」そう言ってようやくガラクタから視線を外す。
「すまん」男はただそれだけを、唸るように返した。
「シロ、どうする?」
「外で色を貰うわ」
「おいおい、雨をしのげるトコまではもうちょいかかるぞ」夜男は伸びる道の向こうを仰ぐ。
「大事なものから色を奪うのは後味が悪いのよ。私は二度も繰り返さない」
「……大丈夫です。傘なら持ってますから」
僕らが逃げたあの街では、一週間に四回は雨が降った。鞄に入っている折り畳み傘は、かれこれ百何十何代目ぐらいになる。
「おや」意外そうな声。「お前らカサ持ってたのか?」
僕らの身体は今も軽く湿っていて、髪も服もほんのり重い。
「それは……」シロの顔色を窺いそうになる自分自身を、それとなく制する。
「あー、そゆことね。そういやケンカしてたっけな」あっけらかんと男が継ぐ。
「そういうことよ」僕より先にシロが答えた。「熱くなりすぎて忘れてたの」
僕は口をつぐむ。言うべき事を先に言われた拍子に、言葉がすとんと抜け落ちた。
車の速度が緩やかに落ちていく。外の光が水平線であることをやめ、次第に俯き花が輪郭を取り戻す。
左向きのカーブをゆるりと抜けたところで、車は停まった。
「行ってらっしゃいよ。鍵はかけてねぇからさ」
僕らはかちゃかちゃとベルトを外す。