10・夜男
赤い箱は、注視すると所々が黒かった。黒い道の黒とはまた異なる、粘っこくて煙臭い、燻った色合いの黒。
その全容が把握できてくるにつれて、この箱は車と呼ばれるものだと僕は理解した。だけど、かつて写真で見たものより随分と古びて汚い。
僕らは車の脇腹まで近づいた。
巨大な彼女は黒い道の端、歩道に入り込む寸前で止まっていて、その巨体は脈打つように揺れている。
僕は車へと体を向けて、左手に持つナイフの握り心地を確かめながら、車とは逆側の歩道へと移る。シロは僕の背後に回り、俯き花の絨毯に落ちる瀬戸際を行く。
僕はシロと車との間に立ちはだかりつつ、じりじりと横に――元々の進行方向に――進む。
この車の脇腹には、ドアが二枚並んでついていて、そのうち一つが開いていた。巨大な生き物がぽっかりと口を開けて僕らを見ているようだ。
僕の視線は、巨大な口から入って喉を抜け、車のはらわたを捉えた。
腹の底には座席が鎮座して、その座席には真っ黒い男が鎮座していた。
長くも短くもないざっくばらんな髪の毛も、長袖のシャツが包む僕の二倍はありそうな腕も、彼にしか聞こえていないリズムに合わせてぱたぱたと跳ねる靴からはみ出たくるぶしも、シャツと靴を含めた衣服の全ても、そして、彼の角ばった顔に二つ埋め込まれた眼球の、白いはずの部分さえも、黒い。
ただひたすらに何もかもが黒く、黒以外の何色をも纏わない男。
僕は男をまじまじと観察しながら、されど横へとずれて距離を取る。ナイフを握る左手に力がこもる。
「いやいや、好奇心に身を任せなさいよ」夜空を飛ぶ流れ星のような声がかけられた。
「気になるだろ? この乗り物とか、俺の色とかさ」車の内壁から生えている大きなドーナッツのような装置に肘を置いたまま、男が話しかけてくる。よく動く口の中も、真っ暗だった。
僕は首を横に振って、無言で嘘を吐く。
「つれないねぇ、空色の少年」
彼は僕を知っているらしい。それならば、やることは一つだ。男へそっと歩み寄る。
僕は鞄から空瓶を取り出して、男に差し出した。
鞄を漁っている間、男は奇妙そうな顔をして、空瓶を取り出した瞬間、意外そうに目を開けて、差し出した時には、面白げに鼻で笑った。
「おお、その瓶は……なんだか面白いモン作ったな。で、それをどうしたいんだ?」僕は呆気に取られる。
「欲しくは無いんですか?」
「ただくれるって話なら貰うかな。代わりに何かしろって話ならお断り」
「う、えっと」僕が呻くと、男はしてやったりと笑った。なんとなく、背後にも別種の笑顔が居るような気がした。それどころじゃないのに……。
「やっぱりな。言っとくが、街の外じゃあソレ、あんまり役に立たんぞ」
肩紐が重量を増して首に食い込む。
「ま、そうガッカリするなよ」あまり心のこもっていないその慰めは、シロのそれに少し似ていた。
「……ところで、あなたは?」
「夜男と読んでくれ。夜に似てるだろ?」確かに彼は黒かった。
「もっとマシな名前を名乗ったら?」僕の背後から軽く装った強い語勢が投げられる。
シロの目付きが髪のカーテンを貫いて男を射抜く。男は特段驚いた様子もなく、シロの声と姿を受け入れた。
「君はもっと、マシな言葉を選ぼうよ」シロが勝手に色と姿を現したことはもう、どうでもよくなってきていた。
「いいさ、強ち他人でもないしな」
「どういうこと?」僕らの声が重なる。
「アイツ……団長とは古い馴染みだからってのもあるな。おっと、そう警戒するなよ。何もお前たちを連れ戻そうってワケじゃない」
団長。彼はいま、どうしているんだろう? ちょっと、気になった。
「お前たちはどこに行くつもりなんだ?」男は面白そうに問う。
「隣街を目指しています」
「おいおい、死ぬ気か?」黒曜石の瞳を丸くしたまま、くだらない冗談を手で払いのけるように言った。
「どういう意味? そんなに遠いの?」シロが僕越しに男と話す。悪い気はしないけど、ちょっとむず痒い。
「すぐ隣だけど、どこまでも遠いんだよ……俺はまだ隣街に行く気はねぇが、まっすぐ進むだけなら乗せてやれるぜ」
夜男は車の後ろにある、錆びの飛沫が付着したドアを叩く。ごん、ごん、と鈍い金属音が内部で反響するのが漏れ聞こえてくる。
どうやら人が乗りこめるだけの空間があるらしい。
「信用できないわ」
「そういうことは口に出さないの。そうすりゃもっと賢く見えるぜ」
ああ、シロは今、複雑な顔をしているんだろう。
「……ま、本当に隣街に行きたいなら、延々歩いたほうが速いかもな」
「この乗り物の方が速いですよね? なのに歩いた方がいいんですか?」さっきから話が曖昧で、中核が掴めない。
「そりゃ意味が分からんだろうな。でもまだ教えるつもりはないぜ」
「で、乗るか?」俺はどっちでもいい、男の態度は言外にそう言っている。
どうしたものか。この夜男を、大人を、シロ以外の誰かを、信用していいものだろうか。
僕はシロを振り返る。雨を吸って重みを増した前髪が、ぺたりと顔に張り付いている。路面の色を吸った彼女は黒く、夜男に印象が似ていた。
その髪の隙間から刺さる眼光には疑念の色が濃い。しかしここを立ち去ってしまわない辺り、彼女も決めあぐねているんだろう。
僕らが行くべき道を見る。
石造りの道路がどこまでも真っ直ぐに伸びていて、その終わりは空と大地の境界線へと吸い込まれるように消えている。
路面は太い黒と黒を挟む細い灰に色分けされていたはずだが、脚の強くなった雨のせいでどちらも湿った黒色に染められている。
雨。
僕はもう一度シロを見る。しまった。彼女の髪も服も身体にくっついちゃっている。
自分の身体に意識を向ける。ああ、僕も随分と濡れている。
気づいたが最後、湿り気が僕の身体を這い回り、生温い寒さが首の後ろに突き刺さる。シロも今、こいつらに浸されているのか。
「乗せていって、もらえますか」
「タオルも積んでるぜ」男は得意そうに笑った。