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1・青空を流して

 少年は刃を滑らせて、手首を薄く切り裂いた。

 凶器は手によく馴染んだナイフ。もう覚えていないあの夜に、団長が彼にあげた輝く白刃。


 壊れそうな電灯が落とす薄暗い光は、燃え尽きゆく松明のように揺れる。黒と白を足して等分し、そこに黄色い赤を加えた光の中で、少年は舞台に立っていた。その前方には客席が無機質に並び、席は隙間なく埋まっている。


 刀身が傷を切り開き、開かれた傷から青が染み出る。その青には濃淡があり、うねりがあり、そして流れがあった。白刃の表面をなぞる浅薄(せんぱく)な液体でありながら、どこまでも深い奥行きをもっていた。

 少年は手首からナイフをするりと離すと、青の流れ落ちる気怠(けだる)い左手を、観客の群れに見せつけるよう、彼らの網膜に青が焼き付くよう、生け贄じみた仕草で差し出した。右手を滑らかな裂傷に添え、その川が塞がらないよう指で抑える。


 こんこんと青の清流が涌き出る。そこに、白がふと混じった。

 雲。白く柔らかく不明瞭な形の白。かつてあの日遠きあの空に浮かんでいた雲。

 雲に続いて、鳥が青の中を飛んだ。(かり)(からす)(つばめ)か、あるいは(はと)か。そのどれともつかない、されど鳥であることだけは確かな、翼ある者が飛んでいた。


 少年の青は、空だった。彼の身体には、赤き血潮の代わりに青い空が流れていた。空はまるで血液のように、彼の体を巡り、彼を動かし、彼を生かす。彼のはらわたには雲が浮き、彼の表皮の内を鳥が飛び交う。

 そして心の臓腑(ぞうふ)には、無限の青空が広がっていた。



***



 ある日、この街の青空は旅に出た。人々は口を揃えて「空は隣街に行った」と呟いた。

 空いた青空の席には夜空が座り、幾千の夜を越えてなお夜は明けなかった。

 今ではここは黒い街。夜が包んだ暗い街。太陽の代わりに月が輝き、雲の代わりに星が彩る。



***



 少年は、空を左手首から流し続けている。

 彼の髪は銀に近い金色で、麦穂を映す鏡を細く切り刻んだように鋭利。瞳はその身に流れる空を思わせる青、稚気(ちき)を残しながらも確かな理性がその焦点をはっきりと結ばせていた。

 覚めるような新緑色の簡素なシャツに、薄手の黒い上着を羽織り、不思議な程に汚れのない真っ白いズボンを履いていた。


 見世物小屋に集まった青なき人々は、客席より、壇上の少年をすがり付くように見上げ、その無数の眼窩(がんか)が空を貪る。

 少年の手首から、空が優しげな蛇の輪郭を描いて流れ落ち、足元に置かれたガラス瓶へと溜まる。ガラス瓶は小さな金魚鉢だった。その内部が空で満たされていく。幽閉された青空に、秋風が吹き抜ける。落ち葉が三枚、雲の向こうに吸われて消えた。


 そして、四枚目の落ち葉が、赤みのかかった紅葉の葉が、空高く舞い上がった時。少年は手首を返し、軽く拳を握る。さらりとした泥地に刻まれた線のように傷は塞がり、血液じみた青空の流れが止まった。

 空を封じたガラス瓶が、独りでに動きだす。


 丸く閉じ込められた空は、少年の眼前で、その胸元より頭1つ分下の高さまで浮き上がり、その三歩前までゆらゆらと歩み出た。

 少年は驚いた様子もなく、青く濡れたナイフを白いハンカチで拭いてから、ぱちり、と音を立てて折りたたむ。

 少年が一歩引く。宙に浮く空が高度を上げる。ガラス瓶がそっと傾き、空がとろとろと流れ落ちた。


 落ち行く空は、床にたどり着かなかった。空はなだらかに流れ、5センチと4ミリの地点で奇妙に跳ね、更に3センチと2ミリの高度でじんわりと透け始め、そこから1センチと0ミリで、完全に消えてしまった。

 ガラスに溜められていた空が減っていくにつれ、少年の前に曖昧な輪郭が現れる。その輪郭は少女を描いていた。彼女は空を飲んでいる。


 輪郭も、描かれる少女も、空の色を映して青い。こくり、こくり。少女が喉を鳴らす度、少女の青が濃く強く、はっきりと世界に塗り直されていく。

 少女が描かれていく様を見守る少年の姿は、青く成り行く少女の向こうに、じわりじわりと隠されていった。



 反応を窺うのも面倒だ。青空を流し終えた左腕を垂らしたまま、そう僕は思った。

 僕は眼前で色を得ていく少女の背を、見慣れていながらも、未だに慣れない複雑な心中を抑え眺める。その小さくも大きくもない背丈の向こう側では、観客たちが、あの黒い奴らが、彼女の青を貪るように見上げているのだろう……さっき、僕にそうしたように。


 彼らは僕たちを貪る時、見上げるようにして見る。僕たちは彼らより小さいのに、見世物小屋の雛壇は舞台はさして高くもないのに、顔を高く高く上へと向ける。その様を下から見下ろすと、優越感に立つよりも、滑稽さに苛立った。


 彼らの目線には、やけに入りくんでややこしい沢山の感情が乗っている事を、僕は三千三百を越える見世物ショーで感じ取った。だけどその想いの一つ一つをくみ取ることまではできない。

「その総体は、二十年前に友達と写った写真に写り込んだサッカーボールを眺めていると胸の辺りにくるくると吹いてくる、夏と秋の間に挟まったそよ風の匂いと同じものだ」

 団長はそう僕に教えてくれたけれど、その言葉の意味も分からなかった。それでも胸にしっくりと馴染んだから、そう理解することにしている。



 ……そろそろだ。僕は述懐を切り上げて、意識を眼前に向ける。

 少女の捕色――透明な彼女が色を得て、変色する事――は順調に進み、終わりを迎えようとしていた。


 少女が飲み干した空の青は、少女の腹部を起点として、グラデーションを成しながら広がっていく。

 青がその身体の隅へと行き渡り、少女の四肢が伸びていく。右手首と左足首は未だに青い絵の具を大量の水で溶いたような在り様だったが、もう少女のおおまかな全体像は捉える事ができた。


 少女は酷く痩せ細っていた。まるで色以外の事物を食らわないかのように痩せ細っていた。

 汚れない、されどだらしなく長い髪が、重力に引っぱられるようにして真っ直ぐ落ちている。毛先が床に着いているかどうかは曖昧で、彼女を見る目によって判断が分かれるだろう。

 顔の上半分は前髪がヴェールのように覆い隠していて、はらはらと途切れた前髪の隙間から、幼くも鋭い瞳が覗いている。その瞳には疑念の光、(いぶか)しむように全てを睨む。


 特段、気分を害しているのではない。これが彼女――シロ――の常だった。


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