前編
「解せぬ」
行きつけの喫茶店「スモール・マウンテン」でコーヒーを飲みながら、オレは独りつぶやいた。もちろんマスターに聞えるように。
「なに、今日はどうしたの」
マスターがカウンターのむこうで、にやりと笑う。
「オレね、夜勤のとき、バスをつかっているんすけど、顔見知りがいるんすよ」
「ん、それって、たまたまおなじバスに乗り合わせるってこと?」
「そうそう……いや、たまたまってゆうか、かなりの頻度で会うんです」
「その相手ってまさか、女性?」
またマスターがにやりとした。
「だと、いいんすけど。残念ながら男です。たぶん、オレとおなじ夜勤者じゃないかな。ローテーションがかなり似通っているから」
「その人がどうしたの、なにが解せないの?」
「かりに黒ジャンパーと呼びましょうか。そいつ、だいたい黒いジャンパーを着ているんで、夏場はべつとして」
「その黒ジャンパーくん、オレとおなじ停留所で降りるんすよ。『A病院入口』ってところで」
「うん」
「ところがね、そいつ、ぜったいに降車ブザーを押さないんです」
「こうしゃ?」
「降車ブザーですよ。つぎ降りますってときに、赤いボタンを押すでしょう」
「あー、はいはい。……えっ、ブザーを押さない?」
「そう、きまってオレが押すんです。その黒ジャンパーくんは、オレがブザーを押すのを待っているの」
「へえ、変わった人だね」
オレはゆっくりと、うなずいた。
「あるとき、ふと思いついて、チキンレースみたいなことを仕掛けてみたんです。バスが『A病院入口』に到着するギリギリまで、降車ブザーを押さないってゆう」
「……うん、そしたら?」
マスターが困ったような笑顔で聞いた。オレの大人げない行動に呆れているのだろう。
「結果はオレの負けでした。とにかく黒ジャンパーくんは、いっさいブザーに手を伸ばしません。こっちの様子をうかがっているかんじすら、ないんです」
「ふーむ、ミスター他力本願かあ」
「そういうこと。でも、ヤツが『A病院入口』で降りるのは間違いないんです。どうやったら、あんなふうにブザーを他人まかせにできるのか、不思議でしょうがない」
「ん?」
いきなりマスターがヘンな声を出した。そして彼はオレに聞いた。
「石原くん、きみとその黒ジャンパーくんが乗り合わせるバスの、路線図ってある?」
「あ、はい」
オレはスマホを取り出して、グーグル・マップをひらいた。南が丘駅発、北岡駅行き13系統、で検索をかける。路線図の全体像が表示されたところで、画面をマスターに見せた。
「もうちょっとピンポイントで、きみたちが降りる停留所の周辺が見たい」
リクエストにお応えして、オレは画像を拡大してあげた。
「やっぱりね」
画面を眺めつつ、マスターは独りでうなずいた。オレには、さっぱりだった。
「石原くん、もうひとつ質問。バス料金て、たとえば降車する停留所によって、ちがったりするの?」
「いや、始発から終点まで、どこで降りても定額です」
「オッケー、完ぺきだ。謎はすべて解けたよ」
なんか、いつもオレが言っているセリフをマスターに盗られてくやしかった。
「マジですか」
「うん、」マスターはドヤ顔だった。「ヒントはね、きみたちが降りる『A病院入口』を過ぎたあと、バスが右折するということだ」