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09 母と私の授業参観

 一穂が風邪(という建前)で休んだ運動会と体育大会の後、30度を超える日や雨の日が増えてきた。

 灰色に染まった空と鼻につく湿気、フィルターのように背景を埋める雨、どんよりと気分を落とすのに十分な舞台設定は整っていた。


 憂鬱を加速させるように、ざーという雨音が絶え間なく聞こえる。

 もう6月で、平均降水量が7月と並んで1番多い月だから仕方ない。


 担任、副担任、生徒と保護者の4人の面談を1日で強行するため、授業参観は朝一番の1時間目。一穂を含む大勢は親の車で送られて登校していた。

 黒板の左上には達筆とは言い難いが丁寧な字で『単項式と多項式』と書かれている。


「宿題だった問題1の回答を……前回は出席番号4番遠藤君まで回答してもらっているから、5番の岡田君お願いします」

 一穂のクラスの副担任、前野利美は授業参観という見世物用に事前調整されたであろう生徒を問題回答役として呼び出した。あおいうえお順に決められた出席番号から考えれば学年屈指の劣等生、横井一穂まで順番が回る事はないだろう。


 一穂の兄、特待生で授業料も免除されている和也のクラスでは毎回彼が授業参観で1番難しい問題を解く役になっているのだから、どこの学校でも考える事は同じなのだろう。

 颯爽と立ち上がり、観客を意識したぎこちなさが漂う男子生徒が口を開ける。


「単項式は6えーびーしーとマイナス4えっくす2乗で、多項式は5えっくすたすわいです」

 震える声で日本人らしいカタカナ英語発音の回答に満足げに頷いた前野は一瞬観客席を一瞥した。


「はい、正解。よくできました。単項式は数字と文字の掛け算だけで構成された式でしたね。多項式は複数の単項式がプラスやマイナスでつながっている式でしたね」


 前野の褒めて伸ばす戦略は概ね功を奏しており、海外の教育機関でも推奨される基本方針でもある。

 一穂の席は後ろから2番目の通路側の席で、保護者の視線を防げない位置だった。教室の後ろに入りきらなかった親御さんが通路側から覗いているせいで、不可避の立ち位置だった。


 一穂の母、横井真理は共働きで忙しいため授業参観に参加するつもりはなかった。しかし、午後からの4者面談に出る必要があったためしぶしぶ午後からの半休申請をした際に、理由説明で午前にある授業参観の件まで飛び火し、上司に気を遣われて結局1日休みになったのだった。当然そうなれば、授業参観に出席しないわけにはいかなかった。


 真理は顔を引きつらせていた。

 娘の一穂が広げる教科書とノートが露わになっているのだが、教科書は連立方程式の頁であり、ノートには絵が描かれている。授業のペースが遅すぎて独学で勝手に勉強しているのなら喜ばしいところだが、そわそわして落ち着きがない。授業がどうなっているか理解できていないのだろう。


 一穂の様子に気づいた他の保護者が嘆かわしい物を見るように目を細めている。真理は悔しさで叫びたくなるのを堪えていた。


 黒板を見て書き写している一穂のノートには所々数字の6と英語のbが入れ替わっていたり、xの右上に小さく書かれるはずの2がxと同じ大きさだったりした。

 黒板に書かれた計算を計算として認識していないのは明らかだった。絵を模写するように黒板の字を真似しているだけだ。


 真理の瞳には涙が溜まっていた。

 気が付けば、一張羅のスーツの落ち着いた水色スカートを握っていた。


 頭の悪い娘に育ててしまった不甲斐なさと。

 他の人に内心で中傷されているであろう口惜しさで。

 一穂は成績が学年でも最底辺の1人で、数学の点も1桁だった事は通知表で確認済であれ、心を穏やかに保つのは無理だった。


「……来なきゃよかった」

 涙と一緒に後悔が零れた。自分でも聞き取れないほど小声であったが、壁越しの一穂に聞こえていたかもしれないと頭をよぎった瞬間にはもう駆けだしていた。階段を転げ落ちそうになりながら駆け下りて、わき目も振らず、傘も放っておいたまま雨の中を走った。


 雨に交じって嗚咽が聞こえる。

 真理の顔はくしゃくしゃに歪み、化粧は雨で落ち、一張羅のスーツはずぶぬれになっている。それでも真理は駆けて、校門を抜け、信号の所で立ちすくんだ。


「なんで、なんなのよ!」


 叫んだ不満は雨に打ち消されてどこにも届かない。

 よろよろとよろめきながら、青信号を確認した真理は横断歩道を渡り、学校向いの薬局駐車場に停めた車に向かって歩く。濡れた鞄の中に手を入れ、乾いた書類が濡れるのも意に介さず手探りで乱暴に四角い鍵を探した。


 なかなか見つからないの腹を立て、鞄を広げて黒い容器のような鍵を取り出した。押したボタンに反応し目の前の白い車がライトを2度点滅させた。

 倒れこむように、ドアを開けて車内に入り、座席が濡れるのも構わず寝ころんだ。


「なんでなのよ……」


 ◇


 チョークを叩きこまれ黒板が塗りつぶされていく。素人に画家の絵の奥深さが読み取れないのと同様に一穂も数式を理解できない。授業前に先生から頼み込まれ、今日だけは教科書を開き、黒板を書き写す了承をした。

 教室の雑音が右耳から入って左耳から出ていく。先生や生徒の発声する数式や言葉は意味が読み取れない時点でただの雑音だ。唯一、聞こえた『言葉』は悲しさに染まった震え声ひとつ。雨音と騒音にかき消されなかったのが不思議なくらい儚く微かな言葉は何故かはっきりと私に響いた。


「来なきゃよかった」

 その言葉は魔術のように一穂の身体を石に変えた。騒音も雨音も聞こえなくなり、思考は停止した。

 遠退いていく足音だけが聞こえた気がした。


 授業後のホームルーム。保護者を背にしたまま連絡事項が伝えられ、4者面談の時間確認が行われた。

 クラスメイトの母であろう数人の女は面談時間への苦情で担任に冷汗をかかせたり、面談自体を知らされておらず怒声をあげてクラスメイトを叱っていた。普段と違うからか、生徒同士の雑談はなく、真紀も静かに席についていた。


 一穂の石化は解けず、数学の教科書も広げたまま固まっていた。

 無駄に余った教室を有効利用せず、迷子になられても困るからとの理由で教室の机を移動させ、教室は即席の面談室に変わった。クラスメイトはひとり、またひとりとどこかに消えていき、一穂と出席番号が速い数人だけが残っていた。


「おーい、横井」

 禿げたおっさ……担任の中山が一穂に声をかけた。腰に手を当て、威厳をみせようとしているが虚勢にしか見えず滑稽だ。


「はい?」

 声をかけられてようやく気を取り戻した一穂は眉間に皺を寄せた。


「4者面談だ。時間まで別の教室かどっか行っとれ。ちゃんと面談の時間には来いよ」

「はぁ」


 数学の教科書、ノート、問題集を机に投げ入れ、機械的な動きで教室を出た。人口密度の少ない廊下を歩き、市民の寄付で増え続ける蔵書数に対し利用者の少ない図書室に入った。


 学園物のライトノベルを手に取り、妙にやわらかい椅子に座った。出席番号順に面談があるので横井は39番目だ。あいうえお順なのでクラスに吉水がいなければ最後だっただろう。


 生徒1人につき面談時間はたった10分と短期間ではあるが、39番目の一穂の順番までは380分+先生の昼休憩40分の420分待ち。7時間。


 つまり、待ち時間はたっぷりあるのだった。思春期特有の不安定な精神は氷点下状態で、本を読む気にもなれず、時間だけが進んでいくのを何もせずに待っていた。


 ゆっくり頭を机に置き、目を瞑った。

 あの声は幻聴だったのだろうか。


 あの声は――

 靄がかかるように思考力が低下し、意識が途絶えた。


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