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07 私の調査書

 進路調査者を提出した翌日の放課後、私は担任の中山からの呼び出しを受け理科準備室に来ていた。

 棚に隙間なく敷きつ得られた薬品。鼻を刺激する独特の匂いは、薬品ビンから溢れ、長年かけて少しずつ混ざりながら部屋に染みついたものなのだろうか。


 こんな教室ならやばい揮発性の薬を誰かがまいても犯人と理科の教師しか気が付かないだろうな。洗脳だとか気絶だとかさせて悪い事もできてしまうのではないか、と考えて戦慄した。

 この部屋で一番座り心地のよさそうな黒いソファには、妙に寛いで座っている人体模型があり、偉そうな顔でにやけていて生々しい。天井に描かれてた鮮やかな夜空は稀に来訪する生徒が星座に興味を持つように願いを込めてあるらしい。


『1人でも多くの生徒が、少しでも積極的に勉強したいと思わせる、そんな仕組みが随所に詰まった学校を目指しています。』

 校長が度々声をあげて盛り上げる学校のスローガンに沿って、面白くて学習意欲を掻き立てる(かもしれない)遊び心が溢れる教室だ。


「おーい、横井。これを見ろ、これを」

 机をとんとんと軽く叩く人差し指の爪の表面が汚い。科学部の顧問として薬品を使って実験をしていた結果かもしれない。


 机には2センチほどの球体を綿棒でつないだようならせん型のモニュメントや豆電球を安っぽい電線で結んだだけの単純な回路が乱雑に置いてある。

 指の下に注目してみると、中山と私の間にある散らかった机の上に1枚の紙切れが背景に擬態するように置かれてあった。


「はい?」

 咄嗟に眉をひそめてしまった。


「お前なー。これ見て言う事ないんか?」

 進路希望調査と印刷されたその紙を指さしたまま、いつも通り無駄に大きい声を張り上げている。腰に手を当てどっしり構えたつもりであろう中山には可哀想なほどに威厳が感じられない。中年の太って禿げたおっさんのくせに、目がつぶらなせいだろうか。


 名前の欄には横井一穂、私の名前だ。

 第1志望 ホームレス。私の夢だ。

 第2志望 市立高校。友達の真紀に合わせて志望の1つに入れた。本気でいきたいわけではない。

 第3志望 私立高校。公立高校の滑り止めといえば私立だからだ。特に深い意味はない。


 ……


 ……


 ……


 一穂はきょとんとした顔で数秒間静止した。

 額に青筋たてた中山は冷静に怒りを抑えているような、いつもと変わらないような。


「頑張ります」

 質問の意図がうまく掴めず、代案として日常のあらゆる場面で重宝する意味があるようで殆どない言葉を発した。何かに失敗した時も、成功した時も、嬉しい時も、悲しい時も、叱られた時も、褒められた時も、やっぱりいつでも使える凡庸性の高い返答である。


 中山は大げさに禿げた頭を左右に振って、右手を顔に当てる。頭皮にしがみ付いている毛根が飛ばされないか心配だ。


「そうじゃないだろ、そうじゃ。……あー、もういい」

 凡庸性が高くても万能性があるわけではない。またひとつ賢くなった。


「はぁ」

 会話のキャッチボールが成立していない。中山の投げたボールは私の手の届かない所ばかりを飛んでいく。私は馬鹿だから、もっと簡明に聞きたい事をまっすぐ聞いてほしい。


「中学生でまだ将来の目標が漠然としとるのは仕方ない。でも、ホームレスはおかしいやろ」

 昨日進路希望調査書を集める時に『どんな困難な夢でも、まだ中学生のお前らにはチャンスがある。無理な夢なんてない。頑張るように。』なんて言っていたのはなんだったのだろう。努力したら何にでもなれると激励していたはずだ。


「頑張ります」

「わかった。もういい。帰れ」

 がっくりと肩を落とした中山が消えそうな声を絞り出し、右手を力なく振った。


 ◇


 そのさらに翌日、今度は副担任の前野に呼び出され、昼休憩の後半半分を職員室で過ごす事になった。

 入口近くの壁にある大きなホワイトボードには今月と来月の予定が書きこまれている。先々週あった生徒総会の後は3年生の修学旅行と2年生の郊外学習しか行事が書かれていない。


 5月に行事が少ないのは修学旅行で忙しいからなのかな。6月になると運動会、市主催の体育大会、授業参観、それから期末テストがある。あまり嬉しくない月だ。


 運動会と体育大会は風邪で休む事が一穂の中で密かに決定している。(一穂は休むが)出場競技は決定済みで体育の授業でも、運動会の練習ばかり行われている。


 灰色の机が並び、先生がご飯を食べたり、プリントの山をせっせと切り崩しながら採点していたり、アニメに出てくる中学生のフィギアを眺めたり、思い思いに過ごしている。

 1番奥の列に並ぶ机に人がいないのは、3年の担任と副担任が修学旅行でいないからだろう。


「横井さん。一昨日出してもらった進路調査について話があるんよ」

 教育者としては少し過激な膝上スカート、というかミニスカートを履いた前野は白い足を組み、男子生徒だったら視線が下に釘づけになりそうな危うい恰好とは裏腹に真面目な顔で話しかけてくる。

 私は遠い目をして教育とは何だろうかと小一時間問いかけたい気持ちを押さえつけ、真面目な顔を取り繕った。


「はい」


「第一志望は本気なん?」

 まるでソース派の人が『目玉焼きに醤油かけるって本気なん?』と訊くように、冗談だと答えて欲しそうな顔をしている。ソース以外の選択肢はこれまで想定していないかの口振りである。


「はい」

 目を見開いて、わなわな震え、『やっぱりそうなのね』と掠れた前野の独り言が空気に溶けた。自分の常識が崩れた時によくある反応の1つだ。


「どうして?」

 やはり『どうしてソースじゃないの?』と訊くように私に問いかけた。


「自由だからです」

 がっくりと肩を落とし、はっきりわかるほどに狼狽した前野を見て、肩に手を置いて慰めたくなる。『醤油もいいんですよ』と。

 嘆息をつき、気を持ち直したのか、キッと私を見据えて口を開けた。


「来週は校外授業があります。2組に分かれて、大学進学を目指す生徒には市立高校の見学、もう片方の就職を目指すグループには専門学校や工業商業高校の見学をしてもらう予定です。横井さんもどちらか希望するグループについて行って、もう一度よく考えてください」


 この市の教育方針は『押し付けない事』も重要項目として盛り込まれており、生徒の自発性を重んじる傾向がある。今回のような特殊なケースでも、頭ごなしに価値観を押し付けるのではなく、別の選択肢を見せる事で生徒の視野を広げようとするのは当然だった。


「はい」

 一穂が職員室を去った後、副担任は担任と目を合わせ、ぐったり項垂れた。彼らの苦悩はまだ始まったばかりだ。


 一方、一穂は担任や副担任の心労や意図に気づく事無く、3年がいないおかげで過疎化した廊下に喜びつつ、呑気に教室に向かって歩きながら校外授業の選択を決めた。


 この2つの選択肢なら、友達の真紀がいる進学組と一緒に市立高校の見学に行けばいいかな、と。


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