06 私の授業
「えー、皆さん席についてくださいね」
お姉系疑惑がちらほら出ては消える社会の橋本だ。茶色いスーツを着た物腰の弱そうな先生で、何度か会わないと印象に残らないのでゲームだったら絶対に背景に紛れている人だ。
がやがやとお喋りしていた生徒も根は真面目なのか、特に抵抗なく席についていく。もしかしたら、優しそうな橋本の絶対崩れなさそうな笑顔が崩れたらどうなるか、心配があるのかもしれない。特に男子は余計な反論せず素直に従っている。
「今日はー、グローバル化についてです。この単語からして国際的だよねー。カタカナだもんね。なんか無理してる感じもするけどー」
授業の導入をすみやかに行う為なのか、プリントを配る時間を無駄にしないためなのか授業テーマについて簡単に説明するところから始まる。
中学2年なのに歴史と地理じゃなく公民が授業に入っているのは貴重な受験の1年にもっと受験に直結する内容を教えるためらしい。公立中学の自由度としては疑問が残るが、市外と足並みを揃えないのは全国学力調査を拒否した前歴がある事からも周知の事実で黙認されている。
「グローバル化とは人や商品、お金、情報が国の間を行き来するようになる事です。インターネットで海外のサイトを見る事で国境を越えた情報が手に入るのもグローバル化。金髪美少女が日本に来てコスプレしちゃうのもグローバル化。たぶん、国際化って言葉がグローバル化なんてカタカナになったのもグローバル化」
自分で頷き納得しながら、1言1言を噛みしめるように言葉にしている。
私はインターネットで20代以上が大勢いるコミュニティサイト『アニメきっず』でも見ながら県境を越えた交流をしますかね。国境まで越える大胆さはないんで。
制服のポケットに手を滑りこみ、携帯の硬く四角い感触を掴む。顔はそのまま先生の方を向け、頭は右手に集中させる。視認しなくても操作できるくらいには携帯に慣れている。
ポケットから静かに手首を回して携帯を出し、机の下を何食わぬ顔で経由して、華麗な連携プレイで左手に携帯を手渡す。左手を俊敏な動きでぱぱっと机の上に。先生から死角になる左の壁すれすれに置いて準備完了だ。
昨日は散歩して精根尽きたおかげで携帯弄る余裕はなかったから、一昨日のつぶやきの返事が着ているか確認していなかったんだ。進路決める助言を求めたつぶやきへの反応は如何に!
緊張に連動して加速した鼓動を必死で無視し、顔が赤くなるのを仕方ないと割り切って、3の数字が書かれた新着の返事のアイコンを押す。
『今日貰った進路調査の紙に何書くか悩む中学生』
私のつぶやきだ。
震える手でゆっくり画面をスクロールしていく。
『悩めよ、乙女』
つかえねー! 使えねー奴だな! こいつは、このサイトで私の友達のくせに、なんて薄情なんだ! おかげで緊張ほぐれたわ、馬鹿!
すっと、指を滑らせて2つめの返事を見る。
『学力に合った高校を適当に選んだら?』
私の学力に合う高校って言ったら、小学校レベルだよ! ああ、私みたいな例外級の馬鹿は一般論を聞いたところで無意味なのか。
諦めそうになる心から勇気を引っ張り出して、指を上にこすりあげる。3度目の正直で役立つ回答を期待し、
『今日買った猫耳うさの助に何着せるか悩む中年女』
……絶望した。
人気アニメ『絶対勇者ぴろりん土屋』のヒロイン猫耳うさの助に着せるのが何かって、土屋のださいタンクトップとパンツに決まってるでしょう。圧倒的美貌と頭脳明晰僧な眼鏡を装備しているにもかかわらず、服はださい土屋のを拝借する。この変質者的ギャップしかありえないというのに全く。
あ。
ピクリと私のオタクセンサー通称アホ毛が反応する。いや、そんなもんないけど。
「日本のオタク文化の代表である漫画だけどねー。世界各国で英語版が発売されてて、毎年コスプレイベントが開かれる国も沢山あるんだよー。日本のアニメ声優がそういうイベントで海外に飛んで交流したり、ついでとばかりにテレビ番組に出演、出版社の取材に応じたりねー。あ、これはテストに出ないからねー」
橋本はどこから仕入れたのかわからない海外オタク事情を熱心に話し、アニメ世代である1部の生徒に金髪美女の魅惑的なコスプレ姿を連想させた。もちろん私も含まれる。
思春期の妄想能力を舐めているのか、手玉に取っているのかはわからないが、生徒の心をつかんだのは疑う余地がない。
「逆に海外から野菜や肉が運ばれてくるのもグローバル化だよー。どうやって育てたのか不安もあるよねー。僕だったら失敗したやつを海外に送って美味しいやつは自分の国に残しちゃうし。まぁ、入ってきた物をどう判断するかは国民ひとりひとりの役割だから、貴方たちも自分で考えてねー」
グローバル化ってはしゃいでて、いい事もあるけど悪い事もある。その両方を見て、見定めないといけない。
シャーペンでプリントにキャベツの絵を描きながら、時折しっかり頷き、外面だけは優等生に擬態する。
キャベツのしわしわが上手く描けず、餃子の皮のような、なんだか別の何かを想像させる出来で赤面してしまう。
「アウトだな」
静かにつぶやき、聖女のような落ち着いた心を取り戻すのを深呼吸して待つ。
すー
はー
すーーはーー
お絵かきも飽きたので教科書をぱらぱらめくる。
「パラパラ漫画でも描こうかな」
誰にも聞こえない小声でぼそりと呟き、悪戯にページの端を触る。後ろから2番目の席からクラスメイトを眺めると、一様に先生の方に頭を向けている。反発なく当たり前のように同じ行動をする集団の中に居ると、少し居心地が悪い。
「心安らぐ笑顔いっぱいの社会……」
ん?
第4章目のタイトルを不意に音読したら、頭の中のパズルのピースが1つ、かちりとはまった。
「憲法第25条 生存権……」
何らかの事情で人として最低限度の生活を保てない状況にならない為に生きる事を国が保証する。障害者や高齢者の自立や健康的な生活を維持できない人での手助けがなされる仕組みだ。
先日見たホームレスにだって公的援助を受ける権利があるのだろう。それなのに衣食住すら保てない人がいる。
かちり。
またパズルの絵ができていく。
この社会保障の制度がうまく働いていないのだろうか。
「仕事がなくなるって言ったら驚きますか?」
さっきまで聞こえていなかった橋本の声が耳に突き刺さった。
「輸入される野菜は安いという利点があるよねー。しかしね、大勢が海外産ばかり買うようになると国産は売れ残る。当然、農家は収入が減るので困る。そうなると、日本の農家が壊滅だね。仕事がなくなっちゃう。路頭に迷う人が増えちゃうねー」
そうやってホームレスができるのだろうか。笑いながら冗談のように、現実でない小説のように放たれた言葉が私にぐさりと刺さる。ホームレスを作るのは私たちなのか。
「日本の農業が消失した後、海外産が値上がりしても国産の品質保証されてる作物はもう手に入らない。覆水盆に返らずってやつだねー」
自立したくても、できなかった絶望に生きる人間もいる。胸がぎゅっと締め付けられて悲しい気分になる。右手をぎゅっと握り、左手で優しく包んだ。
「もちろんそれで喜ぶ人もいるんだよー」
かちり。
野宿生活を望んだ結果の産物としてのホームレスもいるのだろうか。
そういえば、散歩をしている時に公園で見た彼らは、薄汚い服を着て、ペットボトルのジュースを賭けるほど食も安定していないのに幸せそうだった。
「日本から農作物の需要を奪えれば、自国の国民がその分働いてお金稼げるからねー」
かちり。
蜂のようにせっせと働くだけの生活が嫌だったのかもしれない。
お金に興味がなかったのかもしれない。
人間関係に嫌気がさしたのかもしれない。
自ら希望してホームレスになった人の理由を思案していくと、私の目指していた夢の生活に行き着いた。
頭の中に溜まっていた靄が晴れ、私の将来パズルが完成した。
……ああ、私はホームレスになりたいんだ。