05 私の街
県内2番目の規模を誇る私の市は総人口46万、面積500平方キロメートルの海に面し、国立中学1校、市立中学36校と私立中学5校を内包している。20年程前は全国学力テストで全国平均に遠く及ばず県内最た下位というお荷物という位置だった。
汚名返上の為、市を挙げた政策で設備だけは整えられた。結果は減少する人口の影響で入るべき設備に対し生徒が少ないという事態になった。つまり、学校や設備は増えたが、肝心の生徒がいないという状況である。
やっぱり知能指数の低い市だと馬鹿にされている。
自尊心だけは人一倍である教員たちは、熱心に生徒指導に力を入れており、心構えだけなら全国でも指折りだ。『熱血だけの馬鹿』と評される市民も汚名返上の機会を虎視眈々と狙っており、結果として学生に対する応援で一致団結している。過剰な学割で学生相手に商売する分だけ損が出る店もあるのだが、代わりに学力向上の投資をしていると高評価されるので市民に愛され応援される利益が大きい。
莫大な手間と費用のかかる弁当を500円という低価格で学生の通学時間に合わせて営業する弁当屋『真心ファミリー』も、学生相手の利益は全くない。原価の方が高いのだから、内情を知らない外部の市町村から見れば、損益勘定のできない馬鹿と評価されるのも無理はない。この市のこの営業スタイルが成り立っているのは、市内一致の学生支援のおかげなのだから。
馬鹿にされる理由は過去の全国学力テストのせいだけではない。県のお荷物と呼ばれたその世代が市を支え動かしているのだが、やはり燃え上がる熱意の使い方が少しずれているのだ。もちろん将来を担う学生に投資するのは極めて利口な政策だ。しかし、市の文化財として2つの国宝、17の国指定重要文化財、4つの史跡、さらに国認の公園、天然記念物を含む多数の観光資源があるにも関わらず、全くもってその有用性が理解されていない。
特に酷いのは、国認の公園で世界遺産候補を土地の無駄遣いと勘違いしていて、埋め立ての議論が成されているところだろう。
◇
朝の占いの助言に従う形で、帰宅後手早く着替えた横井一穂は街の散策に出かけていた。進路を決める手がかりを探す散歩である。放課後の用事がないのだから、それどころかただでさえ部活も宿題もやらず青春の浪費で褒められる生活をしていないのだから、少なくとも将来どうするか思考しようとする姿勢だけでも大きな進歩なのだった。
広い駅に隣接する商店街にはスーツ姿やエプロン姿の中年男女がせわしく仕事している。客と言えば、学校帰りの中高生や大学生風の若者がちらほら歩いているくらいだ。
視界に入る様々な種類の人間をきょろきょろ見ながらつぶやいた。
「真紀はあんな風に高校生になって寄り道するんだろうか」
近場の市立高校に一緒に進学しようと誘ってくれた友達の真紀を思い浮かべる。学年でワースト30前後の私には無理だろう、と溜息をつく。
県下2番目の都市と言っても田舎の常識通り、私立高校は公立の滑り止めと認知されているため、市立は当然敷居が高いのだ。市が総力を挙げて教育改革を進めた結果、私立には及ばないまでも設備もそれなりには揃っていて、経済的にも優しいためにその傾向は顕著なのだ。
「私は惣菜でも売りながら、生活するのかな」
別にそれが悪いわけでも、蔑まれるわけでもないのに、どんよりと悲観的な空気に包まれた。どんな仕事であれ、自分が幸せならそれでいい。問題は私に魅力を感じさせる職業がない事だった。
高校生になりたいわけじゃない。勉強が苦手だし嫌いだから。
店員になりたいわけじゃない。人と接するのが苦しいから。
お金持ちになりたいわけじゃない。欲しい物が特にないから。
公共用に設置された長椅子に座り、いまどきの中学生にしては珍しい飾り気のない鞄を最近太くなった膝に置き、大げさに息を吹きだす。自転車を使わず歩き回ったせいで、普段から運動不足な私の身体はきりきりと軋み、疲労感を訴えていた。
「この街に行くところなんて何にもないんだよね」
市民の大部分がそうであるように歴史的に意味のある文化財の価値を嘆かわしい程見いだせてない一穂は駅の隣にある城やその横側にある博物館の存在もただの背景としてしか認識していないため、視界に入っても何の印象も持たない。
歴史にも疎く興味を持っていない為、観音像や国宝の刀の存在は小学生の課外授業で見学したはずであるのに、記憶の片隅にも存在していなかった。
人が集中している分経済も発展していて、大型ショッピングモールや映画館もあるのだが、世間の女が絶句してしまう程物欲がないので、散歩で向かう候補として頭に浮かんでこないのだった。
食事処に関しては、一穂の贔屓店が多いのだが、流石に1人で行って寛げる程の精神もお金もない。結局のところ、中学2年生がお忍びで行けるところなんて限られているのだ。
「図書館行くか」
結局、タダで時間潰せて、冷暖房完備で無防備に腰を下ろして、違和感なく屯っていられるのは図書館くらいなのだ。
自転車を使わなければそれなりに躊躇する程度には移動距離があるのだが、今日の目的は散歩なので時間と体力を費やすのも一興だ。家に帰って自転車に乗る方が断然速いが、それは無粋である。
両手を椅子につけて押し、勢いよく立ちあがる。棒のようだった足に溜まった疲労をすっかり緩和され、携帯をちらりと確認した結果、思いのほか長時間思惑に耽っていたのだと驚いた。
授業中だと1分1分が長く感じるのに。
それでも図書館に寄って本を借りる程度には十分な時間があるので、脆弱な身体を奮い立たせ、太さが気になる足を前に進めた。
えっさ、ほいさ、ほいさっさ。
歩き始めて十数分すぎた頃、疲労感に打ちひしがれ何故家に帰って自転車に跨らなかったのかと後悔し始めていた。
そこらへんの民家のベルを鳴らして、少し休ませてもらうよう頼めないかな、と割と真剣に妄想している。お茶や茶菓子くらい出るかもしれないと淡い期待を膨らませるも、そんな勇気はないと自覚し諦める。
「人生とは過酷だ」
悟ったかのような気分になって、坊さんが滝に打たれたり座禅するのは疲労で頭を空っぽにする為じゃないか。そうだとしたら、私も高尚な存在になってしまうかもしれない。
居酒屋やコンビニ、それから住宅地が密集して息苦しそうな空間に意識しなければ素通りしてしまいそうになる隙間がひっそりある。なぜ今の今まで忘れていたのだろう。バスケットコートが2面ぎりぎり作れそうな広さの公園だ。
自然と顔を綻ばせ、どこに隠れていたのか溢れてくる力を振り絞って歩いた。巨人型ロボット兵器のようにずんずん歩きながら、ほっと安堵しどうでもいい空想に耽る余裕が出てきた。
安易に休息を求め耐えがたきから逃げていれば、高尚な僧には決してなれないだろう。しかし、そんな苦悩の果てを追い求める気はない。楽な道を選びぬいて、気楽に生きるのだ!
木陰にある椅子まで歩くのも怠いので、公園の端の段差に腰をかけた。
肩にかけた鞄を隣に落とし、砂も気にせず寝ころんだ。
春を謳歌する木々が淡い緑の葉をつけ、雑草も花壇の花も生き生きしている。対照的に花粉症の人には世界の不運を背負ってしまった絶望の顔をしている。彼らの中は花粉による苦難と全面戦争すべく完全武装している人もいる。
例えば、花粉防止マスクと水泳のゴーグルみたいな眼鏡を身に着けた中年女がネギの刺さった鞄を持って歩いているのだが、不審者か一般人か線引きが怪しいその女も静かに花粉との激戦を長年生き抜いてきたベテラン兵だ。
もしかしたら、若い男を狙うただの変質者かもしれないが。
砂に塗れながらごろりと寝返りを打つと、薄汚い服を着た長髪の男が2人ぎらりとした眼で怖いくらい真剣に見つめ合っていた。よく観察するとごつごつと、でっぱりのある机越しだ。そのでっぱりのひとつを清潔感のない指がタッチする。するとすかさずもう片方の男が別の出っ張りを俊敏な動きで押す。
世の中にはいろんな趣味趣向を持った人がいるのはわかっているつもりだったが、何かの宗教なんだろうか?関わらないうちに図書館までもうひと踏ん張りしようか、視線はそのまま男に合わせたまま立ち上がろうと砂の上に手を滑らせた。
1人の男がびくっと痙攣し、両手をゆっくり弧を描いて顔を覆った。もう1人は嫌らしい顔でにやにやしている。
「負けたわ」
意外と深く心地いい声が響いた。
「はっ。じゃあ、河野さん、これはもらってくな」
そういって、まるで大金を掻っ攫うかのようにペットボトルを鷲掴みにしていた。賭け勝負だったのだろうと理解してからもう一度彼らの間にあった机を視る。いや、机に見えたそれは盤で、でっぱりだと思っていたものは駒だった。将棋指しだったらしい。
変な宗教じゃなくて安心し、緊急事態ではなかったのだとほっと胸をなでおろす。謎が解けても、汚れが重なり合った服というよりボロ布に近い物を身にまとったホームレス風の彼らの懐に飛び込む勇気や欲求は皆無なので、忘れないように鞄を丁寧とは言い難い動作で掴んで公園を後にした。
常時空腹に苛まれ、春は花粉、夏は蚊や雨に蒸し暑さ、秋は枯れ葉、冬は芯から痺れさせる寒さを耐えながら暮らす彼らは僧侶よりも過酷な修行をしているのかもしれないな。
結局のところ、かなり歩いて多様な人を見てきたのだが、何か進路を決めるヒントは見つけられたのだろうか。やりたくない事は沢山見つかった。何ものにも囚われず気楽に生きたいっていう漠然とした希望の光が見つかった。確かに、手がかりが見つかったのかもしれないな。
土ぼこりを乱暴に払って落としながら、図書館で読書を満喫しようと頭を切り替えた。