36 私の合否
推薦試験3日後の合格発表日、市立高校の校門入ってすぐの所に一穂は来ていた。
担任の先生、他の受験生や他校の先生、両親らが密集してそれぞれ白い息を吐いている。
白い掲示板が校舎の前に特設されている。目隠しの為に取り付けられた布が取り除かれるまではもうすぐだ。
「あらあら、今日も緊張していますのね」
「寒いだけ」
2人とも言われないと気付かないくらいだが全身震えていた。一穂も高山も30分も前から気温3度という寒さの中結果を待っているのだから仕方ない。
高山の背後には石井は微動だにせず隠れているが、今にも泣き出しそうな顔だ。高校から指名されたスポーツ推薦で全国大会出場2回の実績があるので入学試験なんて形だけであるはずなのに、学力も校内18位である。
受験で面接に同席した3人も揃っている。羽嶋は直立不動、田辺は市立高校の制服を着た男子(たぶん兄)と手を繋ぎ、西井は冷たいはずの地面に寝ころび腹筋を鍛えていた。
「結果を発表します!」
布が取り外され掲示板の受験番号が露わになった。
「S102004、S102005、S104002、S104003」
綾坂の視線が掲示板の数字と受験番号表を行き来する。
にやりと笑い、手に持った紙をくるくると丸めた。
「あなた達、やったわね!成功を味わって気持ちいいんでしょ!声出していいのよ!」
生徒以上に興奮して綾坂が叫んだ。
仄かに顔が赤く染っていて、全身をびくりと震わせ歓喜を味わっているようだ。
一穂はぽかんとしていて、誰かに触られたらそのまま倒れそうなくらい呆然と立っている。高山は顎に手を当て、口を半開きにしたまま動きを止めた。
石井だけが眼から洪水のように涙をどばっと噴出させて腰から崩れ落ちていた。
羽嶋は眉間に指をつけ泣いていた。田辺は(推定)兄に抱き付いて首に接吻している。(推定)兄はとても嫌そうだが、力に差があるのか諦めているのか抵抗は少ない。腹筋していた西井は屈伸運動を始めている。
「受かっていたわね」
黒いスーツに茶色いコートを羽織った真理が放心状態の一穂に声をかけた。
「言ってなかったけど、難波先生も春から市立高校の先生らしいわよ」
一穂は電流が走ったように一瞬目を見開き、呆けたように真理を眺めた。
数学の愛ちゃん先生も大学院卒業して就職するのだ。
「あと橋本先生は世界を旅するそうよ。まずはオーストラリアからって言ってたわね」
英語のミズも新しい場所に飛んで行くんだな。
一穂の胸の奥に冷たい靄が浮かんだ。
「最後にもうひとつ。和也はイタリアの芸術大学を目指しているの。一穂のおかげで夢に向かう決心がついたようね」
「夢……」
これは夢だろうか、と一穂は頬を抓ったら痛みを感じなかった。表情も変わらない。
どんっ。
「帰るわよ」
背中を鈍い痛みが走り、一穂の眼から水が零れた。
長かった戦いに勝ったんだ。
◇
合格発表から2日経った土曜、雪の降る日に一穂は真紀と自転車を漕いでいた。
真紀が滑り止めとして受ける私立高校の入学願書受付まであと5日、市立高校の一般入試まではあと40日ほどだ。真紀は市立高校に合格まで果たした一穂の急成長の理由が知りたくて、教えを乞いにその日は試験勉強を休んでいた。
一穂にとっての原点は市立図書館から少し離れた場所にある公園だ。
自転車を停め、鍵を2つ。
「あれ?横井さんの連れって女の子?そういう方向だったか」
炊き出しボランティアの大野だ。
やはり大野も一穂たちと同じでジャージ姿である。
「お、おはようございます」
「おはよー。初々しいねー」
一穂は無表情で、真紀はいきなり話しかけられて困惑していた。
いつも元気でお喋りな真紀も大人が大勢いる場所は苦手なのかもしれない。
「君たちには皮をむきむきしてもらおう。出来上がったのは私が処理していくから」
「か、かずっち!?」
根菜が詰まった箱、ボウル、ザル、皮むき器が揃った一角まで移動する。
白いトラック、机、鍋、10人ほどのジャージ軍団を前に真紀は戸惑っている。
「中2の1学期の進路調査」
「うん?」
「あれを考えていて見つけたんだ」
真紀は手に持ったじゃがいもと皮むき器を上下に揺らし興奮していた。
一穂は慣れた手つきで人参を機械のように回転させながら削ってはザルに入れ、削っては投げ、を繰り返している。
「真紀が市立高校に入りたいのはなんで?」
人間が驚く動作はいつも同じ。びくついて固まる。
じゃがいもが落ちて皮を入れるボウルに転がった。
真紀の目線が泳ぎ、顔が俯く。
いつものような活気が感じられない。
「そ、それは母さんがそうし……」
「あ、じゃがいも剥けてないわね。大丈夫。慣れたら速くなるから」
大野が人参のザルを持って行った。
真紀は落ちた剥きかけのじゃがいもを握った。
「私は嫌な事をやらされる生活には興味がないんだ」
「じゃあ、かずっちは何でそんなに勉強できてるの?」
「勉強する事で夢に近づいていけるのが嬉しいからかな」
ころんと黄色いじゃがいもがザルに入った。
別のじゃがいもが真紀の手に渡る。
「夢を叶えるために私は市立高校を目指したんだよ」
一穂ばかりが話すのは初めての事だった。
それきり2人は黙り根菜の皮むきを着々と進めた。
離れた場所では米炊きや下ごしらえ、大鍋で食材の煮込みが行われている。
カレーの匂いがする。
ルーを溶かすのは仕上げの時なのでそろそろ第一陣ができる頃だろう。
「かずっち、私さ、自分の夢って持ってなかったんだってわかったよ」
ぽつりと弁護を諦めて白状するかのように真紀がじゃがいもを見つめながら呟いた。
一穂は静かに頷いた。
「静かだね。私がこれをお口に入れてあげようか? 暖かくて元気になるよ」
大野がスプーンがご飯に刺さった2人分のカレーを持っている。
「昼休憩ですか? カレーありがとうございます」
一穂が冷たい口調で大野が差し出すカレーを受け取った。
真紀も遅れて受け取る。
「そうよ。たっぷり楽しんでね」
にやにやして大野が去って行った。
カレーに並ぶ列ができている。
一穂は河野と山田を探した。
今日の1番の目的は高校の合格報告なのだ。
行列の中にいる河野と目が合った。皺があるが汚くはないスーツを着ている。
軽く手を振ると、微笑んで一穂に手を挙げてから顔をカレーの方に戻した。
ふと振り返ると真紀が絶句していた。
薄汚れたホームレスの行列に嫌悪感を抱くは一般的な反応だ。ただし、真紀のように涙を流すほどなのは極めて珍しい。
「とう……さん」
消え入りそうな掠れた声が真紀から出た。
一穂は口にスプーンを入れたまま当惑して真紀の顔を観察していた。
真紀はしゃがみこんで静かに泣き続けた。
「そちらの御嬢さんはどうしたんだい?」
カレーを手に持った河野が丸まった真紀を不安そうに見つめている。
そして、真紀が突然立ち上がり河野に飛びついた。
カレーが落ちなくて安堵したのも束の間、河野も一穂も戸惑っていた。しわしわのスーツを着た中年に抱き付く女子中学生の図である。
辺りが騒然としていた。
一穂の嫌いな視線が集まっているが、それどころではなかった。
中山が真っ赤な顔で涙しているが、それどころではなかった。
大野が走ってきて胸が揺れているが、それどころではなかった。
「どうしたの?」
大野、一穂、河野が顔を見合わせるが、お手上げ状態だった。河野はカレーを守るために文字通りお手上げ状態だがそういう意味ではない。
真紀の手が固く河野の胴体にしがみついているのがわかる。
硬直状態が解けるにはさらに5分の時間が経った後だ。
学校随一の美人顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。河野のスーツも当然同じである。
真紀と目が合った河野は顔を引きつらせていた。
「いや、まさか……」
まだ呼吸の整ってない真紀が荒い息を必死に宥めようとしている。
外野は静かに見守っていた。
「父さん、会いたかったよぉー」
河野には会社が倒産して逃げられた妻と娘がいたと聞いた。
真紀は『母』の期待や『母』の重圧の話をした事があったが、一度も父親の話を聞いた事がない。
そういえば、真紀も河野も世話好きだ。
「真紀……」
河野の眼にも涙が溜まっている。
後方で顔を崩壊させるように号泣している中山は知っていたのだろう。だから、ホームレスとの交流に真紀を誘い、毎回こういう場に先生自身も参加して真紀が来た時に危険な事態に遭わないようにしていたのか。
「父さん、私も、うすぐ、受験だよ」
「そっか。どこ目指しているんだい?」
ホームレスとボランティアの人たちが見守る中、親子の会話は続いている。
静かな冬の日だ。
「市立高校っ。頑張って、るんだよ」
「そっか。難関校じゃないか。すごいな。挑戦しようとするだけでもすごいですよ」
河野は涙を流しながら微笑んでいる。
嗚咽まじりで必死に声を出す真紀もくしゃくしゃの笑顔を見せている。
「何をやってもいい。父さんは応援するよ」
真紀は再び河野に突進して抱き付いた。
カレーは宙を舞って地面に落ちたが、中山以外の視線は親子に向けられたままだった。
「また一緒に、暮らしたい、よぉー」
◇
この後、河野はホームレスじゃなくなったらしい。
真紀はこれまでとは人が変わった位熱心に勉強し、市立高校に合格した。
人生は自由に生きた方が幸せだ。
悩みや苦しみに束縛されて嫌々ながら日常を消化するのではなく、自分のやりたい事をやったらいい。
一穂の中学時代が幕を閉じた。




