28 皆のとある日
「そう言われてもねー、授業を熱心に聴くようになったくらいしかわならないですよー」
橋本が会議室中の視線を引き受けている。
この日、職員室の奥に生徒から隠れるように存在している会議室に中学2年生を担当する教員一同が列席していた。
白い部屋に円状に組まれた机の外側に教師が鎮座しており、机の上には生徒全員分の書類と先生ごとの飲み物が置かれている。
書記の前野はボイスレコーダーでの録音と手動での記録で会議内容をまとめている。
「勉強熱心になったんならええの。ほんなら中山先生んとこでもえっと勉強しよるの?」
教頭の斎藤太郎が司会役で、質問している。
「表情豊かにはなったな。授業も一応聞くようになっとる」
実際には笑われているだけだが、さすがに言葉を濁したらしい。
一穂の笑いを堪える様子を思い出したのか、不満げな顔をしている。
「数学も真面目に基礎問題解くようになりました」
前野も授業態度の変化を指摘する。
これにつられて、主要5科目以外の先生も賛同を示す。
美術は最初から熱心だったが、音楽や家庭科でもひたむきに学習するようになっていたのだ。
「英語はどうしたんですか?」
主要5教科の中で唯一、試験結果が好転しなかった英語に少し語気の強い質問が飛ぶ。
「特に変化ないですよ」
顔を真っ赤にして綾坂真美が手を振った。
「ええがええが。こんな早う、いっこも成績悪い科目のーなったらえっと大事になっとろーが」
英語が好転しなかったから全体的な成績は中の上程度で収まっている。
夏休み前後で最下位グループから最上位グループに変わっていたら、学力向上に情熱を燃やす教育委員会や市民が大騒ぎしかねない。
「おかしげなとこはしよらんのでしょ?」
「おかしなって、不正って意味なら問題ないでしょうねー。カンニングくらいで学年2位になれるほど甘くはないですよー」
一穂の社会はクラス1位、学年2位なのでカンニングで期待できる成績ではない。
「成績見る限り、これまでほんまあんぽんたんじゃったのに、何があったんじゃ?」
「将来の目標でもできたんじゃないですかー?確か夏休み前に市立高校の見学に横井も行ってたでしょー?」
橋本の一言ではっとなり、中山に視線が集まるが、居心地悪そうに顔を背けている。
「まぁ、それもあるみたいではあるな」
「市立高校行くんじゃったらしゃんとせんといけんか」
「第一志望はホームレスらしいですけどね」
前野がぽつりと言った。
場がしーんとなる。
「そりゃあ嘘じゃろ。学年最下位が市立高校言うたら馬鹿にされる思うたんじゃろ」
納得顔で頷く面々。
中山と前野だけがその言葉を鵜呑みにしなかったが、反論してもしょうがないので黙っている。
「そしたら、内申点が気になってきますねー」
授業態度や試験の点は凄まじい追い上げをしたものの、一穂は部活や委員会に入っていない上に提出物も無視している。
書類に書かれた部活や委員会の欄の空白や宿題未提出の情報にため息をつく。
「2年1学期までの成績もさえんのー。一般入試やったら、1年からの内申点が響くじゃろ。ぶちはがええな」
「推薦入試だったら、3年の内申点だけですけどねー」
「お、ほんならみやすい。3年までこの成績維持しよったら、委員会やら英検やら勧めたらちったあやるやろ」
「宿題はどうしますー?」
「ほんなもん。ほっとけ。どうせ何もかんもはよーせんで。宿題せんでもトップに入るのに、しつこーしたら、横井がめげるで」
学力向上が主目的の学校で、宿題はあくまでも手段の1つなのだ。
宿題するよりも効率よく学べるなら、そちらを優先してもらう方が優秀な人材育成に役立つ。不要な事に労力を使わせて心身への負荷が一穂の耐久性を越えて倒れられたら本末転倒である。
「楽しみですねー。横井さんが3年まで成績を維持できるか」
「英語もこのままじゃいけんけど、3年までは様子見しようや。あれやったら、英語だけ特別学級でも作ったらええが」
教員は期待を持って、一穂の行方を見守る事に決めた。
対応の仕方がわからず逃げただけ、とも言えるが、何もしない方がいい事も往々にしてあるので、今回の判断が特別悪いわけではない。
今のまま成績が維持で来たら、3年になる前の会議で内申点向上と英語対策を練る事。
この会議の結果が来年度の一穂の生活に衝撃を与える事になるのだった。
「ほいじゃあ、次、吉水……」
そして、ある日の会議は続いていった。
◇
ある日の横井夫婦。
「すごい成績だったね」
「そうね」
木を基調にした登山用品店に来ていた。
バックパック、靴、鞄、寝袋、テント、ライトなどの野外生活グッズが揃っている。
テント1つでも大人数用から1人用まであり、用途に応じて種類がある。
「湿度の高い日本に適してて設営が簡単なテントがいいかな?」
「そうねー、居住する事を考えると天井が高いタイプもいいかもね。通気性の調節ができるらしいわよ。え?軽っ、軽いわね……」
テント入りの袋を熱心に手に取りながら、真剣に語り合う夫婦。
ホームレス云々を聞かれるのも面倒なため、パンフレット片手に散策中だ。
「雪山を登る時のテントもあるよ。これなら冬も快適、とはまではいかなくとも凌げるのではないだろうか。ここでは積雪は滅多にないけど最低気温は氷点下10度くらいだからな」
「雪だるまも作れないのに寒いだけなんて最悪ね。でも防寒仕様のが無難かしら」
真理は雪山用個人テントが入った1キログラムもしない袋を手に持っている。
傍らに立つ一平は2キログラムの赤い寝袋を持っている。
「まぁ、これに下敷きのマットや寝袋を加えるとどんどん重くなっていくんだけどね」
気をつけないと、どんどん荷物が増えるのはどうしてなんだろうか。
「寝袋ねー。重い分低温でも快適に睡眠できる物がいいか軽くて運びやすい物がいいのか難しいわ」
テントとは比べ物にならないほど種類が豊富な寝袋の山を前に夫婦は立ちすくしていた。
赤、青、黄色、様々な色と形の寝袋たち。
「とりあえず、ホームレスならメンテナンスに手間がかからないのは必須条件かな」
それから、密封食品の側にある食器類をみていく。
チタン製で灰色の軽量化スプーンやコップ、婉曲した取っ手を携帯しやすいよう鍋の側面にくっつけれるフライパン、輪っか付きの水筒がある。
隣には火を使って料理する為のバーナーが並んでいた。
「こういう燃料がいる物は難しいでしょうね。料理にしても暖をとるにしても」
「燃料は安いけど、500円払うならコンビニで弁当買うよね。テントの中で火を使うのも一酸化中毒の恐れあるし」
それでも真理はパンフレットのストーブ欄を眺めた。
木を入れて燃やす事でストーブになり、さらに熱発電機能付き。重量1キログラム。
「燃料が要らなくても、火使う状況って少なそうね。食に困って山菜や野生生物を採集する可能性が、ないともいいきれないけど」
真理は苦い顔をした。
一平も野草を集める一穂を想像して、居たたまれない気持ちになった。
ノートくらいの小さいサイズからが用紙サイズまでの黒い板を見つめる。
「ソーラーパネルもあるのね」
「重さの割に使い勝手は悪そうだな」
バッテリーも合わせると電気のある生活が送れるが、10キログラムを越えるので運ぶのが大変そうだ。盗難の恐れもある。
「ランタンや懐中電灯はいるのかしら?」
「場所によってはマムシや虫が出るかもしれない。あったほうがいいんじゃないか?」
「そうね」
真理は満足げに笑っている。




