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27 私の英語

 竹を縦に割った器が3つ。

 その2つには茹でられてピンクに染まった蟹の手足がそびえたっている。

 食べやすいように殻の半分は切りとられていた。

 残りの1つは酢をベースにしたタレ入りだ。


 それから横に割った器が2つ。

 蟹シュウマイと蟹の巻きずし、それから蟹茶碗蒸しである。

 かに、カニ、そして蟹である。


「一穂、よく頑張ったわね」

 真理が笑顔を振りまく。

 蟹が美味しくて微笑んでいるのか一穂の成績に喜んでいるのか迷うところだが、今のが前菜であるのを考えると後者だろう。


 蟹が酢に絡まって口の中で織りなす酸味と甘みのデュエットは今すぐ駆けだして漁師さんに感謝を表明したいほどだが、これはまだ序章にすぎない。

 そういうわけで、真理は純粋に大躍進した一穂の中間試験を祝って喜んでいるはずだ。


 沈黙を守っている一平も浮かれている。

 同様に静かな和也は一穂に蟹シュウマイと寿司を譲ってくれた。


 これは、コースメニューの前菜で腹を膨らましたくない裏の理由を隠しながら、祝いに託けただけである事は白鳥が白いのと同じくらい明らかな事だ。

 名目が祝いなので、渋々受け取った。

 ステンレス製の殻入れの底が見えなくなり、汚れた手をレモンの輪切りが浮かぶ水桶で洗った頃、和服の店員さんがやってきた。


「蟹のあぶり焼きとてんぷらで御座います」

 昨年までの200代後半から社会が学年2位と国語が学年5位に昇進、掲示板に名前が出なかった理科も学年9位に急上昇した事に感謝する一穂。


 炙られて匂う蟹の誘惑。

 箸で掴み丁寧に身を取って息を吹きかけ、冷ましながら食べる。


 ……匂ってよし、美味しい蟹はそのまま食べてよし、ソースにつけてもよし。

 海産資源が枯渇するのは絶対に避けたい急務である、と一穂は心の中で宣言した。


「あ、一穂、今晩英語の家庭教師来るから」

「うん」


「かにしゃぶで御座います」

 店員が颯爽とコンロや鍋を設置していく。

 黄金の出し汁浮かぶ蟹、豆腐、人参、白菜、しいたけ、糸こんにゃく。


「ま、眩しい!」

 輝きが目に飛び込んできて、感動の涙が頬を伝う。

 腹8分目になっている状態から手を止めるためにここで蟹しゃぶ……蟹すきなのだろう。店員さん名称間違えた?


 僅かな甘味、微かな塩味、そして深いのにあっさりした黄金スープと蟹の交響曲。

 全身が脱力して溶け出してしまいそうだ。

 蟹が浸かっていたスープも美味しいのが意地らしい。


「蟹汁とデザートのフルーツ盛り合わせで御座います」

 締めはやっぱりダシの効いた味噌汁がいい。

 日本人はやっぱり味噌が落ち着くよ。

 横井家全員、家に居るかのように無防備に味の余韻に浸っている。


 ちらりとオレンジの香りのする方を見る。

 フルーツ盛り合わせ、君は場違いだ!

 断じて蟹とフルーツの絡みは認めない!


「デザート、あげる」

 小皿を譲渡され、あからさまに嫌な顔の和也はもらった皿をそのまま真理に押し付けた。

 溜息をついて食べる真理を見ながら、やっぱり家族なんだと安心する。


 よく見ると、真理の前には盛り合わせが3皿で盛り合わせの盛り合わせだ。

 顔が緩み切っている一平も真理に押し付けたらしい。


 ん? そういえば、家庭教師が今夜来るって言わなかった?


 ◇


「今日から英語を教えてくださる橋本水樹さんです」

 横井家の客間で黄色い畳にくすんだ緑のコートを着た長髪の青年が正座している。ミュージシャンのような雰囲気がする。


「こんばんは。初めまして」

 下手すると女と間違われる恐れがある高い声だ。

 笑顔で右手を差し出している。


「こんばんは」

 反射的に手を伸ばすとぎゅっと1秒ほど握られた。

 慣れたのか一平はあまり話し込まずに部屋を出た。


「えっと、僕もね。中2の秋から家庭教師に英語教わってたんだ」

「はい」

 いきなり自己紹介だ。


「あの頃はアップルだって自転車だって英語で書けなかったから授業に全くついていけなかった。でも海外行かないから英語なんていらないんだって言ってたんだよ」

 どことなく一穂と似ている。

 正座していて苦しくないのだろうか。


「受験のために一念発起して家庭教師と問題集でなんとか卒業までには上位に入れるようにはなった。それで、大学は海外に行っちゃったんだよね。人生って何があるかわからないね」

 屈託のない顔で微笑んでいる。

 それにしてもよく海外大学卒の家庭教師を見つけたな、と親の捜索能力に驚いた。


「そんな実体験があるから今どのくらい英語力が低くても努力次第で追いつけると思ってる。あ、僕の事はミズって呼んでね」

「はい」

 先生なのにあだ名でいいんだろうか。


「ま、そういうわけであんまり今の英語力に不安持たなくていいんだけど、自分では英語で何ができると思ってる?」

 ミズは黒い鞄からノートサイズのメモ帳を引っ張り出し、ポケットに手を突っ込んだと思うとボールペンを装着して筆記の準備をした。


「んー、ローマ字ができる程度です」

「そっか。アルファベットが大丈夫ならよかった」

 ミズは『ローマ字』と書いて丸で囲った。


「目標は何?」

「ホームレスです」

 明言した一穂に口を窄めて感嘆するミズ。

 メモ帳の上をボールペンがとんとんっと軽く飛び跳ねた。


「なんでホームレスになりたいのか訊いていい?」

「はい。束縛されたくないからです」

 ミズは軽く頷いて、『自由』とメモ帳の右上に記した。


「うん、うん。いいね。僕も好きだよ。好きな所に行って好きな事をするのは楽しい」

「はい」

 真理の定義する自由と同じだ。

 一穂はくすりと微笑んだ。


「それなら英語はいいよ。日本に縛られなくて済むから」

 一穂は心臓が止まるかと思った。

 世界を股にかけるホームレス……。

 声を失って、ミズの次の句を待つ。


「それなら、話せるようになっちゃおうか」

「え?」

 脳が吹っ飛んだ。唖然茫然。


「えっと、横井、さん。んー、ケイって呼んでいい?」

 なぜケイ……?

 人って本当にパニックになると、頭の中が真っ白になるんだな。

 悟りを開いてしまったかのように心が静かだよ。


「はい」

「じゃあ、ケイ。毎日ラケット素振りしてる人がいるとするよね」


 空っぽの頭にラケットを振り回す真紀が思い浮かぶ。

 無心に何度も左右に腕を振っている。


「はい」


「その振り方が間違ってたら、上達すると思う?」

「え?」


 脳内の真紀のラケットが高速回転している。

 投げられたボールはあっちこっちに飛んでいる。


「間違った振り方を身体に刷り込ませてるだけだよね。英語もそうなんだ。沢山の日本人は誤った方法を続けている。だから、ある意味では何もしなかったケイの方が上達しやすいよね」

 一穂は黙ってミズを見つめている。

 間違った勉強方法って何だろう。


「英語の基本は発音だよ」

「発音……」


「発音が上手く出来れば単語を音で覚えられるようになる。聞き取りやすくなるし、黙読も勉強になる」

 今まで英単語の暗記には苦汁を飲まされてきたのは当然だったのか。

 でも、英語の発音って恥ずかしいな。


「まぁ、恥ずかしかったら学校ではカタカナ英語で話せばいいよ」

「はい」


 メモ帳の『ローマ字』を『自由』まで矢印でつなぎ、真ん中に『発音』と表記した。


「発音って言っても全部じゃなくて、簡単なやつだけだから心配しないで。その後は中1の教科書からばんばんやっていこう」


「はい」


 半信半疑だが代案もないので、信じてやってみようと一穂は決意した。

 

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