20 私の温泉
「想像力って何だろう」
夏休みの終わりを知らせる光、花火を観ながら考えていた。
人嫌いの一穂がわざわざ外出して祭りに参加しているわけではなく、単に家から眺められるので眺めているだけだ。山があるから登るのと同じ論理だ。
「愛ちゃん先生が、数学は想像だって言ってた」
一穂に数学を教えている家庭教師、難波愛の事をこっそり愛ちゃん先生と名付けている。
「グラフや図形、問題をイメージする事ができれば、数学は簡単……」
棒についた四角い牛乳味のアイスを舐めながら想像する。
優しい人。
不安にさせない人。
無理強いしない人。
今度新しく来るらしい英語の家庭教師はどんな人だろう。
相性のよさそうな人が見つかるまで気長に待つように言われたけれど、いつになるんだろうか。
「タコ先生の足の行方も想像して意味あるかな」
通信講座に出てくる足を2本失っている社会の先生で8月の冊子でもご褒美にたこ焼きをあげていた。先月は7本あった足が6本になっていて、来年どうなるのか想像するのが恐ろしい。
頭を左右に振って、別の事を考える。
「アニメもイメージかな」
肉体的に幼児化した勇者ぴろりんが笑顔で美女に抱き付いている、画像だけではほほえましい光景から、ぴろりんの醜悪な思考を想像するのも数学に役に立つのかな。
一穂は遠い目をしていた。
ぽたっ。
アイスが解けて白い雫が膝に垂れる。
幸い短パンなので、服が汚れることはない。
ティッシュで拭いて、同じ過ちをしないように手に持ったアイスを舐め上げる。
「さっさと食べて、クイズでもやろう」
白い棒をがちんと噛み切り、もぐもぐと食べて飲み込んでいく。
「うっ」
頭がきーんと痛む。
なんだか罰当たりな事でもしたみたいな嫌な気持ちになる。
食べ終わって、部屋に戻る。
ぱちん。
スイッチを押して明かりをつける。
先週出題されたクイズが書かれた紙が机の上に乗っている。
『横井一家が朝8時に車で旅館に向いました。時速は30キロメートルで移動していましたが、1時間後市街地を出てからは時速60キロメートルまで加速しました。皆元気で旅館についたのは午前11時、寄り道のない旅路です。ゆっくり休んだ横井一家は翌朝8時に旅館を出て、行きと同じ道を今度は時速50キロメートルで帰りました。
果たして同じ時刻に同じ場所を通るでしょうか?時速が違った場合はどうですか?』
この問題を解く鍵がイメージだ。
線に時速を書きいれた図を描いてみた。
わからない。
8時に出て11時についたら、3時間の道のりだ。
最初の1時間は時速30キロメートルなので移動距離は30キロメートル。
次の2時間は時速60キロメートルなので移動距離は120キロメートル。
家から旅館までの距離は150キロメートルという事だ。
帰りは時速50キロメートルなので、3時間の道のり。
「ああ、行きも帰りも同じ時間だ」
驚きと歓喜の入り混じった声をあげた。しかし、これが問題解決にどうつながるかわからず、頭を掻く。
「車の想像したらいいのかな」
街をくねくね移動して旅館に辿りつくのを想像して、静かに肩を落とす。
8時に家を出発する車と同時刻に旅館を去る車、その両方が同時に移動していく様子をイメージする。その2つの車が途中の地点でぶつかった。
「あれ?旅館に向かう車と家に行く車がぶつかる地点が絶対1か所だけある。同じ時間に出て同じ時間についているんだから、1回どこかで交わる」
一穂は勢いよく立ち上がり、部屋の中をぐるぐる歩き回り始めた。
「車が交錯するのは同じ時刻だ!」
意気揚々と紙にこの発見を書こうとして、説明方法に悩み、そしてどうにか文字を書き終えた後、嬉しさを抑えきれずに万歳して誰もいない家の中を走り回った。
◇
そして、数学の家庭教師の日。
「おおー、すごいね!」
回答を聞いた愛ちゃん先生は朗らかな笑顔で喜んでいた。
一穂は誇らしい気持ちで顔を赤らめていた。
「これがイメージの力だよ」
一穂は勢いよく頭を上下に移動させた。
本人に自覚はないが、こんなに気持ちを表現したのは中学生になって初めてだ。
「この問題ね。実は答えが1つじゃなくて、いろんな風にイメージして解けるんだ」
愛ちゃん先生が優しい顔で説明する。一穂は少し驚いた顔で話を聞き入る。
「図でイメージしたらどうなるか、考えてみよう」
白紙に十字を書き、横線に時間、縦線の上に家からの距離と文字が入れられた。
一穂は上半身を傾かせ、わくわくして輝いた眼を紙に向けている。
「まず出発時間の8時から到着時間の11時まであるよね」
十字の交差点に『8時』、それから等間隔に3つの目盛りを横線に追加し、線の下に『9時』、『10時』、『11時』と書かれる。
「それから、横井さんが計算したように家から旅館までの距離は150キロメートル」
縦線の天辺に目盛りと『150キロメートル』の文字が付け足される。
「行きは8時の時点で家なので、当然家からの距離は0キロメートル」
綺麗に黒い丸が十字の交差点に描かれる。それから、縦線の0と150キロメートルの間に目盛りが3つ加えられる。
不思議そうに一穂は眺めている。
「最初の1時間で30キロメートル進んでいるから、9時の時点で家からの距離は30キロメートル」
縦の目盛りに『30キロメートル』、『60キロメートル』、『90キロメートル』、『120キロメートル』と追加され、『30キロメートル』と『9時』が交差するところに黒丸が付けられる。
「11時の時点で家からの距離が150キロメートル」
『11時』と『150キロメートル』を表すところに黒丸が置かれ、最後に線で3つの点が結ばれた。
「これが、旅館に行くまでの時間と家からの距離だね」
一穂は無言で頷く。
「旅館から家までは時速が変わらないから簡単で、『8時』の時点で家からの距離が『150キロメートル』、『11時』の時点で家からの距離が『0キロメートル』だな」
十字に中の塗りつぶされてない丸が2つ描かれて、豪快にその2点が結ばれた。
「これで線が交わってる時間に同じ場所にいた事になるね」
「すごい!」
一穂は声をあげて驚いていた。
眼に見えるように描いていくと問題が楽に解ける。
「このグラフ、学校で見覚えない?」
「ある」
即答している。
一穂の中学では1次関数を本格的に勉強するのは中2の9月ではあるものの、学習ペースの速い生徒の為に学期末に基礎に少しだけ触れているのだ。
「旅館から家までは1次関数っていう式で表せるんだよ。便利そうでしょ」
「はい」
些細な変化が起こっていた。
声は少しずつ大きく、表情は少しずつ豊かになっている。
自信がついてきて、次の試験が楽しみになってきている。
夏の終わりは2学期の始まり。
新学期が刻々と迫っていた。
宿題は始めてもいない。
新学期が刻々と迫っていた……。




