02 私の家
『台所の消し忘れの火のせいで起こった爆発に巻き込まれて、絶対絶命の土屋! 果たしてどうなったのか! 無事なのか、土屋。果たして、土屋の行く末は!? 次回、絶対勇者 ぴろりん土屋の最後! 見てくれよな!』
「ごふっ」
横井一穂は口を押さえ、眉をひそめる。
賞味期限ぎりぎりのソースのかかったサクサクしてない豚カツを疎らな太さのキャベツと一緒に口に入れていた。千切りのつもりなんだろうけど、どう見ても百切りとか数十切りという出来だ。いや、ただのぶつ切りか。
「これ、土屋死ぬでしょ。タイトル的に」
そう、ふざけた次回のタイトルのせいで、危うく吹きかけたのだ。もしそんなことになれば、目の間にいる父が激怒していた事だろう。
左の席に座っている兄はスーパーで88円で買ったであろうお茶を飲んでいた。大惨事になるのを防ぐため咄嗟に無理やり飲み込んで、幸か不幸か、いや不幸だろうが気管に入ったらしい。しきりにごほごほ言っている。ご愁傷様である。
こういう時は毎度、今の席に感謝している。四角いテーブルの右下に私、右上に父、左上が母で、左下が兄だ。テレビはさらに左にあるので、全員そちらを向いている。つまり、誰かが咳き込んでも、被害は左方向というわけだ。
一足先に食べ終わった父は新聞を読んでいる。しかめっ面で、血走った目から今にも光線が出て薄い紙が焼けてしまいそうだ。そんなに苦しいなら、さっさと別の事すればいいのに、とは思っていても言わない。
我が家では共働きではあるものの、家事は母が全てやる。絶望的に不器用な父や、うっかりな私は皿を運ぶ事さえ禁止されている。たまに家事を手伝うのは兄だけだが、彼は有能すぎて母の立つ瀬がなくなるので頻度を控えているようだ。兄が中1の頃は洗濯、掃除、料理をぱぱっと同時進行で終わらせる上にプロ顔負けの成果をあげるのだ。
トイレだって新品のようになるし、料理は外食するより美味しい。それでいて、成績だっていいのだから、同じ血を持つとは信じられない。正直、母の浮気を疑うレベルだ。
「さっさと食べて、宿題しなさいよ」
心の声が漏れていたのかと、冷汗が出るのを必死に取り繕って、箸を動かす。今日のアニメも終わったので、リビングにいる意味もない。深刻な苦言を言われる前に退散するのが無難だ。
さっきまで咳き込んでたはずの兄もいつの間にか部屋に戻ったらしい。こっそり兄の部屋に忍び込んで調査したところ、あいつはアニメや漫画が好きらしい。筋肉隆々のフィギアがあって、少し兄を心配したのだが、中高生らしい思春期ならではの本も数冊見つかったのでほっと安堵した。
私は気づかれない程度に八つ当たりとも言える理不尽な不満を小声で漏らしながら、手早くご飯をかきいれ、お茶で飲み込んだ。
ピロリロリン
メッセージの着信音だ。迷惑メールでなければ真紀だろう。学校の人気者で、何故か私にも積極的に関わってくる女の子だ。
母はこの時、不満いっぱいの顔を露わにしていたのだが、私は気が付かずに震える携帯を手に取った。暗証番号を押そうと手に掛けた瞬間――
「食事が終わってからにしなさい! 貴女、宿題もまだでしょう!」
何が気に障るのか、ぴしゃりと大声を出すほどの事でもないのに、と母に怪訝な顔を見せる。もっと静かに指摘できないのだろうか。自分の価値観を無理やり押し付けるような母の姿勢は正直あまり理解できない。
話しても好転はしないので、無視してさっさと食べるに限る。兄がいなくなった途端に母が暗くなる。テレビのチャンネルを変えたかのような急激な変化だ。私に恨みでもあるのだろうか。
父は我関せずの態度を貫いている。仕事だって疲れるのに、家庭でも疲労を溜める気にはならないのだろう。眉間にしわを寄せて新聞とにらめっこを続けている。活字を読んでいるのかはわからない。新聞を広げる時以外、頁をめくる姿を見た事がないのだ。もしかしたら、目を開けたまま寝ているのかもしれない。
ようやく食べ終わったので、膨れたお腹をさすりながら、とぼとぼと自分の部屋に向かう。これ以上余計な小言を言われないように慎重にドアを閉めてから、携帯で着信メールの内容を確認する。
予想通り真紀だった。タイトルなしの1言メールだ。むしろタイトル付きのメールの方が珍しい昨今なので、別に不思議はない。
『進路どうするー?』
ピンクのベッドに腰をかけ、黒蛇のぬいぐるみを抱いて、天井を仰ぎ見る。鼻からゆっくり時間をかけて息を吸い、口からふーっと吐いた。
『わかんない』
テストだって、神頼みなのに将来の事なんてわからない。考えようとすると、床に点々と散らかった漫画の山が気になる。一昨日読み直した長編漫画で、茶道部で精進する男子高校生の話だ。焼き物や小物が細かく描かれていて、私の絵のバイブルになっている。
ピロリロリン
『私もー。市立高校にしようかな。近いし。』
身体を後ろに倒し、仰向けに転がる。ため息をゆっくり吐く。家からの距離で決めるのも本人が納得しているなら立派な選択なんだろうな。ゆっくり手を動かして、苦悩に歪んだ顔を覆う。
「どうしたいんだろうな、私……」
私は不安に押しつぶされそうになる心をどうにか誤魔化して、しなくてもいい言い訳を探す。将来は不透明で、自分のやりたい道をきっぱり言える中学生なんていない。そうやって私の悩みを世間一般の問題にすり替えたとことで、納得はできないし、問題も解決しない。
選択肢が少なければ、鉛筆で決めれるのに。
小学生の時にはいつの間にか部屋にあった学習机の上に転がっている6角形の鉛筆に視線を身体ごとごろりと動かして向ける。天辺に数字が書かれてあって選択問題の度に活躍している鉛筆たち。
それではどうしようもない事もあると、無意識に華奢な右手で携帯を握りながら、ため息をふっと吐く。
インターネットを通じて情報と人を繋ぐ携帯の画面を指でこする。私以外が使えなくするための暗証番号はなんの捻りもなく誕生日だ。もし紛失してクラスの誰かが手にすれば、数回の試行錯誤でロックを解除できるだろう。暗証番号の入力を3回間違えてからは5分、10分、30分と次に暗証番号を入力できるまでの時間が雪だるま式に増えていくのだが、そんな事態には陥らないだろう。
有名アニメに出てくる剣を持った少年の絵の上を塗りつぶすように四角いアイコンが並んでいる。そのうちのひとつ、インターネットのブラウザにちょんと指を乗せる。
いくつかあるブラウザの中で私が使っているのは履歴やクッキーを簡単に消せるものだ。思春期として健全な思考を持っていれば検索するだろうサイトを、私の誕生日がわかる程度には親しい人に見られるのが嫌と思うほどには羞恥心を持ち合わせている。
お気に入りのリストの上から3番目に指をさっと置く。さっきから横向きに寝転がっていたせいで、圧迫された右腕の負担を軽くするように身体を起こして、ベッドの端に座る。
アニメや小説が好きな人が集まるサイトで、登録した人同士が会話したり、観たアニメの感想を載せたり、つぶやいたりしている。コミュニティサイトと呼ばれる昔からよくある参加型の情報共有サイトの1つだ。
アニメきっずという名前だが、少年少女しかいないわけではない。10代から30代までが主要な年齢層だ。きっずというのは、いつまでも子どもの頃の無垢な気持ちを忘れないという願いを込めているらしい。昨今の子どもは捻くれていると私は思うので、むしろ子どもが純粋だと信じている大人の方がよっぽど無垢なのではないだろうかと主張したい。
そんな無垢な(?)子どもや大人が集まるこのサイトでは、日常的なつぶやきにコメントして井戸端会議になる事も多々ある。自分の発言に返事があれば知らせてくれるアイコンに7の数字が書かれている。7つの返事があったという事だ。嬉しくて自然と顔が綻ぶ。さっそく確認したい欲求を無理やり抑えて、新しいつぶやきをする。
『今日貰った進路調査の紙に何書くか悩む中学生』
サイトで仲良くなった人を友達登録してあるので、誰かは助言してくれるはずと淡い期待がある。むしろ悩める中学生を放置するなんて大人の風上にも置けない。
このつぶやき1つで爽やかな達成感があり、進路調査もなんとかなった気分になるのが不思議だ。座って携帯をいじるのも腕の疲労が限界だったので、さらに耐えようとする趣向の持ち主ではない私はごろりとベッドに転がった。
わくわくしながら7の数字を触り、待ちに待った私宛の返事を見てみる。私のつぶやき 『土屋の料理が気になる』に対する返事が7つだった。料理に失敗して黒焦げのパスタを作ってしまい不貞腐れた土屋が火を消し忘れたところで今日の話は終わっている。パスタを炭に変えるところからどれほど絶望的かわかるだろう。家庭科の実技を土屋が受けたらマイナス評価になるんじゃないかと思う。そういうところが勇者の資質なのかもしれないと、笑いが零れる。
『土屋が料理するの想像できないわー』と『次回予告と言う名のネタバレによると黒焦げパスタができるんだよな』の2つはアニメの前のコメントだろう。
1メートルくらいの聖剣で野菜切ったり、タコみたいな魔物を切って鍋に入れたり、料理だと聞かされていても目の前の光景を信じられない状態だった。そもそも料理でまな板が切れるのはおかしいし。コンロがないからって、火の魔法で鍋ごと燃やすのも奇抜すぎる。調理場は戦場だと言う料理人が漫画ではよく出てくるが、あれは正しくないな。
残りのコメントは『土屋恐ろしい子!』だとか『勇者だな……』だとか今回の騒動による土屋の評価だったり、『次回どうなるんだ? 主人公の勇者が家事で、火事で死ぬなんて…… このアニメだとありえそうで怖いんだが』みたいな来週の話に対するものだった。原作を読んでる人は『壮絶だった……。ネタバレになるから言わないけど』と不安を煽るような事をいうし、気になる。
先が知りたくてたまらないがこのアニメに限っては漫画版を買うのを我慢している。買ってしまったら、もういろんな意味で終わりかな、なんて変な想いがあるのだ。
ベッドの上をごろごろ転がりまわり、今度は部屋を見渡す。床に投げ込まれた鞄の中には宿題になっている問題集や明日の英語テストの参考書も入っているのだが、私が動かない限り何の変化も起こらない。
結局のところ、お風呂に入って携帯を弄って散漫に夜を過ごすのだろう。
勉強をしたくないわけではない。今からでもそれなりに努力すれば、正直その分頭はよくなるのだと信じたい。でも、煉瓦を積み重ねるように学習が進んでいく英語や数学においては最初で躓いて既に煉瓦の高さが全然違う状態からは簡単に追いつけるはずがない。そもそも独学で追いつけるなら、こんな事にはなっていないのだ。
将来の不安を胸に、無垢な(?)大人が有用な助言をしてくれるのを今か今かと待ちわびる。ある意味では攫われたお姫様のような気持で、他力本願しているのだった。