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19 私の温泉

 何時のまにか消臭剤が置かれた車内で横井一家は温泉旅館へと進路を進めていた。


 8月になり暑さは先月と変わらないものの、雨の日はぐっと減りプールや海に行く観光客が増えた。

 そんな暑い中温泉に行こうと希望したのは一穂だが、浴衣女子に想いを馳せる和也や子守や歩行に体力を擦り減らされる必要もない両親はなかなか気分上々だ。


 座席横の窓に横たわり一穂は眼を瞑る。

 女っぽい名前の数学家庭教師難波愛に温泉旅行の話をした前回の授業でクイズを出題されたのを思い出していた。

 宿題ではなく、できてもできなくても、やってもやらなくてもいい。社会と理科の暗記で鍛えられた記憶力で、クイズの問題文は鮮明に頭に焼き付いている。


『横井一家が朝8時に車で旅館に向いました。時速は30キロメートルで移動していましたが、1時間後市街地を出てからは時速60キロメートルまで加速しました。皆元気で旅館についたのは午前11時、寄り道のない旅路です。ゆっくり休んだ横井一家は翌朝8時に旅館を出て、行きと同じ道を今度は時速50キロメートルで帰りました。』


 この条件の下、クイズは2つ。

『その1。果たして同じ時刻に同じ場所を通るでしょうか?』

『その2。時速が違った場合はどうですか?』


 今こうやって、コンビニの前や本屋の前を素通りしていく道のりを翌日の全く同じ時間に通る事があるのだろうか、と一穂は思案する。


 同じ時間に同じ場所、そんな事は可能なのだろうか。

 ありえない、とは言えないが、少しでもずれたら失敗だ。


「昼食何食べたい?」

 一穂の母、真理が進行方向を見たまま、声を出す。

 当然ながら、難波が出題したクイズと違い、現実には車の時速は一定じゃないし、寄り道もする。


「うどん」

 一穂がぽつりと呟き、和也は無言で携帯をいじり無投票。一平はちらり振り返り一穂と和也の顔を見る。


「うどんにしましょうか」

「このへんにうどん屋なんてどこにあったかなぁ」


 父母があれこれ思案して、古い日本家屋型のうどん屋にたどり着いた。

 中央の机と厨房を囲うように和式の席がある。

 昼食には少し早い午前11時、店の6割が客で埋まっている。

 畳に敷かれた座布団に座り、1枚のメニュー表の文字を読んでいく。


「え」

 メニューに載っている飲み物は緑茶とウーロン茶だけ。ソフトドリンクはともかく、近年飲酒の取り締まりが強化されたとはいえ、お酒を全く取り扱っていないのは極めて珍しい。


「この店を選ぶのは飲酒しないって意思表示になるから、禁酒家や嫌酒家に人気があるのかもしれないわね」

「運転手が2人いる時に、片方だけがお酒飲むってのも防げるし」

 メニューのドリンクだけで両親が分析談議に花を咲かせている。


「純粋にうどんを味わって欲しいんだろ」

 久々に和也が口を開いた。職人気質論だ。


 無言の分析家が多い横井家で時折起こる3人以上での意思疎通と言う現象だ。因みに、真理以外が寡黙だから会話が少ないだけで、真理自体は特別話すのが苦手なわけではない。そして、一穂は会話が苦手で人嫌いなため無言だが分析家ではない。

 和服の店員がひっそりと現れた。おっとり顔の美形な女だ。


「さて、そろそろ頼みましょうか。私は天ぷらうどんお願いします」

「鍋焼きうどんをお願いします」

「肉まん」

 順当に父母が注文した後、和也がメニューに指を置いてうどん屋に違和感しかない言葉を発した。メニュー表には明確に『肉まん』と書かれている。


「天ぷらとうどん」

 一穂は声を出した事が辛うじてわかる程度の声を出し、メニューの該当部分を指さした。天ぷらうどんではなく、天ぷら『と』うどんだ。


 うどんの決め手はだしと麺。だしに拘る店では当然天ぷらのつゆも美味しい。

 無口だが食には五月蠅い女なのだ。

 普段分析家でないとは言え(おいしい)食に関しては、目を皿のようにして解析する。結局、一穂も横井家の人間なのだ。


 だから、結局――

「ん!?」

 天然のかつお節、さば節、うるめ節、昆布、いりこが丁度いい分量で水と混ぜられているのが分かる。いりこと昆布は水に1晩つけおいてだしを取ったのだろうか。いりこ、こんぶ、さば節独特の嫌な臭みがない。


 そして、忘れてはいけないのが、かえし。醤油とみりんは一般家庭にもある市販のものだろうが、砂糖!

 味に深みがあり、文字通り砂のように茶色い糖である三温糖の類が使われているのは間違いない。同じく茶色い砂糖である中双糖も煮物の場合などに代用して使えるし、だしや麺との兼ね合いではありえない選択肢でもないが、少なくとも今回は三温糖の甘味の方がうどんの世界観を広げるのに適していると言えるだろう。


 当然ながらかえしとだしを混ぜた後、味がまろやかに馴染むまで寝かせたのだろう事は臭みがない事から明らかである。

 うどんのこしも申し分ない。しっかり練って作ったのがわかる。火加減もうまい。余計なものも入ってない。水を拘ればもっと透き通った味に仕上がったのだろうが、そこまで求めるのは野暮だろう。この値段設定でここまでの味を出せた事に感服すべきである。そうでなければ、もっと大枚払って豪華な店に行くべきなのだ。


 天ぷらも当然美味しい。やはり……

「あ」

 しっかり分析しながら食事を続けていた一穂は重大な過失に気が付いて唖然とする。


 家族で一番の秀才である和也が肉まんを選んだ時に考えるべきだった。

 飲み物メニューが厳選された理由に、職人気質論を用いた彼を誰も深く追求しなかった。どこでその判断を下したのかはわからないが、根拠があったと考えるしかない。


 実際に料理に職人の想いが詰まっている。

 そして、この店に肉まんがある理由……。

 この店は小麦粉の使い方、練り方をよくわかっている。そんな職人が作った肉まんが不味いわけがない!

 さらに言えば、美味しいうどん屋で美味しいうどんを食べるのは簡単だが、熟練のうどん職人が作る肉まんを食べる機会はどれほど少ないだろう。


 ここまで考えると、和也の聡明さに感服せざるを得ない。

 徹底的に頭の奥から感じさせられる敗北感で、もはや味を楽しむ気になれない。恐ろしい兄を持ってしまったものだ。


 放心状態の一穂はどうにか食事を終え、車に乗り、いつの間にか旅館について、温泉に浸かった。


 ◇


 食に関しては家族で誰よりも深い意識を持っていると自負していた心をがつんと砕かれ、崩れ去った自尊心が温泉によって溶かされ、再構築されて行く。


「兄ちゃんには敵わないな」

 悔しさや嫉妬が流れ出し、和也への信頼に置換される。

 一穂が独占している木の浴槽で手足を伸ばし、目を閉じる。


 浴槽どころか誰もいないので貸し切り状態で、お湯が流れる音だけが辺りを包んでいる。

 静かで、暖かくて、安心できる。


「私は1歩ずつだ」

 1歩ずつ暗記して、知識を溜めて行こう。


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