18 私の家庭教師②
先日家庭教師が来た日の朝に丁寧に掃除された部屋で、ベッドに一穂は手足を投げ出して寝転がっていた。
「今日もまたテストやって駄目だしされるばっかりなのかな」
今夜は十数日ぶりに雨どころか雲もない日で夜空に星が輝いている。
寝返りを打って、手足を曲げて身体を小さく丸めた。どんよりした憂鬱な空気が部屋に充満している。
こんこん。
「一穂」
消え入りそうな一平の声がドアの向こうから流れ込んでくる。
ふーっ。
肺が膨れる程溜まった空気が喉を通って噴き出る。
転がってベッドから立ち上がった一穂はぼさぼさになった髪を手で整え、シャツの裾を握ってパンっと引っ張った。
「行こっ」
どうしようもなく頼りない声が部屋に残った。
◇
客間には肥満気味の短髪男が灰色のスーツ姿で着座している。学校の教壇に調和しそうな優しい顔つきの男だ。
「こんばんは」
一平に向っていた視線と弧束が、朗らかな笑顔と共に一穂に差し出される。
「……こんばんは」
部屋の中が暖かい。
一穂の委縮していた筋肉がすとんと緩む。
さっきまで無自覚に縛られていた緊張に気が付いて一穂ははっとした、
「こちらは難波愛さん」
「よろしくお願いします」
男なのに女のような名前を紹介された瞬間、難波は苦笑いを浮かべていた。
「そろそろ私は退席しますね」
流れるように一平は会釈をして客間からぼやけるように消えた。
難波は簡素な黒い鞄に手を潜らせ、白い紙が宙返りするように机に置いた。
「テスト……?」
前回の家庭教師が来た時の沼に身体を囚われるような憂鬱が頭をよぎり、掠れた声が垂れ流れた。
一穂の瞳に絶望が映る。
「違う違う。今日は話しながら勉強方法を考えようと思ってる」
「話し、ながら?」
氷が解けるように不安が緩和していくのが実感できた。
平常心とまではいかないまでも落ち着いている状態で机上の紙を見る。
試験用紙ではない。
白紙だ。
「そうそう。自己紹介して、どういうやり方で勉強するのがいいか一緒に考えて行こう」
足並みを見て合わせてくれる。
そういう先生だ、この人は。
「僕は難波愛。って名前って変でしょ。親が絶対女の子だって、この名前しか考えてなかったんだってさ。酷いよね」
ぼんやり顔で難波を見つめる。
自分の境遇を笑っちゃえる人なんだ。
「確かに……」
「たぶん女の子欲しかったんだろうね。おかげで、かなりの放任主義な育てられ方でよかったんだけど」
「はぁ……」
難波は雲りっ気のない笑顔をみせた。
「それで、僕は数学専攻の大学院生になった。大学も院も同じ県立大。数学の事ならどんな質問でも答えたいと思ってる。もし質問された日に答えがわからなかったら、次の授業までに調べてくるよ」
「……ありがとう、ございます」
難波は白紙を手元に寄せ白いシャーペンを軽く握った。
「さて、今度は僕から質問したいんだけどいい?」
「はい」
「まずは目標って何かな?」
「目標?」
向かう先、ターゲット。
理想。
ピリッと脳に電流が走る。
「ホームレスになる事です」
難波が初めて微笑みを崩し、言葉を失い呆けたように口を開いていた。
「まさかホームレスが目標とはすごい発想だね。僕が中学生、高校生の時は進学しか頭になかったよ」
清々しく放った言葉には嫌味がなく、むしろ感心しているようだった。
一穂はうまい返答を無言で考える。
このまま一穂が数秒声を出さなければ、気まずい間ができそうになったその時。
「実はさ。さっき市立高校志望って聞いたんだけど、どうホームレスにつながってるか聞きたいな」
「幸せなホームレスになるには準備が必要で、市立高校に入学できたら協力してくれるって母が約束してくれたから」
難波は言葉をゆっくり噛みしめるように頷いた。
「市立高校にはどのくらい受かりたい?」
「……どのくらい?え、っと、絶対受かりたいです」
一穂は太ももに乗せた両手を力強く握り、目を大きく開けていた。
「わかった。じゃあ、授業内容を考えたいから、今の学力、数学はどのくらいできるか教えてくれるかな?」
水を掛けられた火のようにしゅんと一穂は静まり返った。言葉を探すように目をきょろきょろさせる。
気まずい沈黙。
「えっと、全然わかりません」
肩をがっくり落として、一穂は白旗を上げて降参宣言する兵士のように情けない声を出した。
「わからないところがわからない状態はよくあるんだよ。心配しないで」
「はい……」
「掛け算は全部問題なく覚えてる?」
「99ですか?」
「はい」
「できます」
覚えているか訊かれたのに、できるか答えてしまった一穂に難波は何も言わず、代わりに――
「掛け算を覚えきれてない中学生もいたんだよ。今いる地点がわかれば、対策や進み方もわかってくる」
話を続けてくれる。
「はい」
「あ、ここでクイズ。8枚の煎餅が入った袋が7つあります。全部で何枚の煎餅がありますか?」
小学生でも解けるはずの簡単な問題だが、掛け算の概念を理解できていないと99を暗記しているだけでは解けない。
「8枚が7つ……。56枚」
「そうそう、正解。よくできました!こうやって何ができて何ができないか探す。そっから始めてみようや」
「はい」
本人は自覚していないが、難波から見える一穂の顔は緩んで笑顔になっていた。
◇
算数から始まる数学の特訓はこうやって始まったのだった。
そして、この先生との出会いで英語の家庭教師との相性の悪さがさらに浮き彫りになり、一平と真理の会議の結果、とりあえず英語は独学(というより保留)に切り替えられた。
一穂の夏休みは進んでいく。
アニメを観ながら。
社会、理科、漢字を通信講座や教科書を使って暗記しながら。
2人3脚で難波と算数を勉強しながら。
1日1日と時間を費やしていく分、ぽたりぽたりとバケツに水が溜まっていくように学力が頭に入っていく。
日進月歩。
そして、家族温泉旅行の日が近づいていた。




