17 私の家庭教師①
心に吹き込んでくる冷たい風、さーっと地面にぶつかって染み込んでいく儚い雨音、人の気配がしない道路、暗闇に向って住宅から漏れる陽気な光。
切なくて悲しい夜の時間。
一穂は不安な気持ちを両手で抱えて部屋の窓から外を眺めて立っていた。
この雨の中やってくるのはどんな人だろう。
かっこいい人だろうか、ぱっとしない人だろうか。
かわいい人だろうか、気持ち悪い人だろうか。
優しい人だろうか、怖い人だろうか。
私はどう思われるだろうか。
「落胆されないといいな」
一穂と相性のいい社会と理科の勉強方法は通信講座や教科書だと結論に至り、残った科目のうち最大の問題だった英語と数学、その2教科の対処は家庭教師に任せてみる事が伝えられた。
少人数制の塾で判明したように他の生徒がいると学力差のせいで軋轢が生じるものの先生に教わるのは有意義だ。それなら、家庭教師に頼む事で問題が解決する勝算が高い。
今夜初めて顔を合わせる家庭教師第1号は県立大学に在籍している女で英語を担当してもらう事になっていた。他の事前情報は一穂に与えられていない。
もうそろそろ予定されていた時間だ。
深呼吸して部屋の最終確認を行う。
綺麗に水拭きされた机、2脚置かれた椅子、鋭利に削られた沢山の鉛筆、英語の教科書、新品のノート、赤面ものの漫画は隠蔽済み。
大丈夫、完璧だ。
深く長く深呼吸して心を落ち着かせ、軽いストレッチで身体の緊張を解く。
「よし」
ぴーんぽーん
家庭教師が来訪したようだ。
忍び足で玄関までゆっくり歩いていく。
今夜は兄の和也も父の一平も帰りが遅くなるらしい。残っているのは母の真理と一穂だけだ。
「こんばんは」
真理が挨拶しているのが聞こえる。
「こんばんは。お初にお目にかかります。渡辺芳子です。よろしくお願いします」
高い響く声だ。
「今日はよろしくお願いします。一穂、いらっしゃい」
真理はいつもより半音高い声で一穂を呼び、俯く一穂と渡辺を1面が畳の客間に先導した。
一穂が後ろから見ると、渡辺は黒いスーツ姿で、長い茶髪は頭の上に団子のように結ばれていた。鞄は白い布製で少し濡れている。
机には新品のノートと筆記具、それからお茶菓子が用意してある。紫の座布団は3枚あって、渡辺、真理、一穂の順で腰を下ろす。
「正座なんていいのよ。疲れるでしょう」
「では、お言葉に甘えて」
背筋をぴんと張って鎮座している真理の言葉で渡辺は足を崩した。一穂は最初から足も姿勢も崩れている。
渡辺が鞄の中からファイルを取り出し、机の上に差し出した。
名前、生年月日、学歴、学部、得意科目、それから趣味まで載っている。
国語、英語と社会が得意な教育学部の大学生2年生で趣味はトロンボーン。
真理が渡辺と雑談しているのを横で見守る最中、気になって渡辺の顔を窺って見る。清潔感のある落ち着いた顔で、クラスにいる勉強一筋の女子みたいな少し暗い顔。塾にいた七三分けの眼鏡少年と同じ真面目で自尊心が高い印象だ。
「……というわけで今日はテストを受けてもらって、それから授業をしたいと思います」
「じゃあ、私はそろそろ席を立たせてもらいますね」
雑談が終わったらしい真理は部屋を出て行き、2人だけが残された。
「えっと、一穂ちゃん。まずはこのテストを受けてみて頂戴。時間は、そうね、40分」
英語の自作テスト用紙を一穂の手元に置いて、渡辺は真面目な顔を見せた。
「……はい」
5分もあれば十分だろうな。
最初のアルファベットはわかる。
ネットで話す時にローマ字覚えた成果だ。もっと速く話したくて少しずつ、いろんなボタンを押して試行錯誤の末身に着けたんだよな。
解けた問題があった事にほっと安堵の息を吐き出す。疲れた足を伸ばして曲げる。
そして、次の問題を読んで、終わりを予感した。
『ここからの問題はわからない。』
解けないのを確認する為に、全部解答しようとした事実をみせる為に。
英単語の意味を答えなさい。
ミルクは牛乳、ピアノはピアノ。初っ端からわかるものもあったな。
カケ、リブラリ?、ルン……
あ、クールはわかる。かっこいい、だ。
ウェドネスデイは何曜日だっけ?
リオン・・、人名か?
リセ……、人名か?
次の動詞を英語に直しなさい。
見る、気にする、笑う、想像する、悩ませる、望む、結審する、試みる、負ける、泣く、忘れる。
なんだか初恋から失恋までのストーリーができそうだ。
しかし、1単語もわからない。
次の名詞を英語に直しなさい。
パン、卵、手、学生、2月、年齢
PAN
EGGU
TE
うん、パンしか自信ない。
一穂は頭を掻いて、吐息を漏らす。
次の英文を日本語に直しなさい。
次の日本語を英語に直しなさい。
うん、和訳も英訳も難易度高すぎるよね。そもそもエミリーって名前自体どう英語で書けばいいかわからないし。
最後の長文なんて暗号文だった。
とりあえず、『リサは夕食を食べてなんと言いましたか?』には『おししかった』と解答しておいた。さすがに、『不味かった』なんて事はないだろう。
「終わりました」
白旗を上げて恐る恐るギブアップ宣言した。
「まだ空欄あるじゃない?時間もあと20分残ってるよ」
渡辺はドSなのだろうか。
わからないし、解けないのに40分間痛い視線を感じながら過ごせ、と。
どうしようもないので諦めて俯く。
「あ」
前髪で目が隠れているだろうな、と気が付いた時には目を瞑って妄想の世界に旅立っていた。
「もっと集中して」
渡辺が動かなくなった一穂に叫んだ。
『そういう気合でなんとかなるのは頭に知識がある人だけ。』
水の入っていないコップを引っくり返していくら叩いても何も出ないのだ。
棒切れのような心はぽっきり折れた。
「一穂ちゃんはアルファベットはわかってるみたいだけどその後は全然ダメ。まずは中1のところからやるしかないわ」
それからの事はあまり記憶に残っていない。
一穂は呆然としたまま淡々と渡辺の指示に従って教科書を持ってきて音読し、『声が小さい』だとか『わかったら返事しなさい』だとか叱咤されながら授業は進んだはずだ。
2時間の授業の後、一穂と入れ替わりで入った真理に、渡辺による授業の経過報告が行われ、一穂は部屋に向かった。いつの間にか帰っていた一平や和也を横目で見た一穂は何も言えずに部屋に帰ってベッドに倒れこんだ。




