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14 私の波乱

 社会の期末試験前、教室ではノートを見直す生徒や午後の予定を話す生徒、瞑想している生徒がいる。

 学校に持ってきた問題集は原因不明の羞恥心のためしまったまま、代わりに何度も繰り返し音読した教科書を一穂は黙読する。

 沢山のフリガナは一穂と真理の努力の証の1つだ。


 キーンコーンカーンコーン。

 キーンコーンカーンコーン。


「よしっ」

 鼓動が高鳴る。

 大丈夫。

 気合十分だ。


 がたがたと席に座り、灰色の答案用紙が配られる。そして、問題用紙が裏向きに前から手渡しされていき、45分の戦いの火蓋が――

「始め!」

 切って落とされた。


 ざらりとした問題用紙を払うように反転させる。

 答案用紙に名前を書き、興奮に身を任せて問題を読む。

 周りから聞こえる紙を鉛筆が擦っていくいく音。


 雨の音。

 そして、私の心臓の音。

 問題に出てくる単語が別の知識を刺激してつながっていく。


 わかる。

 分かる、分かる、分かる!


 右手が答案用紙の上を軽快に動いていく。

 ああ……


 問題が解けるのってこんなに楽しかったんだ。


 全身がぞわっと震えて、呼吸が乱れて、脳内に文字浮かんで――

「ん」

 固まった。


 え、これ、なんだっけ……?

 答えを知っているのはわかるのに、頭に浮かぶ文字がぼやける。

 教科書のあの頁に載っていた。


 ……。

 届きそうで届かない、見えそうで見えない記憶の中のあの文字列。

 同じ所をぐるぐる回って、思考が滞る。


 飛ばして、次に行きたい気持ちと、もうすぐ思い出せそうで踏みとどまりたい気持ちがせめぎ合う。

 残り時間が削られて行く。

 まるで溺れてしまったよう。呼吸が苦しい。


「残り10分」

 先生が残り時間の知らせをしたのを聞いて一穂は時計を一瞥した。一穂はぼさぼさと頭を掻いて、唇を噛みしめる。左手はきつく握られていた。


 ……もう次の問題に行かなきゃ。

 時間を、時間を使いすぎた。

 もっと速く読まなきゃ、もっと速く書かなきゃ。


 焦燥感が身体を蝕んでいく。

 問題文を表面だけなぞるように視線をかすらせ、脳裏に浮かんだ答えを殴りつけるように答案用紙に埋めていく。

 余計な後悔で頭が焼ききれそうになるのを問題文を思い浮かべて塗りつぶす。残り時間が切れる前にどれだけ書けるだろうかと雑念が出るのを取り払う。


 あと1問、あと1問。

 即座に答えが頭に浮かばないのは飛ばし、空欄を1つ1つ消していく。

 足りない、足りない。


 時間が足りな……


 キーンコーンカーンコーン

 キーンコーンカーンコーン

 そして、戦いは終わった。


 ◇


 7月になり、結果がぽつぽつと返りはじめ、終業式までの1週間以内には結果が全て揃うはずだ。

 それなりに自信を持って臨んだ一穂の初陣は問題を理解できた喜びと回答できた誇らしさでいっぱいだった。後半の失敗は都合のいい事に忘れている。

 今まで殆ど空欄だった試験用紙に文字がぎっしり詰まり、正解が数多かった衝撃は大きな波となって職員室を駆け巡った。


 初めて学習面で先生に褒められた。

 副担任の前野にも試験結果は伝わっていたのだ。

 喜んで『すごいねー!』って繰り返す前野の前で一穂は顔を赤らめた。

 試験結果を前野が知っているという事は迫りくる社会授業で結果が返ってくるという事だった。


「今日はテストを返却しまーす」

 梅雨の待っ最中、ブラウスや身体が湿ってテンションを駄々下げするはず天気だが、一穂にとって採点結果がわかってしまう動揺でそれどころではなかった。

 教室全体がそわそわしていて、湿気の原因が雨なのか汗なのかわからない。


 出席番号順に名前が呼ばれて行く。

 ガッツポーズして自慢げにしている岡田、自分の方が高得点だったのかぴらぴら試験用紙を見せて岡田を怒らせる佐々木、げんなりしている生徒や点数を確認せずに無表情を貫く生徒もいる。


 かなり努力した。

 かなり解けた。

 かなり自信ある。


 90点とか取れたりするのかな。まさか30点だったりしないよね?

 でも、不安もかなりある。


「山本さーん」

 次が私の番だ。がががっと音を立てて椅子を後ろに押し、ふっと息を吐いて、席を立つ。

 ちゃんと勉強して試験を受ける他のクラスメイトはこれまでこんなに緊張して採点結果を待っていたのか。

 手足がみっともなく震えているのがわかる。


「横井さーん」

 引きつった顔でさっと試験用紙をひったくり、点数を確認した。

 灰色の答案用紙の右上に赤字で書かれた数字

 76点。


 身体の芯から熱が溢れて爆発でもしそうになる。

 叫びたい、走り出したい、飛び回りたい。


 16点じゃなく76点だよね、と丸の数を確認して安堵する。

 これまでの試験では5教科合わせても76点なんてとった事なかった。


 人生でこんなに歓喜が湧き上がった瞬間はない。

 これからもないだろうと、興奮した脳内で叫んでいた。

 そして、それはあっさり前言撤回させられる。


「学年平均は63点、最高点は95点よ」

 お姉系疑惑がある社会教師の言葉だ。

 平均点を越えた。


「学校の半分の人より高い点数……」

 一穂は平均点が真ん中の順位と解釈していて、それが学年でトップ50%に入ったと思った理由だ。平均点が学年順位と一致するわけではないが、そこまでの知識を求めるのは野暮だろう。


 根拠はともかく、76点は実際の順位も上位50%には入っている。

 身体を焼き尽くす勢いの歓喜をぶつける先を探して、一穂はトイレに駆け込み個室に入り無言の雄たけびをあげた。


「あ……」

 因みに、今だ授業中である。

 というよりも授業が始まったばかりである。


 急激に落ち着きを取り戻した一穂は何事もなかったかのようにトイレを出て教室に戻った。

 不幸中の幸いだったのは、トイレが一穂の教室から階段を挟んだ位置にあり近かった事と一穂の席が後ろから2番目の通路側だった事だ。先生にはばっちりばれているが、一穂の会心の高得点を知っているので歓喜で理解不能の行動をするのも無理はないと思われていたらしくお咎めなしだった。


 試験が返ってきた日の授業は答えの確認だった。

 間違えたところの説明をされていくと、おかしな事に気がついて行く。


「ここは問題を勘違いしてた」

「これは漢字間違いで減点」

「この問題の答えを度忘れして、思い出そうと時間を使いすぎちゃって、最後まで解く時間がなくなったんだ」

「ここは時間なくなって読み飛ばしたけど、覚えてたやつだ」

「最後の部分、解答欄間違えてる……」


 時間配分や解き方を知らなかった。全くわからなかった問題もあったけれど、それぞれを直せば上位、いや学年トップも狙える、そんな期待が残る成果だった。

 度忘れした問題を後回しにすればもう10点は軽く上がっていただろう。

 焦ってさえいなければ、問題を正しく理解できただろう。


 授業が終わり露わになった改善点の多さに眉を潜めた。


「悔しいな」

 無意識にぽつりと呟いた。


「あーら、横井さん。落ち込んでいらっしゃるのね」

 手に社会の答案用紙を持って得意げな顔の高山雫。総合得点クラス2位、学年14~16位にいる通称『ティーンズ』の1人。


 後ろにはクラス5位の石井敬子がくっついている。

 無言で高山を見上げる。他人を見下すのに躍起になって頭を使っているせいで胸に行くはずの栄養を消費し尽くしているのかもしれない。


「毎回、安定して低い成績なのに今さら何を落ち込んでいるのかしら」

 今までと比較したら、手放しで喜んでいい大戦果だ。


「確かに……。ありがと」

 貶しているつもりだった高山は今日も一穂を元気づけるのだった。


「ま、まぁ、頑張る事ね!」

 捨て台詞さえ、激励の言葉と受け取られるのだった。


 後悔の念で心が少々荒れ狂ってしまったが、それは自分の伸びしろを自覚できた証明。

 次はもっといい点を取れる、取ってやる。


 期末試験は大成功だった。

 社会60位。非公開のクラス順位では9位だ。


 5教科合計145点。235位。

 問題を読みなれた結果、国語の試験でも点数が上がったのが響いている。


 5教科の順位がそんなに伸びていないのは単純に下位争いしている人が少ないからだ。


 因みに、総合得点の学年上位30人と科目別順位のトップ5は掲示板に貼りだされる。

 20位までは殆ど無名で、一穂のクラス委員長が21位あたりを右往左往しているが、その奮闘を知る人は両手で数えられる範疇だ。


 13位~19位の『ティーンズ』と一桁の『シングルディジッツ』と呼ばれて有名だ。

 高山雫は毎回15位前後の常時『ティーンズ』。

 『シングルディジッツ』は順位変動が1年ほどないので、学年6位の佐々木修は不動の6位だ。


 社会の成績で一躍有名になった影響で先生に勉強法を聞かれたり、担任が妙に期限がよくなったりして、一穂は嬉しい反面鬱陶しいと思わずにはいられなかった。


 結局のところ人付き合いは嫌いなのだ。

 柔道部が全国大会に行くらしいと分かった終業式が終わると夏休み。


 夏の特訓が始まろうとしていた。


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