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13 私と母の試験勉強

「社会は暗記が全てよ」

 中学2年、成績は学年279人中255位の横井一穂。

 ホームレス社会の厳しさを学び円満な野外生活を営む為の知識と技術を習得するのを親が全力で援助してくれる条件突破の第一歩として期末試験への勉強をしていた。


 条件というのが市立高校への入学で、この難関校を学歴に残す事は別の夢ができた時の保険にもなる。さすがにホームレスになった後やりたい事が出来ても中卒にはチャンスが少ないと理解している。


 市立高校合格のため、両親は出来うる限りの協力をしてくれると宣言しており、今日は真理から期末試験対策の勉強方法を教わっていた。


「社会の問題は暗記できていれば解けるし、記憶に残ってなければ解けない。勉強の成果が出やすい教科です」

 ポニーテールの真理は業務中と同じ完全なスーツ武装で、どこの会議に出てもおかしくない気迫を漂わせていた。シャツにも背広にも皺はない。


 一穂はよれよれの制服姿で椅子に座って話を聞こうとしているのだけれど、勉強に慣れていないので集中力がなくそわそわしていた。


 一穂の部屋の壁には2週間後の期末試験範囲が貼られている。まともな勉強すら始めてなので今回は社会科に絞っている。努力すれば点数が取れる事を実感させるのが目標だ。


 ただし、期末試験までの日割り目標も存在していて、夜の勉強初日である最初の目標は意識改革だ。

 どうやったら一穂でも点が取れるように勉強できるのか、それを明確化できれば目標達成である。勉強を登山で例えるなら、今は装備も揃っていない段階だ。1人で登るだけの体力もない。


 一穂には授業を真面目に聞くだけの忍耐力がないのだ。ノートには絵しか描かれていない。絵も完成させるまで集中力が続かないのか眼だけだったり、指だけだったり、顔半分だけだったりハートみたいな模様だったりしている。


 教科書を1行読むだけでも苦痛であり、問題文だって読み飛ばしてしまっている。

 見る人が見れば絶望的な状況だが、意識改革の方法がないわけではない。

 しっかり装備して、親子で丘を登ってみればいいのだ。


 装備とは教材であり、勉強法だ。

 共に登るというのは一緒に勉強するという事だ。


「教材を用意しました」

「うん?」

 真理が手に持っていたのは厚さ5ミリほどのペラペラの問題集だった。一見頼りなさそうなその冊子は威圧感が少ない。勉強経験が少ない一穂が余計な先入観や脅迫概念を抱かないように考慮されている。


「これ解くわけじゃないのよ」

 問題集なのに解かないのだときっぱり説明され、一穂はさらに驚いた。


「今回の試験範囲には付箋がしてあります。合計3ページです」

 一穂にもそれがかなり少ない頁数だとわかる。数は暴力だ。

 たった3頁だと思ってしまった一穂の脳には、無意識にそのくらいならやれるという意識が生まれる。深層心理で大丈夫だと思ってしまえば、それは成功である。


「ここに書いてある問題を読んで、すぐ答えを見ます」

 このペラペラの問題集が教科書だと明言した理由だった。頁数が少ないという事は重要点だけに絞ってあるという事である。試験も重要な部分を理解しているか試すためのものであるのだから、ペラペラの問題集に出ている内容の大部分は試験にも出ると予想できた。


 一穂が登る最初の丘だ。

 真理は隣に座って、問題を丁寧に音読し、別紙に印刷済みの答えを指さし音読した。


「一穂もやってみて」

 真理に言われて、一穂も問題を音読しようとして躓いていた。


「アメリカ合衆国のおおにしようそばにある山脈を答えなさい。アパラチア山脈」

 おおにしようそば、と言うのは読み間違いだ。

 こういう他の人が意識しなくてもできるところで転げる事がある。だから、寄り添って勉強する意味があるのだ。


「そうそう! よくできました!」

 頑張ったら間髪入れずに褒める。こうすれば、脳から幸せを感じさせる物質が出て、それが繰り返されれば、勉強するのが快感になっていく。勉強すれば理解は深まるので成績も上がる。そして、さらに褒められて、幸福のスパイラルが完成するのだ。

 一穂の顔が仄かに赤く染まり、綻びそうになる顔をそむけていた。


「この勉強法だったら続けられそうでしょ?」

「うん」


 声に出して確認するのも大きな意味があある。言霊という単語が昔からあって、言葉には力があると信じられてきたが、その通りだ。

 カラスは白いと言い続ければ、カラスが白いと思い込む程に効果がある。この勉強法なら簡単だと意識させた言葉を発声させるのも同じ理屈だ。


「この問題集に1つだけ不備があるとすれば、それはフリガナがない事ね」

 あえて一穂の知識不足ではなく問題集の質に着目させる事で、心理的な負担を軽くする。

 一穂はぽかんとしていた。


「さっき一穂が音読してくれた問題のこれは大西洋側って読むのよ」

 真理は『大西洋側』の文字を指さした。

 一穂の顔は羞恥心で朱色に切り替わる。


「生徒への気配りが足りない出版社の代わりに問題にフリガナふってあげて」

 中学生の心は繊細だ。ちょんと触れば崩れるほどに。

 そして、中学生向けに出版された冊子に中学生である一穂が読めない言葉があったのだから、真理の指摘もある意味では本心なのだ。

 例えそれが中学生なら読めるはずの言葉で、出版社に不満を漏らすのが筋違いだったとしても。


 ◇


 一穂と真理の二人三脚での学習は連日続き、何度も何度も同じ問題を音読した。

 学習した内容も復習しなければ次の日には殆ど忘れてしまう。逆に繰り返せば定着する。

 答えを見なくても言えるようになったのは3日後だった。


 そこで回答を紙に書くように変更される。

 さらに満点が取れるようになった翌日、問題の順番や表現を変えられた。


「全問正解ね。すごいわ」

 褒めながら、飽きないように工夫しながら繰り返し読み込みあった。

 そして、社会の試験の4日前、問題すら暗記しそうな勢いの一穂に真理はさらなる変更を言い出した。


「予想以上の成果で一穂は重要な部分を暗記し終えたわ。次は教科書を読んでみましょう」

 愕然とする一穂を眺めて真理は微笑んだ。

 教科書を1行読むのも苦痛だったのだから無理もなかったが、それは知識がなく知らない情報ばかりだったからだ。暗記し終えた最重要点に関連する情報を読むのはこれまでとは比べ物にならないほど楽なのは間違いない。


 そもそも真理が途中から文章表現を変えて出した問題は教科書を参考にしている。以前とは状況が違うとずっと傍らで見てきた真理は知っていた。


 予想通り、恐る恐る教科書を音読し始めた一穂の顔はころころと表情を変えた。


 読み始めるまでの不安いっぱいの顔。

 最初の文章を読んで理解できた驚き顔。

 なんで読むのが楽なのかわからない困惑顔。

 問題集で暗記した内容が出てくる度に綻んだ笑顔。

 新しい情報が暗記した内容とつながった時のはっとした顔。


 最後に一穂が見せたのだけは真理にも意外だった。

 そして、一穂も自分の身体の反応が信じられなかったに違いない。


 ……泣き顔。


 これまで自分にはできないと思っていた事が、自分の常識が壊れた事が嬉しくて達成感でいっぱいだった、のだと真理は想像する。


 思春期真っ盛りの中学生が親の前で零した涙は止まらずに、一穂の意識改革の第一段階は完了した。

 試験を受ける前から点数が向上するだろうとは疑いようがなく、問題はどれだけ点数があがるかだった。


 真理と一穂は何も知らない教師の驚く顔を想像して笑った。


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