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11 私の取引

 真理に連れられて一穂はファミリーレストラン『らんらん』に来ていた。生徒それぞれへの足並みを学校と家庭で揃える4者面談が終わった時点でもう5時半で、それから移動したので丁度夕飯時だった。


 当然ながらアニメはリアルタイムで観れないが、録画は予約済みだ。


 ラミネート加工されてつるつるした表面の頁をめくり、冊子状のメニュー表を鋭利な目で眺める。鉛筆頼りの学校テストとは違い、1つ1つのメニュー写真を無言で睨み真剣に選ぶ。


 とろとろチーズのハンバーグ。

 サクサクパン付きシーザーサラダ。

 クリームたっぷりコーンスープ。


 有料のジュース飲み放題と無料のご飯おかわり自由付き。

 今日の夕飯がようやく決まり、メニューの頁に指をすっと挟んで冊子を閉じた。頼むものが決まったと知らせる意思表示だ。


「決まった?」


「うん」


 真理は細い指を丸みを帯びた白い呼び出しボタンまで這わせ、ぽちりとボタンを押した。

 頭を動かさずに遠くを黙って見つめる。


 ぱらぱらといる他の客や空席の机の向こうに2畳程の窓ガラスが壁代わりに並んでいて、真っ暗な空と駐車場に並ぶ車が見える。

 無言の空間は別段居心地悪い物ではなく平常通りだ。異例なのは、少しだけ胸を締め付ける原因不明の切なさだけ。


「いらっしゃいませ。注文はお決まりでしょうか?」

 男にしては長髪で飲食店のウェイターより音楽家や芸術家らしい風貌で制服の茶色と桜色のシャツは似合ってないが、とびきりの優しい笑顔が接客される人を幸せにするので、ウェイター失格というわけでもない。


 胸についた四角いネームプレートには『橋本水樹はしもとみずき』の下に星が1つついている。その右に点が4つ並んでいる事から、ウェイターのレベルを表すものだろうと推測できる。


 1つ1つ指さし相手が確認するのを待ちながら、一穂は食べたいものを宣言していった。

 真理はメニュー冊子を閉じている。

 一穂が口を閉ざして、一呼吸置いたのを待って、真理は顔を長髪ウェイターに向けた。


「抹茶パフェとドリンクバーをお願いします」

 夕飯がパフェって自由すぎだろ!

 内心驚きつつも、誰も表情には出さなかった。


 頼んだメニューの確認の後、笑顔の長髪ウェイターはグラスを持って戻ってきた。この時間のホールスタッフは長髪ウェイターと真理と同年代であろう中年ウェイトレスの2人だけで、忙しく店内を歩き回っている。


 一穂は無人のドリンクバーコーナーで数種類のフルーツジュースと炭酸飲料を混ぜ合わせ、真理はその様子を細目で一瞥した後ため息を出しながらメロンソーダをグラスに入れていた。


 淡い黄色の床を歩き誰ともすれ違わずに2人揃って席に戻った。

 口にした飲み物がシュワシュワと舌を刺激し、全身に血が駆け巡るように沁みわたる。

 面談前から張りつめていた空気の鎧が音もなく消え、肩の力も抜けた。


「拘束されない自由も心地いいと思う。私も毎日仕事や家事をしていて苦痛に感じる時もあるわ」

 どこか懐かしい柔らかな声だった。不意打ちの発言に、一穂は眼を自分でも気づかないくらい少しだけ広げた。相槌を忘れるほどの驚きから立ち直ってない一穂を見据えて真理は続ける。


「でもね、こうやって食べたいものを好きに選べる自由も捨てがたいものなの」

 淡々と伝えられた真理の価値観は押しつけがましくはない。考え方は人それぞれ違い、求める生活は家族であっても一致しない。それは仕方ない事でもあり、だからこそ楽しい。


「人生は長い。自分の価値観もどんどん変わっていく。私が生活で望むものも1年前とは違う。10年前とは全然違う。20年前と比べたら別人ほど」

 一穂だって日々新しい価値観を発見し影響を受けている。半年前はホームレスになりたいなんて思いもしなかった。


「私は、そしてお父さんも、貴女の幸せを願っているわ。一穂が幸せなら、ホームレスになるのもいいでしょう」

 了承されるとは、しかもこんな短期間で、全くの想定外で驚きを隠せず口がだらしなく開いていた。呆然とする一穂を置いてきぼりにしてさらに言葉が続く。


「ただし、長い人生の中で一穂が求める生活が変わる可能性はあるでしょう。その時になってから変えようと思っても大人にはチャンスはあまりないんです。中卒のおバカさんには特に……」

 ここで初めて目を伏せた真理からは哀愁感が漂っている。それは沈黙を守る一穂の琴線にも触れ、申し訳ない気分になっていた。


「私は親として貴女の幸せを願っています。今だけの幸せではなく、私が死んだ後の幸せも願っています」

 人はいつか死ぬ。そんな当たり前の事を一穂は忘れていた。ホームレスになっても、世界はそのままなんだと漠然と信じていたのだ。

 真理はゆっくり深呼吸し、一穂の目を再び直視した。


「だから、取引をしましょう」


「取引……?」

 独り言と変わらない小さな声が一穂から零れる。

 こくりと頷いた真理。

 そして、不意にハンバーグとコーンスープの匂いが漂ってきて――

「お待たせしました! とろとろチーズのハンバーグ、サクサクパン付きシーザーサラダ、クリームたっぷりコーンスープ、抹茶パフェです。ご飯はおかわり自由なので食べ終わったら、ドリンクバーの隣までどうぞ」

 長髪ウェイターが注文していた料理を素早く丁寧に並べた。


「ありがとう」


「注文はお揃いでしょうか?」

「ええ」


「ありがとうございます。また追加があればお気軽にそこのボタンを押すか、1声おかけください」

 和やかな笑顔でマニュアル通りであろう対応をし、これまたマニュアル通りであろうお辞儀をして去って行った。別に不快感があるわけではなく、ウェイターの対応としては十分に気分のよいものだった。


「いただきます」

 一穂はステンレス製のスプーンを湯気が立つコーンスープにすっと差し入れ、吐息をかけて少し冷ましてから、濃厚でクリーミーな味わいを舌全体で堪能した。幸せでうっとりする。


 ハンバーグはチーズに合っていて噛むと流れ出る肉汁と調和し脳細胞を刺激する。シーザーサラダはさっぱりとしていて、つんとするドレッシングも爽快感を煽る。ハンバーグのどっしり腹に来る重量感をサラダがさらりと流していいバランスが取れている。


 白米もふっくら美味しい。メニュー表によると新米のシーズンになると毎年米選びをしているらしい。水は特にこだわっていないようで弁当屋『真心ファミリー』には劣るが、弁当と違って暖かい分美味しさは抜群だ。

 お腹が膨れてきたところで抹茶パフェを食べ終えた真理の微笑みが一穂に向けられる。


「そう、取引よ」

 取引と言う単語が中2の心をわくわくさせるのは何故だろう。もしかしたら、食べ物に対する期待を脳が錯覚しているのだろうか。


「いい高校を卒業していれば、ホームレスになった後で違う道を目指すとしてもチャンスは残ると思います。中卒よりは高卒の方が世間は優しいからね」

 取引と言いながら、要求だけなのだろうか、とむっとする。


「市立高校に入れたら、私は貴女のホームレス生活への準備に全面協力します」

 ホームレスになるのに協力なんていらないんじゃないかと一穂は怪訝に思う。一穂の懸念を知ってか知らずか真理の質問が放たれた。


「ホームレスになるって言ってもホームレスの事をどこまで知ってるの?」

 公園や高架線沿いで野宿して、自動販売機や道路に落ちてるお金を拾ったり食べ残しを拾って、たまに他のホームレスと交流しながら何にも強制されず生活している人たちだろう。頭の中で答えたものの、怪訝な顔で沈黙を貫いてる。


「ホームレスにも縄張り争いがあるでしょう。そもそも女のホームレスはあまり見かけないわよね。女が野外で生活していたら、突発的な犯罪に巻き込まれる可能性もある。安全で快適なホームレス生活には必要な知識が足りないんじゃないかしら?」

 頭をがつんと叩かれた衝撃があった。

 確かにいい点ばかりに気を取られていたけど、問題も沢山あるのだ。


「わかった。でも、高校に行けるほど頭よくない」

 私立高校ならともかく、普通科の市立高校は市内トップクラスの優等生が受験する難関校である。徐々に入学難易度が上がっている。


「そうね。勉強は塾や通信講座、家庭教師を試してみてもいい。勉強に関してできる限りの力添えはするわ。どこまで学力を伸ばせるかは一穂の努力次第よ」


「うん」

 何をやってももう手遅れだと思う反面、そんなに援助があるならできるのかもしれないと期待もしていた。


「この取引は成立かしら?」


 真理は真剣な顔で手を差し出してきた。

 私はその手をじっと見つめる。


 皺ががれた苦労の見える手。

 毎日家事に仕事に頑張る手。

 心臓がどくどく脈打ち、身体がピリピリ強張って汗が噴き出る。


 一穂は自分の手をスカートに擦り付けて手汗を落としてから、ぎこちない動きで手を差し出す。

 震える手は真理の手に力強く握られ、さらに左手が覆いかぶさってきて上下に軽く振られる。


「これから頑張っていきましょう」


 応援される事が嬉しくて、照れくさい。

 私の日常が切り替わる確かな手応え。

 明確な学習の理由。

 私の世界が目まぐるしく変わる予感がして、不思議とそれは楽しみで、いつの間にか雨が止んだ空と同じ晴れやかな気持ちだった。


 車に乗って落ち着いてから、ふと疑問が浮き上がる。

 こういう取り決めって父さん抜きでよかったのだろうか?


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