第十一話 『施すということ』
思い付いたから名乗った、とでも言いたげな軽い口調でその男――リオ・スペクルムは誰もが耳を疑う言葉を口にした。
使徒という言葉の響きに、動搖が広がっていく。
「使徒、だと……?」
大陸各地に破壊を撒き散らす、不吉の代名詞とも言える単語。魔神の復活を企む怪人という話は広がっていたが、しかし実際に使徒と顔合わせしたという人物は多くない。
何故なら使徒が通り過ぎた後には死が撒き散らされており、目撃した人物の殆どが息絶えているからだ。
スペクルムは「これからはこう名乗ろう」などと冗談にしか聞こえない言葉を呟きながら、暗い光を灯した赤と黒のオッドアイで苦痛に喘ぐレイネスに喜ばしい物を見るかのような視線を向けている。
そのおぞましさに、副隊長を傷付けられて憤っていた者達が前へ踏み出せなくなる。
彼らの足を止めるのは《鎧兎》の様な圧倒的な力への恐怖ではなく、理解できないものへの生理的な嫌悪感だ。
「一体、何が目的だ!」
使徒という単語を口にしたスペクルムに、騎士の一人が震え声で叫んだ。
そこには凶行に及んだ理由を聞いて少しでもこの男の行動の意味を理解したいという意図があった。
スペクルムは叫んだ騎士の方へグルリと顔を向け、それまでのおどけた雰囲気を消し、オッドアイに真剣な色を灯す。
「――アンタらを救いたいんだ」
真摯さの溢れたその言葉と、唐突な告白に、目的を尋ねた騎士と、それを聞いていた者達の思考が固まる。
襲撃を仕掛けておいて、一体何を救おうというのか。
「アンタらに世界の真実を教えて、救いたい。それが己の心からの願いであり、ここへ赴いた理由の一つでもある」
スペクルムがその場でクルリと回り、自身を取り囲む全ての人間に視線を向けた。自分の話を聞いている事を確かめたのか、ふぅと息を吸い、大声で語り始める。
「世界は残酷だ。救いは無く、祈りは届かず、願いは叶わねぇ。人の命は尊くなく、呆気なく日常の中で零れ落ちる。人生とは失う事だ。喪失の連続だ。親を友を仲間を大切な全てを失って、終いにはおのれ自身すら無くしちまう。だというのに、人々はそんな事に気付かずに悲しみに溢れた世界で自分だけは大丈夫だって何も知らずに生きてやがる。それで失って初めて気付くのさ。悲嘆に暮れ、絶望し、喪失に喘ぐ。それは悲劇だ。あまりにも酷い。だからこそ、誰かが教えてやらなきゃいけねぇんだよ。失う事を。喪失を!」
嗄れた声を震わせて懸命に語り、唾を飛ばして、次第に声を大きくしていくスペクルムは真剣そのもので、そこには冗談も挑発も悪意もなく、ただあるのは喪失するという事への恐怖と、その恐怖から人々を救いたいという真摯な願いだった。
「それを教えてやる事こそが救いだ! これこそがちっぽけな己に出来る唯一の施しだ!! だから今日、己はアンタらに世界の無慈悲さを、失うことの絶望を教える為にここに来たんだ!!」
両腕を広げ、スペクルムはそう言葉を締め括った。
「何を、言ってるんだ」
意識せず、その場にいた誰かの口からそんな言葉が漏れた。そしてそれはその場にいる者が思った事を統括した一言だ。
意味が分からなかった。この男が何を言っているのか、まるで理解できない。
「だからその為に、今から己はこの場にいる人間の半分を殺す。そうする事によって、残された人間は大切な仲間を喪失するという現実を理解し、悲劇の溢れたこの世界でもやっていけるようになるだろうさ。そして念には念を込めて、残った人間の体の一部を欠損させよう。五体満足だった事のありがたみ、体の大切さ、なくなった部位がどれだけ便利だったのか、そういった平和ボケしていては理解出来ないことをアンタらに教えていこうと思う。失う事で得られる物がある。奪われることで、分かる事もある。喪失こそ、己からアンタらへの最大の施しだ。遠慮せずに、是非受け取って欲しい」
スペクルムはそう言うと、周囲の理解が追い付いていないにも関わらず、満足気に微笑んだ。
彼の中では他人がどう思っているかなど興味がないのだろう。ただ自身の身勝手な最悪の善意を押し付け、自己満足に浸っているだけなのだ。
「じゃあ、そういう事で」
一方的に話を終えると、スペクルムが剣を振った。
魔力を見る余裕があった者は、スペクルムの剣に纏わり付く魔力の量を見て愕然とした事だろう。その一振りに上級魔術クラスの魔力が付与されていたからだ。
剣は何もない空間を撫ぜるだけ。それだけで剣の直線上にいた者達が圧倒的な暴力によって消し飛ばされていく。一直線に斬撃が進み、騎士を吹き飛ばし、兵士を弾き飛ばし、肉眼では見えなくなるほど遠くまで破壊の力は及んだ。
そこから行われるのは、一方的な蹂躙だ。
スペクルムの剣が振られる度に上級魔術クラスの斬撃が直進していく。これに対向するには上級以上の魔術を使うか、ずば抜けた威力の攻撃を叩き込むしかない。
《鎧兎》との戦闘で疲弊しきっていた者達に、咄嗟にそれだけの力を使用できるものはいなかった。
指揮を取る立ち場だったレイネスは失神し、後方に連れて行かれている。
「これ以上、好き勝手出来ると思うなよ」
スペクルムの前に立ち塞がったのは、《鎧兎》との戦いで負った傷を回復したタイレスだった。
斬撃をアルナード流剣術で弾き、斬撃の直線上にいた者達を逃がす。
「アンタは確か、タイレス・メヴィウス・アルナードだったな。なるほど、やはり弱まっているな」
「戯言をほざくな!」
タイレスの手に握られているのは魔力を増強する魔剣だ。
アルナード家に代々伝わる風の魔力と、メヴィウス流剣術。それらの組み合わせは圧倒的な速度と威力を兼ね備えており、スペクルムの斬撃を軽く受け流していく。
その間に騎士達は体勢を立て直し、またヤシロ達はテレスティアとウルグを安全な所へ移動させ、自身も戦いに参加しようとしていた。
タイレスを守護する役目を持つ兵達が参戦しようとするが、スペクルムの魔力に対抗できないと判断したタイレスが、負傷者を逃がすように指示を出す。
「公爵という恵まれた身分に、強力な風の魔術と英雄から伝わる剣術。あァ、嫉ましい。妬ましい。羨ましい。アンタが持ってる当たり前の全てが己に取っては異なるいぜ」
「知った口を利くな、狂人がッ!」
激高したタイレスの突きが、スペクルムの肩を抉る。後ろに下がって距離を取るスペクルムをタイレスは逃さない。
全身に風を纏い、スペクルムが剣を振るう隙すら与えずにその喉元へと刃を突き出した。
「な――」
刃がスペクルムに到達する手前、タイレスが纏っていた風が消滅した。動きが鈍ったタイレスへ、無骨な刃が迫り――、
「フッ――!」
間へ滑り込んだヤシロがスペクルムの剣を弾き、同時に彼の腹部へと蹴りを叩き込む。
人狼種の強靭な肉体と«魔力武装»による強化、それから繰り出される蹴りの威力は凄まじい。
「痛いな」
だが、スペクルムの体はこゆるぎもしなかった。包帯の下の顔を不快そうに歪め、握った剣をヤシロに向けて振り下ろす。
タイレスと共に斜め後ろに下がるヤシロだが、スペクルムの斬撃は正確に撃ちだされた。
「«曲水»」
その間に、飛び出す一つの影があった。
メイの水を纏った刃が斬撃を拡散、同時に魔力の流れを操作してその威力を乗せた水の斬撃を打ち返す。
目を剥くスペクルムだが、斬撃は彼に届く前に消失する。
「やはり……相手の魔術を打ち消す何かがあるみたいですね」
スペクルムの動きを冷静に分析していたキョウが呟いた。
レイネスやタイレスの魔術を消した事から、通常では在り得ない何かを持っているのは確かだ。
それに加え、特筆すべきはスペクルムが内包する魔力の量だ。あれだけの量を放出してなお、まるで魔力が尽きる様子がない。
だが、スペクルム自身の身体能力はこれらの異様な力に比べれば特筆する程の部分はない。『剣の基本』を抑えており、それなりに経験を積んだ剣士と言った所だ。決して弱いという訳ではないが、隙が存在しない訳ではない。
「……助かった。感謝する」
「いえ……テレスさんのお父様ですよね? ヤシロと申します。こんな時ですが、いつもテレスさんにはお世話になっております」
「……そうか」
ヤシロに助けられたタイレスが、彼女の言葉に少し気まずそうに返す。
この少女や、あの黒髪の少年に関わるなとテレスティアに言ったばかりだったからだ。
ヤシロ達の後ろには、戦闘の続行が不可能なウルグとテレスティアがいる。
二人が戦えない今、彼らを守るのはヤシロ達だ。
その為に、ここに来たのだから。
その間にスペクルムがヤシロに蹴られた腹部を手で払い、自分に攻撃を仕掛けたヤシロやメイ達に粘つく視線を向けてくる。
その視線がメイとキョウの間を行き来し、スペクルムが二人に尋ねてきた。
「なァ、そこの青い髪した嬢ちゃん達、もしかしたら姉妹か?」
スペクルムから投げかけられる言葉に、メイもキョウも応じない。先ほどの弁舌を聞いて、既に会話する意味が無いと理解しているからだ。
「もし姉妹だったら、どちらが姉でどちらが妹かを教えて欲しい。そしたら、己は姉の方を殺すからさ。姉の方が長生きしてるんだ、だったら妹の方を生かしてあげるのが大人として当然の優しさってヤツだからな。姉の死を乗り越え、妹が大きく成長する。我ながら、素晴らしいと思うぜ」
「黙れ――!」
「«水槍»!」
聞くに耐えない身勝手な理屈にキョウが叫び、同時にメイが水の槍を創り出して投擲する。
スペクルムは軽く手を振っただけで、«水槍»を消滅させた。
それを予測していたヤシロとキョウが、攻撃と同時に動き出していた。
慌てて斬撃を飛ばすスペクルムだが、メイの隣にいたタイレスが同じように斬撃を飛ばして相殺する。
一瞬で間を詰めたヤシロが、驚愕に目を見開くスペクルムへと影の一撃を叩き込むが、寸前で受け止められる。
「その影、人狼種か。珍しいな」
影の魔力に目ざとく気付き、ヤシロの耳元で囁く。
スペクルムの体を強化する«魔力武装»と正面から剣を交え続けるのは危険だと判断したヤシロが、即座に小刀を引いいて距離を取る。
ヤシロが離れた瞬間、メイとタイレスの魔術がスペクルムを襲う。動搖せず、すぐに魔術を消滅させるスペクルムだが、彼らの本命は別にあった。
「――!」
魔術が消えた瞬間、スペクルムの目の前にキョウの姿が現れる。
接近に気付いたスペクルムがキョウの狙い通り、慌てて剣を突き出した。その瞬間、キョウの刃がスペクルムの剣の表面を滑って軌道を逸し、同時に彼の首を斬り裂く。
「――――」
「姉か妹か分かんねェが、まぁアンタでいいか」
キョウの刃は薄皮を斬っただけだった。
スペクルムの首元に、膨大な魔力が集中しており、«魔力武装»の鎧がキョウの刃を弾いていた。
あっさりと前言を放り捨て、スペクルムはキョウへと刃を振る。
「うおッ!?」
その直後、キョウがスペクルムに抱きつくかのように接近する。
動揺し、腕を止めた瞬間にキョウがスペクルムの横へ飛び退き、そのままメイ達の元へと逃走する。
その姿に、やれやれと言いたげにスペクルムはため息を吐いた。
「あァ、全く嫌になる。どうして己はいつもあと一歩って所でしくじっちまうんだろうな。あー、半分殺して半分生かす。姉妹は別々にしたかったが、うんまあ、アンタら全員殺しても数は合うから別にいいか」
面倒くさそうに、スペクルムが剣を振った。
「不味いッ!」
そこから放たれたのは、最初にウルグを襲ったのと同等の魔力で構成された巨大な斬撃だ。
何の溜めもなく、ごく自然に放たれたそれに、さしものヤシロ達も驚愕する。
メイが«水槍»を投擲するが焼け石に水程度の効果しか生まれない。
「«風撃»ッ!!」
だがその焼け石に水の間に、タイレスが可能な限り強力な魔術を使用し、巨大な斬撃へ正面から激しい暴風の弾丸を打ち込んだ。
斬撃の動きが一瞬止まる。
その隙に、ヤシロ達は後ろにいるウルグ達を抱え、魔力で身体能力を上昇させ、一足で斬撃の軌道から飛び退いた。
「嘘でしょう!?」
ヤシロ達の飛び退く先を予測していたスペクルムが、そこへ連続して斬撃を放つ。
驚愕しながらも、メイとキョウが前へ飛び出し、その斬撃をガードする。
「終いだ」
いつの間にか空高く飛び上がっていたスペクルムが、上から巨大な斬撃を放つ。
それは空中で幾つにも枝分かれし、雨のように降り注いだ。
メイ達の防御を貫通し、斬撃が爆発する。
咄嗟にタイレスが張った風の防壁により、直撃こそ免れたものの、爆風が晴れると全員が力なく地面に転がっていた。
キョウとヤシロが身を張って庇ったことで、ウルグとテレスティアだけは斬撃を喰らわず、離れた所で地面に横たわっている。
「この状況で、仲間を庇ったのか……。アンタらが《鎧兎》と戦って消耗してなかったら、ちっぽけな己なんか今頃蜂の巣になってただろうなァ。それにしても、アンタら虫か何かか? 今のでも死なないって、ちょっと気持ち悪いな」
虫の息になったヤシロ達を見て、スペクルムが虫を見る表情でそう呟いた。
既に反応する余裕はなく、全員が立ち上がる事もままならない状態だ。
魔力に斬撃を込め、スペクルムが剣を振りかぶる。
「じゃあ、まあ死んでくれ」
「おう、死ね」
止めを刺そうとした直後、スペクルムを後ろから巨大な槌が殴打した。
ノーガードで攻撃を受けたスペクルムが吐血しながら宙を舞う。
「チッ、今のでミンチにならねェか」
スペクルムを不意打ちしたのは、最初の斬撃で吹き飛ばされた筈のシュルトだった。
「遅くなって申し訳ねえ。戦闘に巻き込まれないように、負傷した奴を逃してた」
気付けば、スペクルムに蹂躙されて戦闘不能になっていた騎士や兵達が戦場から運び出されていた。
ヤシロ達が戦っている間に復帰したシュルトが指揮を飛ばし、怪我人などを逃していたからだ。
シュルトは全力で戦ったウルグとテレスティア、そしてヤシロ達へと視線を向け、普段の彼とは違う、噛み締めるような、安心させるような穏やかな口調で言った。
「俺らは民を守るための騎士だってのに、黒い坊主と嬢ちゃん達がいなかったら、今頃は全滅してた。ありがとな。黒い坊主も、嬢ちゃん達も、領主サマも、もう十分に戦ってくれた。だから、後は休んでてくれ。『騎士』が片を付けるからよ」
そう言って、ウルグ達を巻き込まないように、離れた所へ吹き飛んだスペクルムの元へ向かう。
後頭部を抑えながら、ヨロヨロと立ち上がったスペクルムが恨みがましい目つきでシュルトを睨む。
「三番騎士隊隊長、シュルト・メイヒスか。不意打ちなんて卑怯な真似、誇り高き騎士達を束ねる者としてどうなんだ?」
「黙れ下衆が。卑怯だろうが狡猾だろうが関係ねェ。どんな事をしてでも勝って、民を守るのが騎士だ」
自分を棚上げして不意打ちを批判するスペクルムを、シュルトがあっさりと切り捨てた。
その姿にスペクルムはパチパチと拍手する。
「さァすが、騎士隊長。格好いいじゃねェか、羨ましい」
「そりゃどーも」
「まァ、格好良くても美しくても、最後に待っているのは喪失だけだ。そう考えると外面を取り繕う事の無意味さがよく分かるよな。結局、大切なのは本質を捉える事だ。そこの所、騎士隊長さんはどう思う?」
「今、俺が思うことは一つだ。――よくも部下を傷付けたな。許さねェぞ糞野郎」
そう言い放った直後、シュルトの姿が消える。
目を剥くスペクルムだが、魔力で感覚を強化してシュルトの位置を探り、その方向へ剣を振る。
「――こっちだ」
背後からのシュルトの声にスペクルムが反応しようとするが、シュルトの方が数段速い。
シュルトが掬い上げるように、大槌をスペクルムの背中へと叩き付けた。されるがまま、スペクルムの体が上空へと跳ね上がる。
トンと軽く地面を蹴ったシュルトが、スペクルムを超える速度で飛翔し、回り込んで空中で大槌を叩き付ける。
「ごはッ」
スペクルムが吐血し、弾丸のように地面へと落下していく。
空中に見えない壁があるかのように、シュルトが方向転換し、落下地点へと先回りし、最初と同じように大槌をフルスイングし、上空へと叩き上げる。
剣を振る間もなく、息つく間もない連撃にスペクルムはなすすべなく殴打され続けている。
青白い空ので行われるのはもはや空中戦と呼べるようなものではなく、一方的な撲殺刑だ。
風の魔力が弾けるたび、ポツポツと地面へ血が落ちる。
纏っているマントはズタズタに裂け、顔を覆う包帯も点々と赤い染みが生まれていく。
風で足場を作って空中で歩行、方向転換を行い、風の魔力を増幅する大槌がスペクルムを殴打する。
大砲を放つような重い音が連続し、やがて大きく魔力が膨れ上がり、宙で大槌が振り下ろされた。
全身から血を噴き出しながら、連撃から解放されたスペクルムが地面へ激しく落下する。
着地したシュルトは荒い息に肩を揺らしながら、スペクルムを睨み付ける。一方的な攻撃を喰らわせたというのに、その表情は苦い。
《鎧兎》との戦闘で魔力を消費し、威力が落ちているとはいえ、シュルトの一撃には人間をミンチにするのに十分な威力が込められている。
それ程の攻撃を何十も受けてなお、スペクルムの体は原型を留めていた。
その身を覆う«魔力武装»の強度が、尋常ではなかったからだ。
「は は は は は は!」
渇いた笑い声が起こり、血だらけのスペクルムがゾンビのように起き上がる。
全身から出血している姿は満身創痍で、シュルトの攻撃により何本も骨が折れているというのに、その瞳の輝きはむしろ増していた。
「あァ、素晴らしい攻撃だった! 目にも止まらぬ連撃、反撃すらままならぬ圧倒的な速度! あァァァ、羨ましい、妬ましい、恨めしい! お前のその才能の一欠片でも己にあれば、己の人生はもっと華々しく素晴らしい物だっただろうになァ!! だけどそれで打ち止めだろう? お前の魔力はもう枯れかけている。惜しいなァ、残念だなァ、無念だなァ! シュルト・メイヒス、お前程の人間でもやはり喪失は免れない! お前と戦う事で、改めて己が間違っていない事が確認できた! ありがとう!」
「ふっ……ざけやがってッ!!」
スペクルムの哄笑に、シュルトの闘士はまだ尽きていない。
地面を蹴りつけ、空へ飛翔し、その手に握る大槌を天高くへと突き上げる。
大槌を中心として、空に竜巻が生まれ始めた。
グルグルと大気をかき混ぜる竜巻の魔力量にスペクルムが関心したように鼻を鳴らすが、
「無駄な足掻きだ、みっともない。己に魔術は通用しないって、今までの戦いで学習しなかったのか?」
つまらなそうに呟く、手を掲げる。
竜巻から、急激に魔力が減少していく。すぐには消えず、足掻くように上空で風が渦巻くが、やがては完全に消滅してしまう。
「はい、ごちそうさん」
「――ッ」
そして足場に作っていた魔力すら消し飛び、シュルトは頭から落下していく。
竜巻で殆どの魔力を使い果たしたシュルトには、下で待ち受けるスペクルムの斬撃を凌ぐ手段は無かった。
空中で魔力が爆発し、煙の中から瀕死になったシュルトが落ちてきた。
「アンタは流石だったよ。だけど人生ってのは喪失の連続だ。誰も彼も、失わずにはいられない。それは己も、アンタも変わらねえ」
そう言うスペクルムの視線の先では、戦いに乗じて救出されているテレスティア達の姿があった。
包帯から覗く口元を歪ませるスペクルムに、シュルトはその意図を知った。
「さっき、あそこにいる連中に『後は任せろ』みたいな事を言ったんだろ? 格好いいが、残念だけどそうはならなかったな。騎士隊長って事で自分の力を過信し過ぎたんじゃないのか? 《鎧兎》との戦いで疲労しきった体で、使徒の相手が出来るとでも? まァ、己みたいな出来損ないなら、そう思われても仕方ないか」
「あの……兎は、テメェが……けしかけたのか?」
「いいや? 己は別に何もしてない。あの兎が勝手にはしゃいで、恨み骨髄の相手を襲ったってだけだろうよ。まァ、生みの親を奪った相手の気配を感じたんだ。怒り狂っても仕方ねぇだろうな」
時間稼ぎの為に質問したシュルトに、聞き逃せない言葉を吐くスペクルム。質問を続けてどうにか彼らを逃がそうとするが、「さてと」とスペクルムは話を切り上げた。
「そこで見ているといい。アンタに教えてやるよ。喪失を」
救出して、退避していく騎士達だが、スペクルムがその気になれば、この距離でも攻撃を当てられるだろう。
動けないシュルトへ見せつけるように剣を掲げ、魔力を集中させていく。そして、包帯の上からでも分かる程に、顔を凶相に歪め、斬撃を放った。
「――――」
その斬撃が、唐突に消滅した。
「あ?」
直後、スペクルムの肩口から腰に一筋の赤い線が入り、鮮血が吹き出す。
「なァァ!?」
傷口を抑えて、飛び退くスペクルム。
先ほどまでスペクルムが立っていた場所に、いつの間にか黒髪の少年の姿があった。
少年――ウルグは満身創痍で、今にも倒れ込みそうな真っ青な顔をしていた。その身に宿す魔力の量は尽きかけており、ガクガクと体を震わせている。
「魔力を、斬ったのか。なるほど、最初の斬撃を防いだのはそれか。もしかして、お前が《鎧兎》を殺したのか?」
「…………」
スペクルムの問に、ウルグは答えない。いや、答えられない。
既に会話する程の余力は残っておらず、立っている事すら困難なのだ。
スペクルムはそれを気にもせず、一方的に口を回す。
深い傷を負っていると言うのに、口の滑りは変わらない。
「ははは、全く分かんねえよな、人生ってのは。長い間、猛威を振るい続けた化け物が、たった一夜で少年に殺されるってんだからよォ。それにしても、黒髪か」
ウルグの髪を見て、スペクルムは顎に手を当て、興味深そうに呟く。
「黒髪、黒目って事はアンタ、これまでの人生で相当苦労してきたんだろうなァ。常人よりも多く失って来たんだろ? 分かるぜ。黒ってだけで忌み嫌い、外側だけで悪く言う。辛かっただろう、苦しかっただろう。だからこそ、アンタは知ってる筈だ。失うという事を」
知った風に自分を語るスペクルムに、ウルグは嫌悪感しか覚えない。
自分とは違う世界を見ており、恐らく会話を試みようとしてもまともに言葉は続かないだろう。
「努力」という言葉を掲げ、身勝手な都合で人を動かそうとしていたヴィレムと、「施し」という言葉を掲げ、独善的に人に自分の考えを強要するスペクルムは、どこか似ている。
違うのは、その危険度だ。
目の前で言葉を聞いているだけで、肌が粟立つのを感じる。
この男には、嫌悪感しかない。
ズキズキと痛む額を抑え、ウルグはスペクルムを睨む。
目の前の男は、ただの狂人だ。
だが何故か、ウルグの中に謎の既視感があった。
「……? アンタ、もしかして」
その時、ウルグを見ていてスペクルムが初めて戸惑う様子を見せた。
右目を抑え、ウルグをじっと見つめてくる。
「いや……まさか。だが、これは。どういう事だ?」
意味深な呟きをするスペクルムだが、
「ま、いっか」
その疑問をあっさりと放り捨てた。
そして、ウルグを無視してテレスティア達に視線を向ける。
「……させねえ」
「アンタ、もう動けないだろ? 無理してねェで、そこの隊長さんと一緒に横になってぐっすり寝てろよ。それとも、そのボロボロと体で、あいつらを守るつもりか? おいおい、それは無理って普通分かるだろ。アンタはもう戦えねえ。それとも何か、自分を犠牲にしてでも助けたいって? 自己犠牲ってのは己には理解出来ないなァ。自分を失っちゃ、何の意味もないんだからな」
「自己、犠牲じゃねえよ。もう、誰も死なせねぇ……!!」
「――――」
立っているのもやっとだというのに、ウルグの黒い瞳に宿るのは強固な意思だ。
そこには自分を犠牲にするつもりなど毛頭なく、皆のため、そして自分の為に戦うという、強い意思があった。
そのウルグの姿にスペクルムは驚いたように目を開き、また右目を抑える。
そして不機嫌そうな顔で、
「……じゃあ、アンタに教えてやるよ。喪失を」
ウルグを排除しようと、剣に魔力を集め始めた。
震える腕に力を込め、ウルグはスペクルムと相対する。
「かっけえな……坊主」
その時、地に付していたシュルトが呟く。
スペクルムは不快そうにそれを睨んだ。
シュルトはウルグの目を見つめ、ニッと笑う。
「だけど……無理すんな。もう大丈夫だ」
「は? 何を言って――」
その時、ウルグは目の前の空間が歪むような魔力の奔流を見た。
それは黄金の龍を連想させるような、膨大な雷の塊がスペクルムを横から飲み込んだ。
「なに、が」
そこで、ウルグはいつの間にか目の前に人が立っているのを見た。
弾ける雷の魔力に黄髪が揺れていた。
ただそこにいるだけで、肌を削るような魔力を感じる。
手にしているのは、ひと目みただけで普通では無いと分かる、神々しさすら感じる一振りの大剣。
猛る雷を閉じ込めたかのような苛烈な色を灯す瞳がウルグとシュルトを捉えた。
「待たせた」
「……遅すぎんだよ、馬鹿」
シュルトとその男が、短く言葉を交わす。
スペクルムを加え、遠方へ吹き飛ばした雷の中から、全身を焼き焦がしたスペクルムが飛び出してきた。
「――は は は は は! あァ、素晴らしい、羨ましい、妬ましい、恨めしいッ!」
スペクルムの全身から魔力が噴き出し、その膨大な魔力が地を揺らす。
弾丸のように向かってくる狂人に、その男はまるで動じない。
その男は、細くも華奢さは全く感じさせない肉体に、騎士の鎧を纏っていた。
その鎧に刻まれた紋章に、ウルグは見覚えがあった。
「あれが敵か」
哄笑するスペクルムに、男が静かに呟く。
地に伏したシュルトが、「あァ。やっちまえ」と返した。
――次の瞬間、世界が白く染まった。
男の鎧に刻まれた紋章が示すのは、三つの騎士隊を統括する、騎士団団長。
そして、その男が冠すのは最強。
アルデバラン・フォン・アークハイド。
――《剣聖》が戦場に降り立った。




