第六話 『黒犬の牙』
テレスと出会った日から、二週間が経過した。
俺の生活のルーチンは変わらず、朝夜にセシルから話を聞き、昼は修業をという毎日だ。
今は昼前で、セシルと話す時間だ。時間、なのだが……。
「つーん」
最近、なぜかセシルの機嫌が悪い。
何かセシルの機嫌を損ねるようなことをしたかと自分の行動を振り返ってみたが、まったく身に覚えがない。
「姉様、どうしたんですか……?」
「つーん」
「もしかして、何か気に障るようなことをしましたか……? もしそうでしたら、ごめんなさい。姉様の機嫌を損ねるつもりはなかったんです」
「ウルグは悪くないわっ! ぎゅっ!」
申し訳なさそうな顔をして謝ると、セシルは今までの不機嫌な表情を消して効果音付きで抱きついてきた。
良かった、いつものセシルだ。
「じゃあ、どうして不機嫌そうな顔をしてたんですか……?」
頬ずりしてくるセシルに聞いてみる。
セシルは頬ずりをやめると、俺に鼻を近付けて息を吸う。すると「むぅ……」と頬を膨らませた。
「あのね……何というかね。ウルグから他の女の子の匂いがするの」
ギョッとした。
何で分かるんだよ。怖えよ。
匂いがするかどうかは分からないが、俺は最近、頻繁に女の子と会っている。あの森で知り合った、テレスという少女だ。
俺が森で修業をしていると、二日に一度はやってくる。
「どうなの!? どうなのよウルグ!?」
グイグイと顔を近づけてくるセシルを手で押さえて遠ざけながら、俺は素直に話すことにした。
嘘をついても見破られそうな気がするしな……。
「最近、外で修業してる時にテレスって女の子が絡んでくるんですよ」
「テレスゥ!? 誰よ、その子は?!」
「いや……分からないです」
「うぎぎぎぃ! 私のウルグに悪い虫がぁああ! 駆除ッ! 駆除しないとォォ!!」
「姉様! 落ち着いて! 障りますから! 体に障りますから!!」
「触って!」
「…………」
割りとマジで体に障るから安静にしておいて欲しい。
それから何とか言いくるめ、俺はセシルの部屋から出た。
「……ふう」
なんで分かったんだろう。嗅覚を強化する魔術でも使ってるんじゃないのか……。
セシルの嗅覚に戦慄しつつ、俺は自分の部屋で修業用の服に着替えて家を出た。
今日も今日とて、向かうのはいつもの修業場所だ。
―
「ふ――」
《魔力武装》で体を強化する。
片手剣を振りかぶり、勢い良く樹に向かって振り下ろす。刃が樹の幹にめり込み、直後爆発したかのように粉々に砕け散った。
「……駄目だな」
樹を斬ろうとしたのに、粉砕してしまった。威力の調整に失敗したということだ。
無駄に力を入れ過ぎてしまっているな。
以前、樹を斬った時の魔力量を思い出し、纏う魔力の量を少し下げる。それから次の樹に向かって剣を振った。
刃がするりと幹を通過し、斬られた部分から上が地面に滑り落ちた。
今度は成功だ。
それから何本かの樹を斬って魔力量の調整を行い、自分で斬った樹の幹に腰掛けて休憩している時だった。
「来たぞ! 私だ!」
歯切れの良い凛とした声音でそう叫びながら、テレスが登場した。
登場したといっても、二十分ほど前から、樹の陰に隠れて俺を観察していたけどな。
「勝負するぞ!」
近づいてくるなり、テレスは威勢よくそう言った。
もはや恒例となったテレスの言葉に、俺は小さくため息を吐いた。
あの日から、テレスはよくこの森にやってくるようになった。魔物が出るから危ないと忠告しても、「ウルグも同じだろ」と返され、今は放置している。
それはまだいいのだが、問題はテレスが俺に勝負を挑んでくるようになったことだ。
内容は俺が剣で、テレスが魔術で勝負をするというもの。
無視していると泣きそうになるので、仕方なく相手をしていたら、毎回のように戦いを挑んでくるようになってしまった。
テレスは風属性の魔術を使用して攻撃を仕掛けてくる。それを俺が突破し、剣を突き付けて終了――というのが毎回の流れだ。
魔術師との戦闘訓練になるからと付き合っているのだが、テレスは負けると途端に不機嫌になる。適当に相手をしていると、泣き出してしまうこともあった。
だから、不機嫌になったらテレスを「いや今回の魔術はキレがあったよ!」「実はギリギリだったんだ」とか褒めて機嫌を取ってやらないといけない。
正直、面倒くさい。
「今日こそ私が勝つ!」
「はいはい」
できるだけ樹がなく、広い場所でお互いに向かい合う。
毎回、初めは威勢がいい。
「行くぞ!」
宣言とともに、テレスが魔術の詠唱を開始した。
戦いだというのに、テレスは目をつぶって無防備に詠唱をし始める。この間に攻撃できるのだが、それをしてしまうと勝負にならないので少し待たないといけない。
やはり魔術師は近距離戦には向かないな。
詠唱を省略したり、無詠唱で発動できるのならともかく、戦闘中に詠唱をしていたら攻撃してくださいと言っているようなものだ。
その点、何の予備動作もせずに魔術を発動していたセシルは相当に凄いのだろう。
「世界を渡る祈りの風よ。魔を断つ刃となりて、我が障害を斬り裂き給え」
「……!」
詠唱が、いつもと違う。
前回までは、テレスは《旋風》を使っていた。
今回の魔術は、《旋風》よりも使用されている魔力の量が明らかに多かった。
詠唱とともに彼女の手のひらに集まっていた魔力が緑色の風となり、やがて一本の刃を形作っていく。
「――《風刃》」
テレスの言葉とともに、魔術が完成した。
《風刃》――確か、風で相手を斬り裂く刃を作り出す、使い勝手のいい中級魔術だったな。
「喰らうがいい!」
ヒュンと音を立て、風の刃が放たれた。
《魔力武装》を発動し、それを迎え撃つ。
中級魔術を相手にするのは初めてだ。それでも《風刃》の知識はあるし、どの程度の威力なのかはある程度予測できる。
「は――ッ!」
鋭く踏み込み、《風刃》に片手剣を振り下ろす。
刃が交わり、その威力が刃を通じて伝わってくる。《旋風》を超える威力だ。
だが――。
「なっ!?」
こちらの一閃が、《風刃》を斬り裂いた。風の刃が魔力を散らして消滅する。
テレスは魔術が破られたことに動揺し、目を剥いている。
これが中級魔術か。思っていたほどの威力ではなかったな。
使い手によって威力や速度は変わるから、中級の魔術でも油断はできないが。
「――ッ!」
《風刃》を破った勢いのまま、テレスとの間合いを詰める。
ここで刃を突きつければ、いつも通りの決着だ。
「ふっ!」
と、俺がテレスのすぐ目の前にまで迫った瞬間だった。俺は彼女の口角が釣り上がるのを見た。
何だ?
そう頭に疑問を浮かべた瞬間、
「《旋風》」
テレスが詠唱を省略し、《旋風》を発動させた。
手のひらから放たれたクルクルと回転する緑色の風。
「……!」
詠唱破棄か。
これも《風刃》と違い、これまでの戦いでテレスが使わなかった技術だ。
まさか、隠していたのか。
使う素振りはまったく見せなかったし、もしかしたらこの数日の間で習得したのかもしれない。
《旋風》が目の前に迫る。
不意を突かれたとはいえ、反応できないわけではない。
ここからでもこれを斬り裂くことは可能だ。ただし、その場合一緒にテレスまで傷付けてしまう。すでに俺はテレスのすぐ目の前にまで迫っているのだ。
これは、一本取られたな。
《魔力武装》の強度をあげ、そして片手剣を前に構えて《旋風》を受け止めた。
片手剣に《旋風》がぶつかった衝撃で、後方へ大きく後退る。
防御態勢と《魔力武装》により怪我を負うことはなく、俺は地面に着地した。
「……やられたな」
顔をあげるとニタァと満面の笑みを浮かべ、勝ち誇った表情をしているテレスがいた。
「ふ……ふふふ……にゅふふふふふふふ! 勝った! 私の勝ちだ!」
こちらを指さして大笑いするテレスにイラッとしないでもなかったが、たしかに今回は完全に俺の負けだ。
俺は、テレスを侮っていた。
油断、慢心、侮り、決めつけ。
これが今回の敗因だ。
格下だとテレスに油断をした俺の負けだ。
当然、敗北に悔しさは覚える。
だがこれは修業の一環だ。実戦ではない。負けてもリカバリが利く状況なのだ。
だから俺はこの敗北を糧とする。同じ過ちを実戦で繰り返さないために。
……かなり悔しいから、次は絶対に喰らわない。
「ふう」
テレスはひとしきり笑うと、急にその場にへたり込んでしまった。
中級魔法と初級魔法を使ったことによる魔力切れだろう。
俺はへたり込んだテレスの下まで行き、手を差し伸べる。
「お疲れ」
「ふふん! 私の凄さに気付いたか?」
「ああ。凄いな」
差し伸べた手を握り、テレスが起き上がる。
いつもは適当にあしらうところだが、今日は気になることもあったので認めておいた。
「そ、そうか。ふ、ふん」
俺が褒めたのがそんなに嬉しかったのか、テレスが盛大にニヤける。
隠そうとしているみたいだが、隠しきれていない。
「なあ。ちょっと前まで、中級魔術とか詠唱省略は使えなかっただろ? どうして急に使えるようになったんだ?」
「ああ、家で練習してきた」
軽い口調で、テレスはそう言った。
家で練習してきたって……。
「そんな簡単に習得できるモノなのか?」
「普通は無理だな。だが私は天才だから、この程度は余裕だ!」
属性魔術を使えないから、どの程度の期間で魔術を上達させられるのかが分からない。
ドッセルが使えるのが中級魔術だけと考えると、案外本当にテレスは天才なのかもしれない。
夜、セシルに魔術の習得ペースを聞いてみよう。
「そ、それでだな。私が勝ったのだから、私の言うことを聞け!」
「……勝った方の言うこと聞くなんて初耳だぞ?」
「ん? 私が心の中で決めていたのだから、当たり前だぞ?」
勝手過ぎるだろ!
何で心の中で決めたことを決定事項みたいに言ってるんだよ。
「……何を聞いて欲しいんだ?」
「それはだな……」
テレスが答えようとした時だった。
背後から複数の魔力を感じた。
「な……何だ、こいつらは」
遅れてそれに気付いたテレスが呆然とした声を漏らす。
俺達の背後で、魔物の群れが俺達を睨みつけていた。
―
この森の深部で発生する魔物は何種類かいるが、その中で最も発生率が多いのは《黒犬》という犬の魔物だ。
名前の通り、黒い犬の魔物だ。
下級の魔物だが、鋭い牙を持っており非常に獰猛だ。
人間を見つけたら積極的に襲い掛かってくるため、森に入った子供が襲われる事件が何度も起きていた。
修業を始めてから、俺は何度か《黒犬》と戦う機会があった。魔物との戦闘を経験するため、森の奥に入って戦いを挑んだのだ。
《人食茸》よりも素早かったが、下級の魔物とされるだけあって弱かった。大して苦戦することもなく、倒すことができた。
……だが、同時に相手にしたのは多くて四匹までだ。
「ひっ」
《黒犬》の群れを見て、テレスがか細い悲鳴をあげて抱きついてきた。
いつも威勢の良いテレスだが、さすがにこの数の魔物は怖いらしい。
『グルウウウ』
《黒犬》の数は、十匹といったところか。
低く唸りながら、ジリジリと距離を詰めてくる。
背を向けて逃走することを考えたが、即座にその考えを否定する。
俺一人なら逃げられるだろうが、抱きついたままのテレスを連れて行くのは難しい。
それに俺達を追って森の外に出てきたら、面倒なことになる。
「テレス、このまま後ろに下がって森の外に逃げろ」
「ウルグはど、どうするんだ」
「俺があいつらを引き付けるから」
小声で指示を出すが、テレスは嫌だと首を振った。
「お、お前を置いてはいけない……!」
そう言ってくれることは少し嬉しかったが、今はそれどころじゃない。
「じゃあ、逃げなくていいから、樹の後ろに隠れていてくれ」
「で、でも」
「頼む、テレス」
抱きついているテレスを引き剥がし、何歩か前に出て片手剣を《黒犬》達に向けて構える。
《魔力武装》を行うと、連中の血走った眼球が一斉に俺を捉えた。
《黒犬》達の注意が完全にテレスから外れたのを確認し、隠れているようにと再度言い聞かせ、一歩前に踏み出す。
敵の数は十。
一匹一匹の強さは大したことがないとはいえ、囲まれてしまえば対処は難しい。
だから、囲まれない立ち居振る舞いをしなければならない。
冷静になれ……。こういう時に対処できる修業もしてきたはずだ。
『グルウウウ』
『アォオオオ!!』
先頭にいた三匹が地面を蹴りつけ、勢い良く飛びかかってきた。
ステップを踏んで二匹を躱し、向かってきた三匹目を斬り付ける。
『ギャンッ』
悲鳴を上げて、三匹目が地面に沈んだ。黒い血を流し、そのまま動かなくなる。
よし……まずは一匹。
『オオオオオン!!』
それを皮切りにして、他の《黒犬》達が牙を剥き出しにして襲いかかってきた。
冷静に回避していくが、さすがに数が多い。
躱し切れないと判断した個体には、噛み付いてくるタイミングを見計らい、一撃を喰らわせた。
悲鳴をあげて、斬られた《黒犬》が倒れていく。
今ので二匹倒した。
「……残り、七匹」
『絶心流剣術指南書』には、基本的な技がいくつも書かれていた。
相手が攻めてくるのを待ち構える技もあったが、待っていては囲まれて終わりだ。
向かってくる《黒犬》に対し、幾度と練習した攻めの技を放つ。
「ハァアア!!」
鋭く踏み込み、一匹を袈裟懸けに真っ二つにする。
それで終わらず、次の攻めに繋げる。
フェイントを交えながら、囲もうと動く個体を狙って一閃。
『ギャンッ!』
連続して仲間がやられたことに動揺したのか、《黒犬》達の動きが鈍る。
その隙を見逃さず、一番近くにいた個体へ上段から一太刀を浴びせた。
吹き出す鮮血を視界の端に捉えながら、動きは止めない。
次へ、次へ、次へ。
止まることなく、攻め続ける。
残り、四匹。
『オオオッ』
仲間の死骸を乗り越え、二匹の《黒犬》が突っ込んできた。
動きにフェイントを混ぜて撹乱し、戸惑って動きを鈍らせた個体を斬り付ける。
「……!」
仲間の死骸を飛び越えて、もう一匹の犬が攻めてきた。
姿勢を低くし、俺の足に噛み付こうと地面を這うようにして駆けてくる。
剣は振り切った状態で、使えない。
だったら――。
「……ハッ!」
タイミングを見計らい、大口を開いた《黒犬》の横っ面へ蹴りを叩き込んだ。
悲鳴をあげ、《黒犬》が吹き飛んでいく。
近くにあった樹に激突し、グシャリと音を立てて潰れた。
「……残り、二匹」
《魔力武装》は身体能力を強化するだけでなく、周囲の気配や動きなどを察知する『感覚』も同時に強化してくれる。
だから、一匹が背後から忍び寄ってきていることも当然分かっていた。
振り返りざまに剣を振り下ろそうとした、その時だった。
「危ない!」
『ギャンッ』
テレスの叫び声。
同時に、飛んできた魔術が《黒犬》を吹き飛ばした。
吹き飛ばされた個体は、樹に頭をぶつけ、そのまま動かなくなる。
「や、やった……」
安堵し、テレスが地面にへたり込んだ。
何をしてる……!
「テレスッ!」
「え……?」
まだ一匹、《黒犬》が残っている。
最後の一匹が標的をテレスに変更し、勢い良く走りだす。
「……クソっ!」
考えるよりも先に、体が動いていた。
テレスのいる方向へ、全力で走る。
地面を蹴り、飛び上がる《黒犬》。
目を塞ぎ、悲鳴をあげるテレス。
すべてがスローモーションに見えた。
「間にッ」
――合った!
《黒犬》の牙が、テレスに突き刺さる直前だった。
テレスと《黒犬》の間に腕をねじ込むことに成功した。
「……ぐ、うッ!」
テレスに突き刺さるはずだった牙は俺の腕に突き刺さった。
焼けるような痛みが奔る。
激痛に叫びそうになるのを抑えこみ、これ以上牙が食い込まないように《魔力武装》を強化した。
魔力を纏った俺の腕に、《黒犬》が顎の力を強めるが牙はピクリとも沈まない。
「お……おおォ!」
俺の腕にぶら下がる体勢となった《黒犬》へ、片手で剣を振り下ろした。
最大威力で振られた片手剣は《黒犬》の体を四散させる。
全身にどす黒い血液が降りかかるが、今の俺に気にしている余裕はなかった。
燃えるような痛みを発する腕から血液がボタボタとこぼれ落ちる。
それを視認した瞬間、フッと気が遠くなるのを感じた。
傷はそれほど深くない。自分の血を見て、失神しかけているのだろう。
我ながら……細い神経だ。
「……っ」
足から力が失われ、膝が折れて地面に倒れ込む。
湿った地面はひんやりとしていて気持ち良かった。
「う、うわぁああ!」
テレスの悲鳴が聞こえる。
「ウルグ! ウルグぅ!」
うるさいな……。
そんなに叫ばなくても、聞こえてる。
「馬鹿……。出てくるなって……言っただろ」
意識が遠くなっていく中で、テレスへ文句を言う。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と俺の胸に顔を埋めながら、テレスが泣きじゃくっている。
クソ……意識が、遠くなってきた。
テレスが噛まれそうになって、俺はどうしてあんなに必死に走ったんだろうな……。
絡まれて、面倒くさいとか思っていたのに……。