閑話 『彼女の思い出』
「髪さらさらっ! ほっぺぷにぷに! 良い匂い! すーはーすーはー」
深い海を思わせるような濃い青髪を揺らし、サファイアの様な輝きを持つ瞳で俺の事を覗き込みながら、本当に幸せそうに彼女は笑っていた。
今でも、いつだって、俺はあの人の事を覚えてる。
彼女を――セシルを忘れる事は生涯無いだろう。
セシルは俺が生まれてすぐは頻繁に外出していたらしいが、俺が生まれてから彼女は体を壊し、家で休養を取るようになった。
最初は恐る恐るといった感じで近付いて来て、何度も何度も俺の顔を覗きこんで、それからポロポロ涙を流して小さな声でセシルは「綺麗」と呟いた。
その日から彼女は俺への接触を増やしてきて、やがて一日中ベタベタしてくるくらいにまでブラコンっぷりが進行したっけ。
俺が四歳くらいの頃だ。
セシルはまだ小さな俺の体を自分の膝の上に乗せ、片手で優しく包み込むように抱きしめながら、もう片方の手で壊れ物に触るようにゆっくりと黒髪を撫でる。
背中越しに感じる彼女は温かくて、落ち着くような良い匂いがして、何より頭を撫でてくれるのが嬉しくて、今でも思い出せる位に幸せだった。
「ね、姉様。くっつきすぎです」
初めて向けられる愛情が嬉しくて、でも怖くて、恥ずかしくて、俺はそんな風に逃れようと藻掻く。
セシルは「にがさなーい! こしょこしょー」なんて言いながら脇腹を擽ってきて、セシルから離れられなくて、嬉しかった。
そんな風に彼女と触れ合った後、俺は父と母――ドッセルとアリネアに呼ばれて一階へ向かった。
椅子に座り、降りてきた俺を二人はにっこりと微笑んで向かい入れる。
家族から笑みを向けられているというのに、二人は俺を見ていないような気がした。
「ウルグ、今日はお前の為に『センカの実』を買ってきた」
「髪の毛を染める為の実よ」
初めて聞く実の名前に首を傾げる俺へ、アリネアが説明を入れる。
髪を染めるという言葉に俺は目を見開いた。
どうしてか、俺は髪を染めるのが嫌だったのだ。
別にこの黒髪で無ければならないという理由はない。前世からずっとこの色だったというだけだ。確かに思い入れはあるが、それだけだ。
……強いていうなら、セシルに髪を褒められたから、変えたくないというのがあった。
「ウルグ、お前の為なんだ。黒髪黒目は魔神の色だ。目はどうにもならないが、髪なら色を変えられる」
「そうよウルグ。そんな髪の色じゃ将来苛められるし、世間体も悪いわ。私達は貴方の為を思って言っているのよ」
虐められる。世間体が悪い。
そうかもしれない。
俺のため。
そうかもしれない。
だけど、だけどそれでも、俺はこの黒髪が良かったんだ。
嫌がる俺の腕を掴み、ドッセルが俺を椅子に座らせる。
そして『センカの実』を使った染料で俺の髪を茶色に染めようとした時だ。
「父様」
横から伸びてきた手がドッセルの手を掴んだ。
いつの間にか下へ降りてきていたセシルが氷の様に冷たい目でドッセルを見つめる。凍り付くような瞳にドッセルは頬を引き攣らせ、俺に伸ばしていた手を戻した。
「ウルグは嫌がっています。どうしても染めたいというのであれば、ウルグがもう少し大人になってからでも良いのではないですか?」
「し、しかし、私達はウルグの事を思ってだな……」
「嫌がるウルグの意思を捻じ曲げる事がウルグの為、ですか? ウルグは人形じゃないんですよ」
「…………」
セシルの言葉にドッセルとアリネアは言葉を失い、小さな声で「分かった」とだけ返した。
「ウルグ、私の部屋にレッツゴーするわよ」
俺はポカンとしたままセシルに手を引かれ、二階の部屋に戻ってきた。
彼女は部屋へ戻るなり「はふぅ」と息を吐き、ベッドへぱたんと倒れこむ。それからもぞもぞと芋虫のように這って布団の中に戻り、「かもんかもん」と俺も布団の中へ呼びこむ。
中へ入ると抱きしめられ、頭を撫でられた。
「ウルグはその髪のままがいいのよね?」
「……はい。魔神の色って言われても、分からないし……。このままがいいです」
「ん……そっか。ウルグがそう思うなら、ウルグの思う通りにしなさい。私はそれを応援するから」
「……ありがとうございます。でも俺なんてあうっ」
言葉の最中で、頬を突かれた。
それから俺の唇を撫でてくる。
「ね、姉様!」
「唇ぷるぷるー!」
それからセシルは俺を自分の胸に引き寄せた。
温かくて、柔らかくて、良い匂いがした。
「……ウルグはお人形じゃない」
「姉様?」
「うーうん。何でもない。隙あり、脇腹むにむに!」
「ちょっ」
今でも思い出せる、セシルとのやり取り。
セシルからの愛に素直になれなくて、照れ臭かった。
ただ、俺の意思を尊重してくれたのは本当に嬉しかった。
セシルが居てくれなければ、今頃俺はヤシロやテレス、レックスと仲良くなることは無かっただろう。
俺に幸せがあるのは、セシルが愛してくれたからだ。
―
久しぶりに訪れた故郷、オトラ村に特に変化は無かった。
相変わらず何もなく、のどかな空気が流れている。
遠目から自分が住んでいた家を見たが、何も変わっていない。
レックスに家へ戻らないのかと聞かれたが、俺はもうあそこに戻るつもりはない。
育ててくれた事には感謝しているが、それを踏まえても彼らに会いたいとは思えないのだ。
俺の本当の家族は、セシルだけだ。
「のどかな場所ですね。ウルグ様とテレスさんはどこで修行をしていたのですか?」
「村の奥にある立ち入り禁止の森だ。あの中で私が虐められている所をウルグに助けられて、それから紆余曲折あって修行をするようになった」
「ウルグがヤシロちゃんに会った段階ではもうかなり強かったんだろ? 道場に通うこともせずにそんだけ強くなれるなんて、どんな修行してたんだ?」
「別に特別な事はしてないよ。走り込み、素振り、そういった基本を村から出るまでやり続けてただけ」
「ウルグは森で一日中剣を振っていたからな」
セシルが眠る墓にはすぐに着いた。
掃除はされているみたいで、セシルの墓石は綺麗だ。
「……ただいま、姉様」
俺が村を出てから、数年が経った。
今までは自分の事に精一杯で、墓参りに来る余裕は無かった。
「今まで来れなくてごめんなさい。……村を出てから、色々ありました。姉様に聞いて欲しい事が、一杯あるんです」
ポツポツと、今まで会ったことを噛み締めるように口にする。
ヤシロ達は何も言わず、ただ俺の後ろで黙っていた。
迷宮都市へ行った事。
冒険者になった事。
ヤシロと出会った事。
シスイの元で修行した事。
魔術学園の事。
そして、俺を見てくれる友達が出来たこと。
「ありがとう、ございます」
そう言って、俺は口を噤んだ。
悲しさと切なさと温かさが混じりあったよく分からない気持ちだ。
俺が黙っていると、スッとヤシロが前に出てきた。
それから深く頭を下げ、自己紹介を始める。
テレスも、レックスもそれに続く。
「私はずっとウルグ様の傍に居て、ウルグ様を守ってみせます」
「ウルグが寂しくないように、私がウルグと一緒に居ます」
「ウルグだけじゃ危なっかしいから、俺がこいつをダチとしてサポートします」
ずっと孤独だった。
だけど、姉様。
今の俺には、こんな風に俺を見てくれる友達が出来ました。
「また、来ます」
そう言って、俺達はセシルの墓から去った。
―
ウルキアス魔術学園の授業過程前期が終了し、学生達は長期休みに入った。
その間に俺達はレックスの父の墓参りに行った。
レックスの父の墓前で、レックスが助けてくれたお陰で生き延びれたという事を報告し、頭を下げた。
そして今日、俺達はセシルの墓参りに来た。
今から王都の方へ戻り、途中でどこかによってゆっくりしていく予定だ。
移動はテレスが手配してくれた馬車を利用している。
カラカラと回る車輪の音、窓から見える移り行く風景、馬のいななき。
揺れる馬車の中で、俺達はのんびりしていた。
「帰ったら、また踏ん張って修行しねぇとな。学園にいる間に騎士団からオファーが来るくらい強くなって、やがては大陸に名を轟かすような騎士になってやるぜ」
「ほぅ、それは楽しみだな。取り敢えず、私やウルグの一撃を正面から受け止められるようにならねばな。後、ヤシロの速度に着いて行ける目も必要だ。大陸に名を轟かすなら騎士隊長クラスまで上がるとして、隊長格ともなると一撃一撃の威力も速度も私達の遥か上だぞ?」
「レックスさんは攻撃はとにかく、防御をもっと頑張ってください。連続攻撃に耐えられないようでは、盾の意味が無くなってしまいますよ」
「お前らってウルグには優しいけど、俺には結構辛辣だよな!?」
拳を握り締めて志を語るレックスへ、女性陣二人が意地悪な笑みを浮かべながら現実を突き付ける。
レックスがこちらへ助けを求める視線を向けて来たため、「まぁ、取り敢えず後期からは流心流の授業も取ろうな」と返しておいた。
がっくりと肩を落とすレックスだが、修行を始めた頃と比べると確実に強くはなってきている。
そう悲嘆する程ではないと思うぞ。
「クソぅ、俺に優しくしてくれる女の子はいねぇのかぁ!」
「レックスのコミュ力なら彼女くらい作れるんじゃないか?」
「前に貴族の女にこっ酷く振られてから、彼女とかそういうのが怖くなってしまってな……」
そういえば前にそんな事言ってたな……。
でもまあ、俺だって彼女とかそういうの居ないし。
「……騎士団入って、嫁さん貰って、親孝行して、子供作って、孫の顔見て、大勢の人に悔やまれながら安らかに死ねたら、それで満足だよ。幸せだよ」
「めちゃくちゃ満足の度合い高いですね」
「まぁな。でもま、今でも十分に幸せだよ」
「……あぁ」
俺もだ。
馬車はゆっくりと進む。
カラカラとなる車輪の音が、心地よかった。




