第十六話 『流心流剣技』
「……行きます」
木張りの床を蹴り、ヤシロが一気にシスイに接近する。
かなりの速度だ。速さは、俺よりもヤシロの方が上だろう。
向かってくるヤシロに対し、シスイは何もしない。ただ微笑みを浮かべ、その動きを目で追っているだけだ。構えも何もない、ただの自然体。
ヤシロがシスイの間合いに入ろうとした、その直前。
「――っ」
息を飲み、寸前で後方へ飛び退いた。
シスイは何もしていない。だが、ヤシロは驚きで目を見開いている。
恐らく、シスイに打ち込む余地を見出せなかったのだろう。ここから見ていても分かる。一見隙だらけに見えるシスイの、隙のなさが。
ヤシロの次の行動は、高速でシスイの周りを移動することだった。彼女を撹乱し、死角から攻撃しようとする腹積もりだろう。
……速い。
《魔力武装》で視力を強化して、ようやくついていける速度だ。
だが、シスイの目は、高速で動くヤシロを難なく追っていた。
あれだけの速度を出しているのに、シスイに一切の隙はない。
「ふむ」
「――ッ」
だというのに、何故かヤシロは飛び込んでしまった。
シスイの背後に回ると同時に、弾丸のようにシスイへと突っ込んでいく。
「――――」
シスイが剣を持ち上げたのが見えた。だが、何をしたかは見えなかった。
次の瞬間、ヤシロが宙を舞っていた。
木刀を取り落とし、ヤシロが床に落下する。どう見ても、勝負ありだった。
「……お見事です!」
見学していた門下生達がざわめき声を上げる。
「大丈夫か?」
倒れたヤシロに、慌てて駆け寄る。
「……はい。激しく倒れ込んだのに、全然痛くないです」
ヤシロが怪我をしないように、シスイが加減したのか。
あれだけの速度を前に、怪我をしないように加減できるほどの余裕。どれだけの実力差があれば、できる芸当だろうか。
「さて、次はウルグ君かな」
ヤシロを相手に、シスイは汗の一滴すら流していなかった。それどころか、最初の位置から一歩も動いていない。
「……はい」
「ウルグ様、頑張ってください」
ヤシロの言葉を背に、シスイと向かい合う。
「いつでも掛かって来ると良い」
「…………」
対面して改めてシスイの隙のなさが分かる。
壁を前にしていると言うよりは、滔々と流れる川の流れに剣を向けているような感覚だ。
どのように斬り掛かっても、水に傷を付けることはできない。
傷を付けられる、気がしない。
「――どうした、掛かってこないのかい?」
挑発するように、シスイが笑い掛けてくる。
ここで斬りかかれば、先ほどのヤシロと同じように一瞬でやられるだろう。乗せられてたまるか。
挑発に乗ってこないと悟ったのか、シスイが小さく笑った。
「ふ」
次の瞬間、俺はなぜあの時ヤシロが斬り込んでしまったのかを悟った。
「な――」
それは、風が吹いたかと錯覚するほどの剣気だった。
今すぐ動かなければ、斬り殺される。
目の前に現れた死に、恐怖に身が支配される。思わず、斬り掛かりそうになった。
「お――おぉッ!」
叫びながら、地面を踏み鳴らす。そうして、動こうとする自分を強引に止めた。
踏み込みに床が軋み、門下生達が小さく声を漏らす。
「ほぅ。動かないか」
感心するように呟くと、そこでようやくシスイが木刀を構えた。
それまで以上に、隙がなくなったのを感じる。
「今のは《引水》と言って、相手を自分に向かってくるように仕向ける技なんだ。単純な技だけど、引っ掛かってしまう人が結構いてね」
シスイが得意げに、今の技を説明する。
……なるほど。ヤシロの戦いを見ていなかったら、間違いなく引っ掛かっていただろう。
次は引っ掛からないように、警戒しないといけない。
そう心に刻み、警戒をより強める。そして、
「――だから、引っ掛からなかったのは見事だね」
気付けば、シスイが俺の間合いに入ろうとしていた。
ほんの数瞬前まで、間合いの外で会話していたというのに。
「は、な!?」
何が起きたのか分からない。
思わず声をあげながら、飛び退こうとする。
「――――」
直後、無理だと悟った。
このまま逃げようとした瞬間に、シスイに斬られる。
だったら――、
「お、おおおおッ!!」
即座に攻めに反転した。
チャンスは一振り。
魔力を全開にして、渾身の一撃を放つ。
シスイはまだ何もしていない。だが、先ほどのヤシロのように対処されるのは分かっている。
だから剣を放って、一秒にも満たない時間の中で、《幻剣》を使用した。
渾身の一撃を、さらに最高速の一撃へと昇華する。
剣の速度が変われば、流石のシスイにも隙ができる――。
「――――」
シスイが僅かに目を見開いた。その後、小さく笑うのが見えた。
シスイが剣を持ち上げるのが見えた。
しかし、そこから、何をされたのか分からなかった。
「は」
木刀が、滑る感覚があった。比喩表現ではなく、まるで水に流されるかのように。
そう自覚した瞬間、視界が回転する。
手の中から、木刀が弾き飛んでいくのが分かった。
気付けば、俺は天井を見上げていた。
「どうかな?」
シスイの声。
首元に、木刀が突き付けられていた。
「……参りました」
そう口にするのが、やっとだった。
―
手合わせの後、上座に腰を据えたシスイの前に、俺とヤシロは座っていた。
「ふむ」
シスイは顎に手を当て、小さく息を漏らす。
「手合わせして、おおよそ二人の腕については理解した」
俺達へ交互に視線を向けながら、シスイが話し始めた。
「なるほど。その年齢でCランク冒険者になるだけのことはあるね」
シンとした部屋の中に、シスイの声だけが響く。
俺達はシスイの言葉にただ耳を傾けた。
「ヤシロちゃんの身のこなしには、目を見張るものがあった。太刀筋も鋭い」
ヤシロは真面目な顔をしたまま、彼女の言葉に小さく頭を下げる。
シスイがヤシロから俺に視線を移した。
「ウルグ君も《引水》に乗ってこなかったのは見事だった。その後の技も、面白かったね。あれは、振った後に剣速を変化させたのかな?」
「……はい」
「なるほどね。良い技だ」
なかなかの高評価だった。
……俺は自分がどうやって負けたのかも分かっていないんだけどな。
完膚なきまでに、負けた。俺はシスイの足元にも届いていなかった。
分かってはいたんだ。だけど、ここまで為す術なく負けるなんて。
「端的に言って、君達には才能がある。剣の道に進んでも、人生を棒に振ることはないだろう」
じゃあ、稽古を付けてくれるのか。
そう俺が尋ねるよりも早く、シスイは指を一本立てて見せた。
「その前に、君達が剣を学びたいと思う理由を聞かせてくれないかい?」
「理由……ですか?」
「そう固くならなくても良い。これは、ただの興味本位だからね」
薄い笑みを浮かべて、シスイがヤシロへ視線を向ける。
「ヤシロちゃんはどうして、剣を学びたいのかな?」
「私が今ここに存在していられるのは、ウルグ様のお陰です。だから、私はウルグ様の力になりたい。だから、強くなりたいんです」
間髪入れず、ヤシロが堂々と答えた。
「ヤシロ……」
顔が熱くなるのを感じる。
ハッキリ言われると、その、困る。
「なるほどね。ウルグ君は愛されているね」
そう、シスイが笑い掛けるが、ヤシロは真剣な表情を崩さない。
紫紺の瞳から放たれる、刃のような鋭い視線。その様子にシスイは満足したかのように頷くと、今度は俺に視線を向けてきた。
「じゃあ、次はウルグ君だ」
来た。俺か。
「君が強くなろうとする理由が、私としては特に気になるね」
そう言って、シスイが笑い掛けてきた。
「――《剣匠》の私に負けて、そこまで悔しがる人を見たのは初めてなんだ」
シスイの視線の先には、膝の上で握りしめた拳があった。
悔しくて、それを堪えるために握りしめていた拳だ。
「君はどうして、強くなろうとするんだい?」
決まってる。
「――俺は《剣聖》になりたいんです」
シスイの目を見て、俺は言った。
「俺は最強になりたい。だから、シスイさんにも勝てるようにならないといけないんです」
端で聞いていた門下生から、「なっ」と驚きの声が漏れる。
失礼だと、気を悪くしている者もいるようだった。
「ふふん」とヤシロはどこか誇らしげな鼻息が聞こえてくる。
そして、
「――ほぅ」
シスイはゾクッと肌が粟立つような笑みを浮かべた。
「この私を、越えると?」
今までとは違う、肌で感じることができる圧倒的な存在感。直接、頭を押さえつけられているような感覚だった。
「――はい」
だが、俺は目を逸らさない。
この夢だけは、絶対に諦めない。だから誰にどう思われようと、関係ない。
「ウルグ君。君は確かに強い。だけど、それはあくまで『年齢の割には』という話だ。《剣聖》になりたいと願う剣士の中には、掛け値なしの実力者が揃い踏みしているよ? ウルグ君、君は自分に《剣聖》になれるほどの、分があると思うかい?」
意地悪な表情で、意地悪なことを聞いて来やがる。
「本当に《剣聖》になれるとでも、思っているのかい?」
その問いに対する、俺の答えは一つだ。
「――俺は《剣聖》になります」
それ以上でも、それ以下でもない。
分とか、そんなのは知ったことじゃない。
あの日、あの夜、最強になると決めた。
あの日、あの人に、最強になると誓った。
誰がどう思おうと、誰が何を言おうと、俺は《剣聖》になる。
ただ、それだけだ。
「――――」
俺の言葉に、シスイは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
「――面白い」
それから、心底おかしそうに笑った。
「……と、あいつなら言うんだろうね」
ボソリ、とシスイがそう付け足した。
「うん。君達が気に入ったよ。二人がどこまで行けるのか、見たくなった」
シスイがゆっくりと立ち上がる。
門下生達が、「そんな」とざわめくのが聞こえてきた。
だが、シスイは気にした風もなく言った。
「相、分かった。ウルグ君、ヤシロちゃん。君達に剣を教えることを約束しよう」
こうしてこの日、俺達はシスイに剣を教えてもらえることになった。




