第八話 『深紫の人狼』
少女は紫紺の瞳に怯えの色を滲ませ、身をすくませるかのように深紫の狼耳を折り畳む。
フードの下を見られた事に、恐れを感じているようだった。
前に街なかでフードが軽くめくれ上がった時のあのリアクションは、人狼種という事がバレたかと思ったからだったのか。一瞬見えた黒い物は、光の加減で深紫の髪がそう見えたのだろう。
小さな唇を震わせて、人狼種の少女が何か言葉を紡ごうとする。
「――チィ!」
それよりも速く、俺は彼女の頭上目掛けて『鳴哭』を振った。
刃は天井から少女目掛けて奇襲を仕掛けてきた《哀人》の体を横にスライスする。人狼種の少女が溢れ出た血液を浴びないように、剣を振ると同時にその手を引き寄せてやる。
「え、あ」
少女は困惑を顔に浮かべ、言葉にならない声を上げている。
人狼種は人間よりも嗅覚や聴覚に優れているらしいから、さっきの奇襲も事前に察知出来たと思うのだが、どうやらフードの下を見られた事によほど動揺しているらしい。かなり注意散漫になっている。
「おい、ちゃんと警戒しろ。今みたいに全部カバー出来るとは限らないんだぞ」
今だ困惑を顔に貼り付ける彼女を、軽く叱咤する。ここは迷宮だ。油断をするべきではないし、今は非常時でもある。いつも以上に警戒しなければならない。時と場合を考えて欲しい。
注意された人狼種の少女は「え、あ、ごめんなさい」と謝りながら、頭を下げるようにしてツンと尖った耳を折り曲げる。さっきから色々な動きを見せているが、耳の動きは感情を表しているのだろうか。若干の興味が湧くが、それを頭の隅に追いやって周囲の警戒に集中する。
「っ、クソ!」
角を曲がると、先には《哀人》と《目無し狗》が溢れていた。ギロリとこちらに存在しない目で視線を向ける魔物達を見て、俺は戦闘よりも逃走を選択した。
即座に踵を返し、元の道へ戻る。さっき通らなかった道へ人狼種の少女と飛び込み、先へ進む。
「クソ……そろそろここがどこなのか分からなくなってきた」
地形はある程度頭に入れておいたが、こうも行く先行く先魔物に阻まれていては、現在地点が分からなくなってしまう。何となく階段の方角は分かるものの、迷宮の構造は複雑だ。当てずっぽうで進んでいては効率が悪い。
「あの」
「何だ?」
黙っていた人狼種の少女が、不意に話し掛けてきた。何か案が思い付いたのかと、即座に返事をする。その勢いに彼女は驚いたのか、ビクリと体と耳を震わせた。
怯えさせてしまったようだ。
「……悪い。どうした?」
「……いえ。聞かないんですか……? 私の耳の事とか。てっきり、見られたらすぐに切り捨てられてしまうものかと思っていたのですが」
「全く気にならないと言ったら嘘になるけど、今はそんな場合じゃないだろ。後、俺は人狼種だろうが妖精種だろうが、あいつらみたいにいきなり切り捨てたりはしねぇよ」
「――人狼種」、なんて大げさな反応をしてしまったものの、正直言ってちょっと驚いたくらいでそれ以外の感想は出てこなかった。
この世界の人間は黒髪以上に人狼種を毛嫌いしているようだが、俺は別に人狼種に何かされた訳じゃないからな。
人狼種が道を歩いていても「おお、耳が生えてる」くらいにしか感じない。
もし攻撃してきたり、襲い掛かったりしてきた場合は、人狼種だろうか人間だろうが関係なしに斬るし。
「……でも人狼種ですよ?」
「何だよ、じゃあ切り捨てて欲しかったのか?」
「……そういう訳じゃないんですけど。そんな何ともない反応をされたのは、初めてで」
「俺は、人を外見だけで判断して、敵視したり、馬鹿にしたりするような奴にはなりたくないからな」
かつて彼女が言っていた言葉を口にすると、人狼種の少女は口を半開きにして、ぽかんとした表情で俺の事を見てきた。「何言ってんだこいつ」みたいな反応に途端に恥ずかしくなり、
「あ、あと俺は黒髪だから。外見だけで見られることが少なくないから、まあそういうあれだ」
と適当に誤魔化す。
人狼種の少女は「そう……ですか」と、唇を震わせしばらく何も言わなくなった。彼女がどう思って黙っているのかがよく分からないので、何か不味いことを言っただろうかと不安になる。
曲がり角の前で止まり、その先がどうなっているかをこっそり覗く。魔物はいない。後ろにいる人狼種の少女に「行けるぞ」と小さく教え、角を曲がろうとした時だった。魔術服の裾を後ろから摘まれ、俺は動きを止めた。
振り返ると、人狼種の少女が俯きながら俺の裾を人差し指と親指で摘んでいた。
「……どうした」
「名前を」
「……?」
「貴方の、名前を教えては頂けないでしょうか」
改まってそう言ってきた少女に、俺は面食らいながらも、「ウルグ……だけど」と名乗った。少女は「ウルグさん、ですね」と頷くと、反芻するかのように口の中で俺の名前を繰り返した。
どうしてしまったんだろう、と少し不安に思いながら少女を見ていると、少女は顔を上げ、その紫紺の双眸で力強く俺の目を見つめながら、
「私の名前は――ヤシロです」
と名乗ったのだった。
そ、そうか。
―
人狼種の少女――ヤシロが名乗ってから、多少だが迷宮の中が歩きやすくなった。
俺の«魔力武装»で強化してある感覚よりも、ヤシロが早く魔物の存在を察知するからだ。
流石は人狼種と言いたい所だが、ヤシロは生まれつき『耳』も『鼻』も悪いらしく、従来の人狼種よりも察知能力は低いらしい。
それでも人間の俺からすれば凄いと思うけどな、と返すとヤシロは「あはは」と笑うだけで何も言わなかった。
それから十分程度で一階層にまであがる事が出来たが、一階層も魔物だらけだった。
そして一緒にいて分かったことだが、ヤシロはかなり強かった。
その小柄な体を活かしたスピードのある攻撃を主とし、片手に収まる小刀で相手の急所を斬り裂くか、連続して攻撃してダメージを蓄積して倒す戦法を取る。
時たま、小刀に深紫色の『影』の様な物を纏って敵を斬り裂いているが、俺の知るかぎりこんな魔術は存在しない。小刀に«魔術刻印»が刻まれているか、もしくは――亜人魔術を使っているか。
人間種には使用できない、亜人種の一族だけが使用可能な魔術を一括りにして、亜人魔術と呼ぶ。
彼女が使っているあの『影』は、もしかしたら人狼種に伝わる亜人魔術なのかもしれない。
それも彼女が使っている魔術はそれだけではない。時折体を影が覆ったかと思うと、極端に気配が消えるのだ。これも亜人魔術だろうか。
「――ハァ!」
数匹もの《影斧》の攻撃を回避して、ヤシロがその懐に潜り込んだ。間髪入れず、小刀で連続して全ての《影斧》の脇腹を斬り裂く。だが致命傷とはなりえない。痛みに激怒した《影斧》達が斧をデタラメに振り回し始めた。ヤシロはそれを物ともせず全て回避し、再度《影斧》の体に一太刀ずつ入れる。
「ウルグさん!」
ヤシロが俺の名を呼ぶと同時に、«魔纏»によって強化された『鳴哭』の黒刃が煌めいた。黒い線が《影斧》達の首をなぞったかと思うと、直後に首は地面に転がり落ち、断面からどす黒い鮮血を撒き散らす。
計五匹の《影鬼》を、十数秒で倒してしまった。俺一人では五匹も同時に相手にすることは出来なかっただろう。
その後も定期的に魔物に出会ったが、ヤシロの的確なサポートによって俺の攻撃が格段に通りやすくなり、魔物を捌くのがかなり楽になった。
もう百匹くらい斬ったのでは無いだろうか、と思いながら目の前に立ちふさがった《影斧》を斬り伏せた時だった。迷宮内に反響するくらいの音量で、女性の悲鳴が聞こえてきた。この音量では魔物達を引きつけてしまう事になる。
そう理解した瞬間、既に俺は走り出していた。後ろから慌ててヤシロが後を追いかけてくる。
「他の冒険者はもういないし、多分逃げ遅れたんだろうな」
「……どうするんですか?」
「助けるよ」
そう言い切り、叫び声が聞こえてきた場所まで到着して、俺は目を剥いた。
悲鳴をあげていたのは、盾と槍を装備した二十代くらいの女性だった。壁際に追いやられ、大量の魔物達から総攻撃を喰らっている。盾は大きく損壊しており、もう長くは持たないだろう。槍で魔物の急所を突いてはいるが、如何せん数が多すぎて焼け石に水状態になってしまっている。
「凄い……数ですね」
四階層から這い出てきた魔物が、一階層にまで上がってきているのだろう。彼女の悲鳴に釣られて、他の魔物も続々と集まってきている。
これは――。
あの女性は助からないかもしれない。
集まってきている魔物は数十匹近くいる。今からあそこに飛び込んでいっても、俺達二人共あの物量に押し潰されてしまう恐れがある。
ここまで出来る限り、窮地に陥っている冒険者は助けてきた。だが、今回のは俺では助けきれない。
仕方ない。
人の命を助けるのも大切だが、一番は自分の命だ。俺は最強にならなければならない。夢を叶える為に、こんな所で死ぬ訳にはいかないのだ。
見捨てよう。
女性は赤色の髪を振り乱し、涙を浮かべながら必死に盾で攻撃を防ぎ、魔物が近づいてこないように槍を突き出している。しかし、ついに盾が《影斧》の一撃で損壊し、砕け散った。女性の表情が絶望に染まる。
見捨てよう。
そう、判断しようとした時だった。
―― ウルグには強くて、優しくて、……綺麗な子になって欲しい。
頭の中で、俺にそうあって欲しいと、願った女性の声が蘇った。
「クソ、恨むぜ姉様」
見捨てるという判断を即座に切り捨て、隣で俺の判断を待っていたヤシロに振り返った。
彼女は俺の顔を見て、もう一度問いかけてきた。
「どうするんですか?」
「――助けるよ」
そう宣言し、俺はこれから俺がやることを彼女に告げた。
ヤシロは顔色を変え、反論して来ようとするが俺はそれを受け付けず、即座に行動に移した。
「こっちを、向けえええぇぇぇぇぇぇぇ !」
角から飛び出し、全力の«魔力武装»を体に身に纏いながら、さっきの女性以上の音量でそう叫んだ。女性に襲い掛かろうとしていた魔物達が足を止め、一斉にこちらへ振り返った。
《目無しの巣窟》に出てくる魔物は目が見えていない。どうやって人間を判断しているかといえば、『音』と『魔力』でだ。匂いでも判断してるかもしれないが、この際知ったことではない。
大音量の叫びと、全力の強烈な魔力に当てられた魔物達が、目の前の女性を放り、俺目掛けて殺到し始めた。その凄まじい勢いに顔が引き攣るのを感じながら、俺は逡巡するヤシロに叫ぶ。
「あの女性を連れて迷宮から出ろ! 魔物が俺に引き寄せられている今なら、あの人を助けられる!」
「でも、貴方は!?」
「俺なら大丈夫だ! だからお前も早くあの女性と一緒に逃げてくれ!」
それ以上、喋っている暇は無かった。
魔物達が接近してきている。
ヤシロが気配を消して壁際へ移動するのを見届けて、俺は魔物に背を向けて走り始めた。
地上へ出る階段から遠ざかっていくのを感じながらも、俺は魔物達を振り切ろうと全力で走る。二人が逃げるだけの時間は稼いでおかなければならない。
もはや振り返る余裕はなく、あの二人が逃げ切れたかどうかは分からない。逃げ切れた事を祈り、俺は走った。
正面からも複数の魔物が馬鹿みたいにやってくる。前からも後ろからも魔物が追ってきている。
「押し通るしかねえな」
全力の«魔力武装»と«魔纏»を発動させ、正面の群れへ飛び込んだ。
大きく横薙ぎに剣を振り、大雑把に魔物を斬り捨てる。
上から振ってきた《哀人》を躱し、複数で飛び掛ってきた《目無し狗》を蹴り飛ばし、斧を振る《影斧》を斧ごと吹き飛ばす。あまりの量に完全に攻撃が躱しきれず、何度も攻撃を受けた。その度魔術服に阻まれ、その攻撃は服の下まで届かない。
「ほんと、買っておいて良かった」
痛みはあるし、無傷ではないが、これのお陰で行動が出来なくなるほどのダメージは受けていない。
正面の群れを突破して、ひたすらに走る。もう良いだろうと魔力を落とし、今度は隠れるようにして走った。
そのお陰で大部分の魔物は俺を見失っていく。それでも追いかけてくる魔物に関しては、そのまま無視して走り続けた。
が。
「運が無いにも程があるな……。勘弁してくれよ」
がむしゃらに走り続けた先にあったのは、壁だった。
他に通路の無い、行き止まりだ。
そこへ後ろから追いかけてきていた魔物達が、唯一の逃げ道を塞ぐかのようにしてやってきた。
もう、逃げ場はない。
目的地を定めずに全力で走ったのが、完全に裏目に出た。
「やるしかないか」
覚悟を決めて、魔物の群れに向き合った。
体内の中にある魔力にはまだ余裕がある。魔物を殺した事で微量の魔力を体内に吸収出来ると聞くが、今日は初めて魔力の吸収を実感することが出来た。消費量には到底届かないが、ある程度魔力量が増えている。
迫ってくる魔物を前にして、大きく深呼吸。
二人の女性を頭に思い浮かべながら、俺は『鳴哭』を握る指に力を込めた。
「――行くぞ」




