第十話 『願いと誓い』
深い、海の底にいた。
暗くて、黒い、海の底に。
誰かが俺に囁いている。何を言っているのかは聞こえない。
「――――」
暗い海の底を、青い光が照らす。
それを知覚した瞬間、急速に引き上げられるような感覚があった。
熱に奪われた意識が回復していく。
「はぁ、はぁ」
呼吸が荒い。心臓が早鐘を打つように鼓動している。
よろけそうになる体を何とか抑えて踏みとどまる。
俺は顔をあげ、周囲を見回した。
「……あ、れ?」
俺はセシルのベッドの前に立っていた。
それはいい。だが、日が登っていた。外の明るさから、もう昼だろうか。
さっきまで、夜だったというのに。
「…………」
セシルのベッドの両脇にドッセルとアリネア、知らない男が立っていた。
いったい、いつの間に部屋に入ってきたのだろう。
三人に囲まれているセシルに視線を向けると、彼女は生気のない白い顔をして、ベッドに力なく横たわっていた。
「何が……」
呆然と呟く俺を尻目に、ドッセルとアリネアが叫んでいる。
男はアリネアの叫びに顔を顰めながら、セシルの体に手を当てて何かをしているが、すぐに手を離して首を振った。
「私には、どうにも……」
「なんでよ! どうにかしなさいよ!」
食って掛かるアリネアに、男は沈痛な面持ちで首を横に振るだけだ。
あの男は医者か?
いつの間に医者が家に来たんだ?
わけが分からない。
「うる……ぐ」
その時、今にも消えてしまいそうな、か細い声でセシルが俺のことを呼んだ。
ドッセル達の視線が俺に向く。いつもは嫌味を言ってくるドッセルが、今日は何も言わなかった。
ただ、ジロリと睨んでくるだけだ。
「姉様、なにが」
「ウルグ」
セシルは俺の問に答えず、手を伸ばして頬に触れてきた。まるで氷のように冷たいその手に、呼吸が止まりそうになる。
何でこんなに冷たいんだ。
頬に当てられたセシルの手に、俺の手を重ねる。
少しでも温かくなればいいと思った。
「ごめん……ね?」
何が、とは聞けなかった。
「ウルグのこと、ほんとに……愛してる。ウルグに……会えて幸せだったわ」
「……俺も姉様を愛しています……! 姉様に会えて良かった。姉様と一緒にいれて、幸せだった……っ!」
俺は何を言ってる?
こんな言い方、まるでもうセシルが死んでしまうみたいじゃないか。
セシルは力なく笑うと、また涙を零した。
「強くて……優しい子に。……幸せに……なって」
「ねえさま」
頬に当てられていた手から力が抜けていくのが分かった。
滑り落ちていく手を押さえて、名前を呼ぶ。
セシルは泣いていた。だけどそれ以上に、本当に幸せそうに笑っていた。
「……あぁ……やっぱり綺麗……。ウルグは……」
「ねえ、さま」
「幸せ………愛してる」
そう言ったきり、セシルは何も言わなくなった。
頬に当てられていた手から、力が失われる。
握っていたセシルの手を、ゆっくりとベッドの上に乗せる。
セシルは幸せそうな顔をしていた。
頬に涙の跡を残したセシルは、それでも口を笑みの形にしていた。
穏やかで、幸せそうで。まるで眠っているかのようで、今にも飛び起きて俺に抱きついてきそうな。
そんな顔をしていた。
「……俺も、愛してる」
医者がセシルに手を当てた。それからゆっくりと手を離し、静かに首を振った。
ドッセル達が、何かを喚いている。その内容は頭に入ってこなかった。
「邪魔だ!」
ドッセルに突き飛ばされて、地面に倒れる。
痛みはない。
ただ、目の前の現実が信じられなかった。悪い夢を見ているような気分だった。
セシルが、死んだ。
―
何も考えたくない。
―
セシルがいなくなってから二日が経過した。
その間、初めて修行をサボってしまった。
セシルのお葬式が行われ、セシルの墓が作られた。
次の日は何もする気が起きなくて、一日中寝ていた。
前世では家族や身近な人がいなくなるという経験をしなかった。誰よりも早く俺が死んだからだ。
初めて、身近な人の『死』という物を経験した。
実はセシルは生きていて、唐突に現れて抱きついてくるような気がする。しかし、セシルはもういない。居て当たり前だった人が、いなくなってしまう。
悲しい。そして寂しい。
泣き喚いても、どうもする事が出来ない。
セシルの事を考えて、ベッドの中に塞ぎ込んでいた。食欲は無く、ほとんど何も食べていない。
気付けば、窓の外は暗くなっていた。部屋から出ると、家の中も灯りが消えていた。ドッセルもアリネアももう寝たようだ。
「…………」
気付けば、セシルの部屋に来ていた。
葬式などの手続きが忙しかったのか、部屋はセシルが死んだ時、そのままだ。
いつもセシルが寝ていたベッドにはもう、誰もいないが。
『鳴哭』の入った箱が部屋の隅に置かれていた。
帰ってきてから、そこに置きっぱなしだ。
セシルがくれた、誕生日プレゼント。
何となく、箱の蓋を開けてみた。
「……ん」
箱には何かがギッシリ詰められた革袋と、一枚の封筒が入っていた。
何だ、これ。革袋も封筒も初めて見る。
セシルが入れたのだろうか。
革袋を手に取ると、想像以上に重かった。
紐で縛られた口を開けて中を覗いてみると、何枚もの金貨と銀貨が入れられていた。
「これは……」
封筒を開けてみる。中には手紙が入っていた。
ウルグへ、と書かれている。
読んだ。
―
ウルグへ。
あなたがこの手紙を読んでいる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。
……この台詞、『四英雄物語』で使われているのを見て、一度私も使ってみたいと思っていたのよ。やっと使えたわ。
と、ごめんなさい。なんか真面目なことを書くのって照れるのよね。あと、こういう時、どういうことを書いたらいいのかっていうのが、分からなくて。
コホン。
この手紙と一緒に、革袋が入っていたでしょう? あれには私がコツコツ貯めていたお金が入っています。学園の入学金には足りないと思うけど、生活の足しにはなると思う。
前に、入学金を稼ぐために冒険者になるって言ってたわよね。
防具とか宿とか、このお金はそういうのに使ってね。
ウルグの戦っている姿が見られないのは残念……。
冒険者は、とても危険な職業よ。
本当は、ウルグには危険なことはして欲しくない。
それでも、ウルグが冒険者をになるなら、絶対に無茶はしないでね。
もし危なくなったら、どんな手段を使ってでも生き延びて。
絶対。絶対よ。絶対だからね。
ウルグには強くて、優しい子になって欲しい。それで、幸せに暮らして、長生きして欲しい。
だからそのために、強くなって。誰にも負けないような、最強になって。
ウルグならできるわ。
私はずっと応援しています。
ずっと、ウルグと一緒にいるからね。
とってもとっても愛してる。
ウルグの愛しのお姉様、セシルより。
―
セシルらしい、手紙だった。
読んでいて、笑ってしまった。
……何が一度は使ってみたいと思っていただ。
頬を伝う雫を拭い、俺は立ち上がった。
……最強、最強か。
「うん……分かってる」
セシルは初めての家族だった。
俺に愛情を注いでくれる、本当の意味での家族だった。
涙を拭い、拳を握りしめ、俺はもう一度宣言する。
「俺は最強になる。――絶対に」
―
外はまだ薄暗く、空はどんよりとした藍色だった。
背中にはセシルから貰った金と数日分の食料、着替えの服、その他必要な物を詰め込んだリュックと『鳴哭』を差している。
俺は家を出る事にした。
セシルが死んだ今、もうあの家にいる意味は無い。何も言わずに出てくるのは気が咎めたので、リビングにドッセルとアリネア宛に手紙を置いておいた。今まで育ててくれた事に対する感謝と、学園に通うための金を稼ぐために家を出るという事を書いてある。行き先に関しては念の為書いていない。
しばらく家を眺めた後、俺はセシルの墓へ行った。
墓石にはこちらの世界の文字で『セシル・ヴィザール』と刻まれている。
「行き先は『迷宮都市』だな」
多くの冒険者が集まる、『迷宮都市』。
俺はそこで冒険者になり、入学金を稼ぐ事にした。
「ここから歩いて三日か。まあ食べ物も持ってきたし、«魔力武装»で走ってけばすぐ着くだろ」
三日に一度、『迷宮都市』行きの馬車が村に来ているが、それに乗るにはまだ二日待たないと行けない。もうあの家にいる意味は無いし、行動するなら早めに行動したい。まあ走っていけば修行になるからな。
「姉様、行ってくる」
最後にセシルの墓石を撫でて、俺はオトラ村から『迷宮都市』へと向かった。
次章は『迷宮都市』編です。
次章に入る前に、セシルとウルグの閑話をはさみたいと思います。