プロローグ 『認められたかった』
――何も思い通りにならない、無意味な人生だったな。
体から力が失われていく。
視界が狭くなっていく。
刻一刻と迫る死を前にして、自分の無味乾燥な人生を振り返っていた。
俺は母の顔を知らない。
物心付く前に、母が浮気したのが原因だ。他の男とくっつき、母は家庭を捨てて出て行った。
だから俺は父子家庭で育った。
生活に何一つ不自由はなかった。父は男手一つで、俺を養ってくれたからだ。
けれど、父は俺を見てくれなかった。
まともな会話はなく、父は俺に生活に必要な金を与えるだけだった。
母が産んだ俺が憎かったのか、それとも浮気された時に心が壊れてしまったのかは分からない。
父は俺にまったくといっていいほど、興味を示してくれなかった。
放り出されたり、暴力を振るわれたりしなかっただけ、まだマシなのかもしれない。だけど俺は、父に自分のことを見てもらいたかったんだ。
俺は生まれつき要領が悪く、人付き合いが下手だった。これといった特技もなく、友達もいない。
その状況を変えようと藻掻いたが、状況は余計に悪くなるだけだった。話しかけたクラスメイトに、気持ち悪いと笑われるくらいだ。
誰かに見て欲しかった。
認めて欲しかった。
けれど、家でも学校でも、俺を認めてくれる人は一人もいなかった。
そんな俺が剣道を始めたのは、小学四年生の時だった。
四年生になると、すべての生徒は強制的にクラブ活動をさせられる。たまたま入ったのが、剣道クラブだった。
クラブが始まると、子供用の小さな竹刀を渡され、素振りをさせられた。竹刀を振るのは、想像していたよりも地味で退屈だった。
だけど、初めての練習の時、終わりがけに先生が言ってくれたんだ。
――筋が良いね、と。
嬉しかった。
初めて認めてもらえたような、そんな気がした。
もっと認めてもらいたくて、その日から剣道に打ち込み始めた。
勉強や他の運動はできなくていい。
たくさんのことができるよりも、一つのことを極めた方が凄いんだと、そう思った。
だから、ただひたすらに練習に打ち込んだ。
先生から使わない防具や竹刀をもらい、いろいろな道場に行って練習した。
みるみるとは言えないが、少しずつ上達していった。
何もできなかった自分が、何かをできるようになっていくのが分かって、嬉しかった。
……それでも、父は俺に対して何も言ってはくれなかったが。
剣道を始めてから人間関係が上手くいくようになったかというと、そうではなかった。
中学に入ってから、虐められるようになった。
切っ掛けは俺がガンを付けた、とかいう言いがかりだったと思う。
生まれつき目つきがキツいから、それで勘違いされたのかもしれない。
陰口を叩かれたり、殴られたりもした。
喧嘩を売ってきた連中には、片っ端からやり返した。
俺は何も悪いことをしていないのに嫌がらせをされるのは我慢ができなかったからだ。
悪口を言われたら徹底的に言い返し、暴力を振るわれたらその分だけやり返した。
こちらは被害者なのに、やり返せばやり返すほど敵は増えていった。
嫌がらせを受けながらも、剣道の練習はやめなかった。
剣道部に入り、大きな大会で何回も結果を残して、高校へはスポーツ推薦で行くことができた。
けれど、誰も認めてはくれなかった。
父に剣道のことを伝えても、「そうか」と言われるだけだった。
頑張りが足りないからだと思った。だから、高校ではもっと剣道を頑張ろうと決意した。
高校生になってからも、虐めは続いた。
中学の連中の多くが同じ高校に入学してきていたからだ。
剣道部の中でも、陰湿な嫌がらせを受けるようになった。
竹刀や防具が捨てられたり、ロッカーの中にゴミを入れられたり。
先輩に訳もなく殴られたり、同級生に仕事を押し付けられたりもした。
くだらない連中だ。相手にするのが嫌になり、完全に無視するようにした。
剣道で結果を出せば、黙らせられると思ったからだ。
……だけど。
三年生、最後の年、俺は団体戦と個人戦の両方で全国大会に出場することができた。
団体戦は途中で負けてしまったが、個人戦では決勝戦に勝ち進めた。
あと一歩で全国一位になれる。一位になれば、クラスメイトに、部員達に、父に、きっと認めてもらえる、そう思っていた。
だけど結局、俺は優勝できなかった。
決勝戦で負けてしまったのだ。
……俺は一番に、最強にはなれなかった。
優勝できなかった俺に、「ざまぁみろ」と同級生が言っているのを聞いてしまった。
「お前が決勝に残っていればなぁ」と同級生に笑いかける顧問を見てしまった。
誰も、俺を認めてはくれなかった。
それでも、全国二位。今までで一番の成果だ。一位ではないが、凄いことに変わりはない。
今度こそ、褒めてもらえるかもしれない。
嬉々として、俺は父に報告した。全国大会で、準優勝したと。
しかし、父が口にした言葉に叩きのめされることになる。
――何だ、一位じゃないのか。
そこから先の記憶はほとんどない。
覚えているのは、家から飛び出した自分が車に轢かれたという事実だけだ。
「……ぁ」
すでに痛みは感じなくなっていた。
ただ凍えるような寒さが全身を蝕んでいく。
もはや倒れた体を起き上がらせることは叶わず、指先すら凍り付いたかのようにピクリとも動かすことができない。
誰かが何かを叫んでいるが、意味が理解できない。
ただぼんやりと、自分が死ぬということだけが分かった。
……何も思い通りにならない、無意味な人生だった。
なぜ、俺ばかりこんなに辛い目に遭わなければならないのだろう。
世界の理不尽さが憎かった。
意識が遠のいて行く。
抗い難い強烈な眠気が目蓋を強引に閉じていった。
視界が、音が、温度が、完全に闇に飲み込まれていく。
その直前に、ふと考えた。
もし、俺が一位になれていたら。
『最強』になれていたら、誰か俺を認めてくれただろうか?
最後にその疑問だけを残し、
――俺は死んだ。