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迷走探偵秋谷静  作者: 青波零也
鏡花水月の君
6/12

アサノ、代行者に出会う

 苛立ちを誘う、その名の通りの『嫌がらせ』が流れる探偵事務所の一室で。

「ストーカー……ねえ」

 一人掛けのソファの上にあぐらをかいた秋谷静が呟いた。そんな秋谷と向かい合っているのが、アサノよりも先に事務所に来ていた小林巽だった。

 いつもと変わらずチェシャ猫の笑みを浮かべて裸足につっかけた便所サンダルをぷらぷらさせる秋谷に対し、小林は僅かな、しかし明らかな苛立ちを言葉の端に篭めて言う。

「コズエが狙われてんのと、その異能府の代行者とやら、何か関係あるんじゃねえかと思いまして。っつかストーカーがその代行者って可能性が一番高そうだろ」

「しかしだねえ、タツミくん。代行者のタナカ氏は私とアサノくんしか見ていない。そしてかのストーカーとやらは、君がかろうじて姿を見た程度だ。それだけで疑うのは早計というものさね」

「……む」

 茶を出し、茶菓子を出し、手持ちぶさたになったアサノは、二人の会話から意識を逸らさないようにしながらも気の散る原因であるCDプレイヤーの元にのそのそ歩いていき、延々と流れ続ける『嫌がらせ』を止めた。秋谷がちらりとこちらを見た気がするが華麗に無視して、この前買ってきたCDを勝手にセット、再生ボタンを押す。

 曲目はラヴェル『クープランの墓』全六楽章。その後に続くのは『鏡』全五楽章のはずだ。自他共に認めるサティ狂の秋谷だが、別段ラヴェルも嫌いではないのか、納得したように一つ頷くと小林に視線を戻した。

 小林は微かに唸りながら秋谷を睨んでいたが、ふと何かを思いついたらしく、突然机の上にあったメモ帳を取り上げると、添えられたボールペンで何かを書き入れ始めた。横に座ったアサノが手元を覗き込んでみると、人の姿を描いているのだというのが一拍置いてわかった。

 何故すぐにわからなかったのかといえば、小林の描き方が独特だったからだ。通常、人の体に限らず何かを描く時には、大まかな輪郭を取ってから細部を描き加えるものだが、小林は頭の上にあたる部分からいきなり細かく描き入れ始めたのだ。頭、顔、首、肩……上から下へ、微に入り細に入って描き込むボールペンの速度には、見とれるしかない。

 結果、小林が秋谷に突き出したのは、写真と見まごうほどの描き込みが成された、一人の男の絵だった。思わず時計を確認するアサノだったが、驚いたことに描き始めてから一分も経過していなかった。

「俺様が見たのはこいつだ。目視できた範囲だけどな」

 秋谷はメモ帳をテーブルに置くと、赤いフレームの眼鏡の下で目を細めた。

「これは別人だね。私たちが見たタナカ氏ではないよ」

「本当っすか?」

 当てが外れた、というように肩を落とす小林。

 だが、確かにアサノの目から見ても、小林が描いた男は田中とは似ても似つかなかった。顔はほとんど影になってしまっていて判断材料にならなかったが、体格や髪型が全くの別物だ。

「タナカさんって、細くて、銀縁眼鏡で、優しそうな感じの人でしたよね」

「そうだね。身長は私と変わらないか少し高い程度だったはずだよ」

 アサノと秋谷の言葉を聞いて、眉根を寄せて顎を撫ぜた小林は、それならば絶対に違うと納得したようだった。小林が見た男は、彼の目測でも百八十近い長身だという。体格だけは、いくら格好を変えたところで誤魔化せるものでもない、そのくらいはアサノにだってわかる。

 振り出しか、そう呟いた小林ががしがしと頭をかく。先ほどから見せていた苛立ちの中に、不安の苦みが混ざったのが感じ取れる。落ち着いて眠ることもできない長谷川のことを心から心配している……それがよくわかる態度だった。

「出来れば、とっとと解決してやりてえんだがな」

「そうだね。こちらもハセガワ・コズエ氏を危険にさらしている男のことは気になる。何かわかったらすぐに教えるよ」

「助かります」

 小林は両手をテーブルにつき、深々と頭を下げる。秋谷は「顔を上げてよ」と軽い口調で言って、小林が描いた男の絵を改めて手に取る。

「これは私が受けた依頼の範疇でもあるからね。ただ、私に出来ることはハセガワ氏とその周囲について『調べる』ことだけ。あくまで守るのは君の役目さ」

「ああ、わかってますさ」

 顔を上げた小林の瞳に宿っていたのは、いつになく鋭い光だった。淡い瞳の色も相まって、その光の怜悧さにアサノは背筋がぞくっとする。普段、誰の前でも陽気に振舞ってみせる小林だけに、時々見せる刃のような表情には言い知れない凄みがあった。

 その「鋭さ」が小林の本質であることも、知らないアサノではなかったけれど。

「さて……それじゃあ、こっちでわかったことを君たちに教えておこうか」

 お願いします、と小林がしゃがれた声で言う。アサノも一度関わってしまった以上、気にならないわけがない。身を乗り出して秋谷の言葉を待つ。

「まず、ハセガワ・コズエ氏についてだけど、彼女はM大学の文学部日本文化学科に所属する三年生だ。今は大学近くの学生向けマンションに一人暮らし、ってところまでは君たちも知っていると思うけど」

 紅茶で喉を湿してから、秋谷は言葉を続ける。

「実家は北のU市で、家族は両親のみ、兄弟はいない。別段金持ちといわけでもないが特に貧乏ってわけでもない、いたって普通の家のようだよ。ああ、祖父母とは別に暮らしているみたいだね」

「そういや、ハセガワさんからおばあちゃんのお話を聞いたんすが、おばあちゃんって亡くなられてるんすか」

「父方の祖父母は健在みたいだから、それは母方の祖母じゃないかね。ハセガワ氏がそんなことを言ってたのかい?」

「ええ。おばあちゃんの形見をとっても大切にしていました。見せてもらったんすが、素敵な手鏡でしたよ」

「アサノ、随分あの鏡気に入ってたよな」

「気に入った、ってよりも……少し、気になることがあって」

 アサノがぽつりと言うと、「気になること?」と秋谷がすかさず聞いてきた。果たしてこれを言っていいのかどうか、と頭の中では一瞬躊躇いが生まれたものの、相手はどんな不思議も胡散臭い笑顔で受け入れる秋谷だ。気のせいでも何であっても、言うだけならタダだと思い切る。

「あの鏡を触った瞬間、変なイメージを見たんすよ……ええと、上手く言えねんすが」

 あの瞬間に感じたものを、言葉にするのは難しい。それが、事実かどうかもわからない、アサノの錯覚とも思える現象であったのだから、尚更だ。

 だが、秋谷と小林はそんなあやふやなアサノの言葉を笑い飛ばすでもなく聞いて……やがて小林が小さな溜息と共に口を開いた。

「マジか。それ、何で早く言わなかった」

「や、気のせいかなーと思っちゃって。ほら、あたしいつも起きてるのに変な夢見たりしますし」

「気のせいじゃねえっていつも言ってんじゃねえか、そろそろお前さんは自分の能力を自覚してくれ」

 自覚、と言われても。アサノは小林のちぐはぐな色をした瞳を見るともなしに眺めながら、頬を膨らませる。

 例えば、電気を起こしたり、傷を癒したりするような能力であれば、他の人の目にもそれが「不思議な能力」であることはわかる。だがアサノの能力の本質は『感じ取る』ことだ。全てがアサノの主観でのみ捉えられる事象である以上、他人にそれを正しく理解してもらうことは難しい。

 そして、その主観が他人から見て「正しい」ものであるかどうかの物差しは、アサノ自身持ち合わせてはいないのだ。何しろ、アサノにとっては他人から見たら「不思議な」ものであるらしい視界が当たり前なのだから。

 だが、小林はそんなアサノの思いを知ってか知らずか、早口に続ける。

「いいか、わかってるたあ思うが、お前さんの能力である歪曲視は、世界と世界の境界線――歪曲を越えた部分を知覚するってことだ。特に、お前の能力は単に歪曲の先にいる歪神を視ることだけに留まらねえ。もっとミクロな『世界』……自己と他者の境界を越えるってことがどれだけ重大な能力かわかるか? まだ自覚してねえだろ。

 あの時お前さんが手鏡を通して視たイメージが、もしかしたらコズエにとって重要なもんかもしれねえんだ。だからお前は……」

「まあまあ、タツミくん。アサノくんは君とはものの感じ方が全く違うし、その事実を知ったのもつい最近のこと、戸惑うのも当然だろう。そうきつい言い方をすることもないじゃないか」

「や、俺様は別に……ってえ……」

 言ってアサノに目を戻した小林は、一瞬複雑な表情を浮かべたかと思うと、素直に頭を下げた。

「すまん。どうも気が立っていけねえ。自覚がねえのは俺も一緒だな」

「あ、そ、その、気にしてねっすから。大丈夫っす」

 慌てて手を振る。自分で自分の顔を見ることが出来ない以上、小林にどんな思いをさせたのかはわからなかったが……きっと、小林が見てわかる程度には傷ついた顔をしていたのだろう、と察することは出来た。

 小林に悪気がないのはアサノとてわかっている。ただ、どうしても彼の切り込み方は常に真っ直ぐかつ鋭く、ふにゃふにゃな精神を持つアサノにとっては、苛烈に感じられてしまう方が多い。

 それは自分があまりにも浮ついた意識であることを、真っ向から突きつけられているようでもあったから。

 自覚。そうだ、やはり自覚が足らないのだろう。自分が、不思議な能力を持っているという自覚。この視界が、誰とも違うものであって……それでいて全てが決して幻ではなく誰の目にも留まらないだけの『事実』である、という認識。

 そんな『事実』に意味があるのか? あるのだろう。きっと。本当に?

 ぐるぐる、頭の中に回り始める堂々巡りの思考を断ち切ったのは、秋谷の言葉だった。

「難しく考えることはないさ、アサノくん。君の見ているものが正しいか間違っているかを問うのはナンセンス、突き詰めてしまえば君の世界は君だけのものなんだからね」

「アキヤさん……」

 その言葉の全てに納得ができるわけではない。けれど、そのどこか猫を思わせる声を聞いていると、不思議と心が落ち着いてくる。

「けれど、そうだね。私も君の見たものが気になるんだ。タツミくんの言う通り、その手鏡が彼女の大切にしているものなら……君が見たイメージは、何かしらの手がかりになるかもしれない」

「それは、ハセガワさんについて?」

「そして、ハセガワ氏に付きまとうストーカーについて、さ」

 秋谷は紅茶のカップをソーサーの上に置き、その水面を覗き込む。アサノもついつられるように自分のカップを覗き込む。ミルクも砂糖も入っていない赤い液体は、アサノの間抜け面をありのままに映し込んでいる。

「特に鏡というものは、古くからプラスにもマイナスにも強い力を持つアイテムさ。日本の神器の一つは鏡だし、白雪姫の継母は魔法の鏡のせいで灼熱の舞踏を披露する」

「……あの、そういう話じゃねえっすよね、白雪姫って」

「鏡がああも正直でなかったら、それなりに平和だったと思うけどねえ」

 一理ある、のだろうか。

 秋谷の論理は時々妙な飛躍を見せる。その飛躍が、言葉遊びを好むアサノにとっては心地よかったりもするのだが……そういう言葉遊びに興味がないのか、小林は難しい顔をして秋谷を睨んでいる。

 単に目つきが悪いからそう見えるだけかもしれない。

「でも、鏡というのは常に正直だ。だから人間にとっては時に厳しい存在なんだろうね」

 ドキリ、とした。その「厳しさ」は、先ほどの小林の言葉に感じた鋭さに近しいものであるような気がして。

「ま、とにかくアサノくん、君が見たイメージについて、覚えているだけでいいんだ、もう少し詳しく教えてもらえるかな」

「は、はい。ちょっと待ってくださいね」

 目を閉じる。一度過ぎ去ったイメージをもう一度再現することは出来ないが、記憶の奥に散らばってしまったイメージの欠片を、出来る限り己から捏造しないようにかき集める。わからないことはわからないままに。わかることだけを、言語化するために。

 音のイメージはどのようなものだった? 甲高い、何かが擦れるような。不快な音。だが決して知らない音ではなかった。そうだ、あれは……

「触った瞬間に聞こえたのは、タイヤの、音」

 タイヤの? と小林がアサノの言葉を鸚鵡返しにする。

「急ブレーキをかけた車の音に似てました。それと、目に飛び込んできた、強烈な光」

「ヘッドライト……交通事故か?」

 それはわからない、とアサノは首を横に振る。物事を思い出すときは下手に解釈するな、というのは副所長の教えだ。記憶に無理やり意味を与えようとすると、それだけで記憶は歪むものだ。

 秋谷も下手な推測は避けたのか、「なるほど」と答えるだけで、それ以上を追及しようとはしなかった。

「判断は難しいが、参考にさせてもらうよ。他には何も見ていないんだね」

「はい……多分」

 最低でも、アサノの記憶にはない。小林は顎に手を当てたまま何かを考え込んでいるようで、うんともすんとも言わなかった。こうなった小林を邪魔するのは悪いので、話を先に進めることにする。

「他に、アキヤさんの方でわかってることはありますか?」

「いいや、まだ大したことはわかってないよ。ただ、のんびり調べるには少々危うい状況だってことはわかったからね、少しばかり頑張らせてもらうよ」

 言葉とは対照的に、秋谷の態度はのんびりとしたものだ。それがまた小林を苛立たせる要因でもあるのだろうなあ、とアサノは無表情ながら焦りのオーラを漂わせる小林を横目で見る。

 アンダンテで我が道を行く秋谷と、アレグロどころかプレストの勢いで己が道を駆け抜ける小林はどうも波長が合わない。大体秋谷と同じようなテンポで動いているアサノから見ると、小林が一方的に秋谷を苦手としていて、秋谷はそれを理解した上でからかっている、といった調子だが。

 まあ、人の縁というのは苦手であろうとなかなか切れないものであり、また小林にとっても切りたい縁ではないはずで。なかなか人間関係というものは難しい、と他人事のように思いながら、アサノはクッキーを口に放り込む。

 秋谷はにやにやと笑いながらしばし小林と睨み合っていたが、不意にぽんと手を叩いて停滞した空気を追い払ってみせた。

「ああ、そうそう。あと依頼人のタナカ氏についてもちょいと調べてみた」

 こいつはここでは言えないツテなんだがね、と言い置いて秋谷はテーブルの上のクッキーを摘む。

「今まで見たことない顔だなあと思っていたが、本来はこの辺を縄張りにしている代行者じゃないみたいだ」

「っつか、この辺を縄張りにしてる代行者の顔を大体知ってるシズカさんが怖えっすよ俺」

 小林のもっともすぎるツッコミも「はは」と軽く受け流してしまった秋谷は、口の中に放り込んだクッキーを咀嚼し、飲み込んでから言った。

「ただね、ある異能がらみの事件を追って、『ロ班』の代行者がこの町に来ているっていう情報が手に入ったのさ。その事件自体は解決したみたいだけど、滞在は続けているらしい」

「げ、『ロ班』っつと、典型的な荒事屋じゃねえすか」

 アサノは二人の喋っていることがよくわからず、クッキーをもぐもぐしながら首を傾げてしまう。すると、秋谷もアサノが理解していないことに気づいたのか、紅茶を一口含んでから唇を開く。

「異能府はイロハの名がつけられた班で分けられているんだが、その中でも『ロ班』というのは少々変わった立ち位置でね。彼らは『異能狩りの異能』なのさ」

「異能……ってことは、その人たちも不思議な力が使えるってことっすか」

「そう。毒をもって毒を制す、ってことで、強大な力を持つ異能に対抗できるような精鋭揃いさ。ただし、他の班とはそりが合わないらしいけどねえ」

 それは、何となくわかるような気がした。

 異能でない以上詳しい事情はわからないし知るべきでもないとはいえ、異能府と呼ばれる組織が異能を忌み嫌い、隠そうとしていることくらいはアサノも理解している。秋谷の下で働いていれば、嫌でも異能と異能府の争いは目に入るものだ。

 その中で、忌み嫌っているはずの異能を振るい、組織に貢献する者たちへの感情は、複雑なものであるに違いない。それはきっと『ロ班』に所属する異能たち自身も。

「しかし、『ロ班』の代行者なあ。どういう奴ってとこまでわかってるんすか?」

 つられるようにクッキーに手を伸ばしていた小林が問うた。秋谷はそこに来て、初めて少しだけ悩むような素振りを見せたのであった。

「いやねえ、これがなかなか掴めなくて苦労してるのさ」

 言って、秋谷はクッキーの粉と砂糖のついたままの手で、テーブルの横に置いておいたファイルの中から一枚の書類を引き抜く。「手くらい拭いてくださいよ」と嫌な顔をする小林に構わず、顔の前でひらひらさせる。

「どうも代行者番号は『ロの七一』、異能としての暗号名は『アラン・スミシー』らしいんだけどね」

「『アラン・スミシー』? どっかで聞いた、ような」

 アサノは名前に引っかかるものを感じて、首を捻る。一体どこで聞いたのか。やけに親しみのある名前である気もするが……あれこれ考えているうちに、ようやくその正体に思い至った。

「伝説の渡り鳥! じゃなくて『誰かさん』とか『匿名』を意味する名前でしたっけ。確か、映画で監督さんが名前を隠すときに使いますよね」

「おや、よく知ってるねアサノくん」

「ゲーム知識っす」

「ゲーム知識、馬鹿にならねえなあ……」

 小林の感嘆はとりあえず横において。

「でも『誰かさん』なんて、ちょっと不気味なコードネームっすね」

 アサノが素直な感想を言葉にすると、秋谷は「その通り」と言ってすうと目を細めた。

「実のところ、その『アラン・スミシー』とやらがタナカ氏であるという確証はないんだ。他の代行者連中と違って目撃情報は皆無。基本はデスクワーク専門の中間管理職だという噂だけど、真実は今のところ闇の中だ」

「い、異能府にもデスクワークってあるんですか?」

「無いってことはねえだろ。むしろ中間管理職の方が大変そうだよな、ああいう組織って。色んなとこに手続き取って、世間様の目を誤魔化して、って感じじゃねえの」

 俺様はそんな仕事嫌だけど、と付け加えて小林は手に取ったクッキーを食べるどころか模様に合わせて解体し始める。縁日の「型抜き」を思わせる指の動きをつい目で追ってしまいながら、アサノは秋谷に言う。

「異能狩りの異能なのにデスクワークってのも面白いっすね」

「まあ、異能もピンキリだからねえ。力が弱いのか、そもそも荒事向きの異能じゃないのかもしれない。暗号名からして後者の可能性が高いかな」

 そういう考え方もあるのか。異能の業界もなかなかに奥が深い……アサノは思いながら、段々と芸術的な形に変形していく小林のクッキーから目が離せなかった。それでいて、淡々とクッキーの解体を続けながらも小林の意識は秋谷にあるらしく、指先の動きを止めないままに言った。

「とにかく、通称以外の全てが明らかになってない、ってこったな」

「そ。ここまで手がかりが少ないのも珍しいよ。単なる引きこもりなのか、それとも意図的に隠蔽しているのか」

 引きこもり、というのはもちろん表舞台に出てこない、という比喩なのだろうが……何とはなしに身につまされる表現だ。

「どちらにせよ、仮にタナカ氏が『アラン・スミシー』だとすれば、足跡を残さないことで知られる代行者が、わざわざ存在を知られる危険を冒してまで私のとこに依頼をしに来たのか。その理由が俄然気になるのさ」

「理由、聞いてないんすか?」

 小林の鋭い語調の問いに、確かに田中氏の目的は一言も語られていなかったことにアサノも一拍遅れて気づいた。秋谷は「そうだよ」としれっとしたもので、重ねて言い募ろうとばかりに身を乗り出す小林を制して言った。

「そこは私が仕事をする上では聞く必要のない話さ。それに、ハセガワ氏とタナカ氏、そしてハセガワ氏を追う男とやらを調べればわかることだしね」

「わかる、って根拠はどこにあるんですか」

「ないよ」

「シーズーカーさーん」

 小林は脱力してテーブルの上に突っ伏す。小林をニヤニヤ笑いながら見下ろしながら秋谷は歌うように言う。

「強いて言えば探偵の勘ってやつさ。経験則、と言い代えてもいい。タツミくんだって、理論以上に千年間で培った経験に頼って動いているだろう?」

「そりゃ否定しませんが、そんなにシズカさん探偵らしいことしてましたっけ? この事務所に閑古鳥何羽いるのかわからねえってのに」

「ははは、痛いとこを突かれたなあ」

 秋谷はけたけたと笑う。からかわれているとでも思ったのだろう、小林はいつになく厳しい視線で秋谷を睨む。だが秋谷はさっぱり動じることもなく、ひらりと手を振った。

「私がそんなに信用できないかい、タツミくん?」

 小林はぐ、と言葉を呑んだ。答えを探し求めようとしても、赤いフレームの眼鏡越しにチェシャー・キャットの笑みで見つめられていれば、虚空に視線を逃すことも出来ない……小林はそういう不器用な男だ。きっとアサノなら、すぐにでもその視線から逃げ出してしまっただろうけど。

 やがて、小林は観念したように肩を落として言った。

「や、信用はしてます。単に、俺自身が納得しきれてねえだけです」

「タツミくんのその素直さが好ましいよ」

 くすくすと秋谷は心底嬉しそうに笑った。小林はしばし眉を寄せたまま黙り込んでいたが、やがて視線を逸らして言う。

「ま、状況はわかりました。それじゃ、俺様はコズエ拾ってそのまま大学行くんで、何か進展あったら連絡ください」

「心得た。そちらも、何かあればすぐに言ってくれたまえ。出来る限りは協力するさ」

 丁寧に手を拭いた小林が席を立とうとした、その時だった。

 ――ああ、あと。

 そう付け加えた秋谷は、小林に向かっていつになく穏やかな笑みを浮かべて言った。

「タツミくん、食べ物で遊ぶのは感心しないよ」

「……すみません。つい癖で」

 皿の上に置かれたクッキーは、いつの間にやら綺麗な船の形にくり抜かれていた。

 

 

 長谷川、田中、そして長谷川を狙うストーカー。

 果たして、この三者の間にどのような関係があるのだろう。明らかに犯罪臭のするストーカーもさることながら、わざわざ探偵の秋谷に頼んで長谷川のことを知ろうとする田中の意図も気になる。探偵の手伝いである自分が言うのも何だが、やっていることはストーカーとそうそう変わらないではないか。

 そこまで知りたいというなら、直接本人に当たったっていいではないか。いや、それができないから秋谷に頼むのか。できない理由がある、というならばその理由は何だろう。異能府の代行者だから? 異能だから?

 考えたところで答えなど出ない、わかっていながらも考えずにはいられないのだ。

 鯨の飛ぶ空の下、アサノは予備校への道を浮かない顔をしてぽてぽてと歩く。浮かない顔の理由は堂々巡りする思考でなく、これから一番苦手な英作文の授業を受けなければならない、というのが大きいのだが。

 とはいえ、授業までは少し時間がある。自習室は空いているだろうか……徐々に思考が探偵事務所のアルバイトから浪人生のそれに変わろうとしていたその時、前から歩いてきた男と目が合った。

 元々人の顔を覚えるのを極端に苦手とするアサノのことだ、顔で判断できたわけではない。ただ、細い体に纏った灰色のスーツと、何とも不釣合いな大きなボストンバッグに見覚えがあって、思わず足を止めてしまう。

 そして、男の方もアサノに気づいたのだろう、早足に近づいてきて軽く会釈してきた。

「ああ、アサノさん、でよろしかったですか」

「はい。その……昨日事務所でお会いした、タナカさんですよね」

 反射的に頭を下げるアサノに対し、はい、と柔和な笑みを浮かべて田中は頷いた。

 昨日は慌てていてよくよく顔を見ていなかったのだが、本当に人のよさそうな顔をしている。誰が見ても同じような感想を抱くに違いない、そう確信させるだけの穏やかさがそこにあった。

 その反面、特徴らしい特徴が見当たらない顔だとも思う。正直、スーツ姿でなければ今のように顔を合わせても絶対に声をかけられるまで……もしくは声をかけられても誰かわからないに違いない。

「……アサノさん?」

 声をかけられて、まじまじと田中の顔を観察していた自分に気づき、慌てて勢いよく頭を下げる。

「ご、ごめんなさい、ぼーっとしてました。あと、昨日はお邪魔してしまって申し訳ありません」

「全く気にしていませんから、そう謝らないでください。それに、あなたのおかげでアキヤさんから、興味深いお話を聞くこともできました」

「アキヤさんから?」

 そういえば、秋谷が田中と何を話したのか、具体的なことは何も聞かされていなかったことに気づく。これだからアサノは抜けてるよな、という小林の声がどこかから聞こえた気もするが、小林も聞かなかったのだから同罪だと思うことにする。

 しかし、興味深い話というのは何だろう。あなたのおかげ、というからにはアサノに何か関係があるのだろうか。自分が異能府の代行者の興味を引くことなんて何一つないと思われた、の、だが。

 田中はふわふわと掴みどころのない笑みを深めて、アサノが思いもしなかったことを言い放った。

「はい。実は、そのことに関して少しあなたとお話がしたいと思っていたのです。今、お時間空いていますか?」

「へっ?」

 あまりに唐突な誘いに、アサノはとんでもなく間抜けな声を上げてしまった。上げてしまってから、そわそわと辺りを見回してしまう。ここに小林でも秋谷でも通りがかってくれれば、気の利いたことの一つや二つ言ってくれそうなものだが、残念ながらこの場にはアサノ一人しかいない。

 いや、空に見慣れた鯨は泳いでいるけれど、鯨はアサノをどこか楽しそうに見下ろしているだけだ。

 世間の無情さを噛み締めていると、アサノの躊躇いをどう勘違いしたのか、田中はぽんと手を打っていたって明るい声で言った。

「あ、奢りますからお財布の心配は要りませんよ」

「そうじゃねっすよ!」

 思わず普段のノリで叫んでしまってから、慌てて「や、す、すみません」と謝罪するアサノ。とにかく混乱するばかりで何が正しいのかわからない。急に逃げるのは失礼であり、しかし素直に誘いを受けるのも、相手が異能府の代行者であり、何を考えているのかさっぱり理解できない以上避けたくて……

 そんなアサノに対し、田中はくつくつ笑って「こちらこそすみません」と言った。

「変な男のお誘いをほいほい受ける女性はいませんよね。しかも、あなたから見れば私は悪の秘密結社の怪人みたいなものですし」

 その言葉に、アサノはふと我に返った。何となく、田中の言葉に引っかかるものがあったのだ。

「あのう……自分で悪とか言っちゃっていいんすか? 一応いのーふって国の直下組織だって聞きましたけど」

「やってることが正義と程遠いって自覚はありますよ。時には自分でも悪役だろこれ、って思うことありますしね。……主義主張は一貫してると思いますけど」

 田中はちょっとばかりシニカルな笑みを浮かべると、大げさに肩を竦めた。まさかこんなことを言われるとは思わなくて、アサノは素直に「意外です」と言葉に出していた。

「いのーふの人って、もっとお堅いのかと思ってました」

 お堅い、というのは随分と柔らかい表現で、アサノによる異能府のイメージは「異能はサーチアンドデストロイ」の集団であり、その役割を決して疑わない連中が、灰色のスーツを纏う代行者であると思い込んでいた。

 田中はアサノの言外のイメージを知ってか知らずか、心底おかしそうに笑って言った。

「あなたの思うとおり、話の通じない連中が大半ですよ。うちの班がちょっと特殊なだけです」

 うちの班、という言い方でアサノも思い出した。秋谷曰く、田中と思しき人物は、異能狩りの異能たちで結成された班の一員である、と。なるほど、それならば納得できるような、できないような。

「とにかく、少しだけ付き合っていただけませんか? 決して悪いようにはしないと約束します。それに」

「それに?」

「あなたに手を出せば、あの事務所の能力者たちが黙っていないでしょう。私、そんな薮蛇嫌ですよ」

 確かにそうかも、とアサノは思わず苦笑する。秋谷静の探偵事務所には、行き場のない何人かの能力者が居候している。その彼らを刺激することは、異能府の代行者として……仮にそんな肩書きが無くとも避けたいはずだ。

 それならば、少しは付き合ってもよいかもしれない。それに、田中との話の中で、何かしら今回の依頼に関する手がかりがつかめるかもしれない。そう考えてみれば悪くはない状況ではある。

「あの、あたし、四時から授業なんでそれまでになりますけど」

「十分ですよ。それでは、どこのお店に入りますか? 本来なら私がご案内すべきなのですが、何分この辺りに不慣れでして……」

 アサノの答えを肯定と受け取ったのであろう田中は、歩き出しながらもちょっとばかり困った顔をした。そういえば、秋谷の情報によれば、異能府の仕事で一時的にこの辺に派遣されている代行者かもしれない、という話だった。

「あー、それじゃ、駅ビルの中とかでいいすかね」

「ええ、アサノさんにお任せします」

 アサノの提案に笑顔で応じる田中に、アサノは気を許してはならないと思いながらも笑顔を返してしまう。そこはかとない胡散臭さはあるが、何となく、そう悪い人間には思えなかったのだ。

 駅ビルの中の喫茶店に入り、適当な飲み物を頼んだところで、田中は名刺を取り出してアサノに手渡した。

「改めて自己紹介させていただきますね。私はタナカ・フミノリと申します。建前上は営業職ということになってますが、ご存知のとおり組織の代行者として活動しています」

 渡された名刺には「田中文規」という名前とアサノも知っている商社の名前が書かれていた。が、これはどこまでも表向きの肩書きなのだろう。実際に表向きの仕事をしているのかどうかはわからないが……営業、というのは何となく、お似合いだと思う。

 しばしじっと名刺に見入っていたが、自分が名乗っていないことに気づいて慌てて顔を上げた。

「あ、アサノです。カタギリ・アサノ。アキヤさんのとこでバイトさせてもらってますが、本当は浪人生っす」

「アサノさん……お名前なのですね。すみません、苗字だとばかり思っていまして」

「アキヤさんは名前で紹介しますし、あたしも名前で名乗っちゃう癖があるんすよね。だからアサノでいいですよ」

 そうですか、と微笑んだ田中は運ばれてきた珈琲に砂糖とミルクをたっぷりと入れてかき混ぜる。そんなにたくさん入れて甘ったるくないのだろうか、と思いながら、アサノはストレートのままの紅茶を啜りながら田中の出方を待った。

 田中は甘そうな珈琲に口をつけ、小さく息を付いてから話を切り出してきた。

「アサノさんには、来訪者……いえ、あなた方の言葉では歪神というのでしたか。そのような『目には見えない存在』を見る能力があると伺いました」

「歪曲視っすね。あたし、まだまだ見習いっすけど。いのーふさんも、歪曲視のことはご存知なのですか?」

「知識としては知らされています。しかし、我々組織はこの世ならざるものに関しては不干渉、という立場を取っています。故に我々としては『この世ならざる存在である来訪者を知覚し、交渉することができる人間が存在している』という程度の認識ですね」

 それはそれで随分曖昧な認識だ、と思うが、見えないものを説明することの難しさはアサノが一番よく知っている。多分、異能府の大多数の人間は、歪曲視や来訪者……歪神というものがぴんと来ないに違いない。

「もちろん、私も歪神については知らないことの方が多いのです。だからこそ、歪曲視であるあなたにお伺いしたい」

「あたしに、っすか?」

「はい。その……」

 初めて田中は露骨な躊躇いを見せた。一体、どんなことを聞かれるのだろう、と背筋を伸ばして待っていたアサノだったが、

「死んだ人間が化けて出る、ということは現実問題としてありえるのでしょうか」

「……は?」

 思わぬ田中の問いに、間抜けな声を上げることしか出来なかった。

「あ、いえ、ええと……ある特定の人物が、肉体を失っていながら生前と同じ姿で現れる、ということはあるのでしょうか。要するに、幽霊、と思ってくだされば結構です」

「や、それはわかりましたけど」

「守秘義務等があるのでしたら、無理に答えていただかなくても結構ですよ」

「うちらはその辺いい加減なんで、答えるのは問題ないんすが――」

 アサノはしばし、どう説明しようか悩んだ挙句に言った。

「一応ありえますよ。でも、あたしみたいな歪曲視以外に見える、ってなるとものすごく珍しいケースだったと思います」

 アサノにとっても、歪神に関する知識は習ったばかりで、どこまで咀嚼できているかは怪しかったが、出来る限りわかりやすく説明しようと考え考え言葉にする。

「肉体を失った魂って、この世界とは既に別の場所に存在してて、ここに干渉するためにはものすごい労力が要るそうです。それこそ、歪曲視に取り付いたりすれば別ですけど」

「……普通の人間に取り付くことはないんですか」

「多かれ少なかれ歪曲視の才能がある相手じゃないと、平凡な幽霊さんは触れることも出来ないんです。歪曲視っていうのは単なる知覚能力じゃなくて、他の世界とここを繋ぐ入出力のインタフェースみたいなもんなんですよね」

 インタフェース。本来ならば触れることの出来ない場所に触れるための仲介役。それが歪曲視と呼ばれる能力であり、例えばアサノという存在なのだ。

「インタフェース……ですか。それは面白い表現ですね」

「えへへ。師匠の受け売りですけど」

 にへら、とアサノは自慢げに笑う。笑ってから、少しだけ真面目な顔を作って言った。

「なんで、そのままの姿で現れる幽霊さんってのは、本当にレアってことになります。全くいないとは言いませんが、それは可能性として否定できないだけの話ですね」

「そう、ですか……」

 田中は折り曲げた左手の人差し指を唇に当て、アサノの言葉をじっくり考えているようだった。決して歪神に詳しいわけでないアサノは、もしかすると間違ったことを伝えてしまったかもしれない、といても立ってもいられない気分で田中を見ていたが、やがて田中は視線を上げて言った。

「それでは質問を変えます。アサノさんは『ドッペルゲンガー』をご存知ですか?」

「ど、ドッペルゲンガー?」

 これまた唐突な問いに、つい突拍子もない声を上げてしまう。

 ご存じないですか、と再度問われてアサノは慌てて首を横に振った。決して知らないというわけではない。だが、それは実在する歪神として知っているというわけでもない。あくまでゲーム知識というやつだ。

 ドッペルゲンガー。

 相手の外見、時には記憶までそっくりそのままコピーするモンスターの名前、だったはずである。都市伝説のようなもので、自分のドッペルゲンガーを見た者は、それから数日のうちに命を落とすとまで言われている。

 アサノはそのような能力を持つ歪神を知らない。だが、仮にドッペルゲンガーが存在し、誰かの姿を取っていたとしても、それが人の目に見えなければ意味がない……そう思う。

 いわゆる『幽霊』もそうだが、歪神のほとんどは「人の目に触れない」ものだ。世間一般に伝わるあらゆる怪奇現象や都市伝説というやつは、大概その場に自覚のない歪曲視がいて、彼らを媒介にして広まるものというのが定説である。歪曲視がいなければ、ほとんどの歪神は現実に干渉できないのだから。

 そして歪曲視を持たない誰の目にも映るような歪神はそのほとんどが強大な力を持っているか、強大でなくとも特殊な能力の持ち主であるとされ、歪曲視の組織でマークされていると聞いたことがある。

 もちろん、アサノが知らないだけで実際には存在するのかもしれないが……

「うー、あたしはまだ新米で色々疎くてですねえ。そういうお話は、コバヤシさんのが詳しいかもです。今まで確認された歪神の生態を記録する『記録者』さんなんですけどね」

「コバヤシ……ああ、コバヤシ・タツミさんですか? 金髪碧眼の」

「あ、ご存知ですか」

「組織でも『強大な力を持つ元来訪者』ということで要注意人物に挙げられています。来訪者という定義である以上我々が直接手を出すことはできないのですが、彼の方から我々の領域に介入してくることも多いので」

「ご、ごめんなさい、コバヤシさんて極端なお節介焼きさんなんです」

 お節介焼きさん、という表現がおかしかったのか、田中はくつくつと笑い声を立てた。

「私も、一度お会いしてみたいものです」

「多分、近くのスーパーを覗けばいると思います。特に水曜日は卵の日とかで、おばさんたちと卵の取り合いしてるのが目撃されてるそうですし」

「……ず、随分庶民的な来訪者ですねえ、それは」

 それは、全くもって否定できない。普段の赤貧に喘ぐ姿を見ていると、尚更。見れば見るほど本当にかつては強大な力を持った歪神だったのだろうか、と疑いたくなる。

「とにかく、後でコバヤシさんにも聞いてみますけど……その、幽霊とかドッペルゲンガーって、今回の依頼に関係あるのです? って、あたしが聞くのも何ですけど」

 もしかすると、これは自分が踏み込んではいけないものだろうか。アサノは言ってから後悔する。秋谷すら、田中の本当の目的は知らされていないのだ。田中が正しい答えをよこしてくれるはずがない……と思っていたが、田中はアサノの質問を拒絶するでもなく、笑顔の中にも戸惑いや憂いを含んだ複雑な表情を浮かべて唇を開いた。

「わからないのです。私には何も」

「わからない?」

 アサノはついつい田中の言葉を繰り返してしまう。その「わからない」という言葉がどこにかかっているのか、さっぱりわからなかったからだ。田中もアサノが理解していないのは承知していたのだろう、曖昧な苦笑を浮かべる。

「すみません。これ以上は、私の口からは上手く説明できそうにありません。とにかく、後はアキヤ氏の調査を待とうと思います」

「そうっすか。その……あんまお役に立てず申し訳ない」

「いいえ。歪曲視という視点について、とても勉強になりました。ありがとうございます」

 田中はあくまで慇懃な姿勢を崩さない。こういう扱いに慣れていないアサノは、こそばゆさを感じて体を小さく震わせてしまう。

「それでは、私はこれで――」

「あ、その前に、ちょっとだけこっちから質問させてもらってもいいっすか?」

 話を切り上げようとした田中に慌てて声をかける。不思議そうな顔をする田中に、顔を寄せて小声で問うた。

「こ、答えられなきゃそれでいいんすけど。タナカさんて、異能でもあるんすよね? その……異能狩りの異能、とアキヤさんから伺ったのですが」

 確証はない、と秋谷は言っていた。その「確証」をここで得られれば、秋谷の助けにもなるに違いない。それに、何よりもこの田中という人物への興味が生まれていた。

 相手は異能府の代行者、はぐらかされてもおかしくない。それでもはぐらかされた、という事実がわかればそれでいい、くらいのつもりでアサノは田中の言葉を待つ。すると、田中は「はは」と笑って言った。

「既にそこまで調べられていたとは。流石は組織も恐れる探偵『チェシャー・キャット』ですね」

 肯定と取れる言葉を放ってから、田中は軽く肩を竦める。

「と言っても、私は大した能力を持たない落ちこぼれですので、普段は引き篭ってばかりですよ。痛いの嫌いですしね」

「大した……ってどんな異能なんすか?」

「それは秘密です」

 薄く笑って左手の人差し指を唇の前に立てる田中。それ、どこかで聞いたような台詞だなあ、とアサノが思っていると、田中はおかしそうに笑いながら付け加えた。

「仕事のことを喋りすぎると、偉い人に怒られちゃいます」

「それにしちゃあ随分とおしゃべりだと思いますけどね」

 これは皮肉でも何でもなく、アサノの素直な感想だ。田中の態度は、何でもかんでも秘密の闇の中に隠すという異能府のイメージとはかけ離れている。だが、アサノの言葉に対して田中は「だから怒られてばかりですよ」と笑うだけだった。

 本当は、もう少しばかり、何に答えられて何を隠そうとするのか、踏み込んでみたいところではあったが……

「お時間、大丈夫ですか?」

 その言葉につられるように店の時計を見ると、既に四時を指していた。アサノは慌てて鞄を手に立ち上がった。

「やばっ! あ、えと、それじゃこれで失礼します!」

「はい。お付き合いくださりありがとうございます」

「や、こちらこそ、何かタナカさんとお話できてよかったっす」

 言ってから、飲んだ紅茶の代金を払おうとすると、田中にやんわりと制された。

「奢ると約束しましたから。質問に答えていただいた対価ということで」

「あ……そうすか。ありがとございます」

 頭を下げて、アサノはそのまま店を出て行こうとしたが、扉のところで立ち止まって振り向いてみると、田中はアサノに向かって笑顔でひらひらと手を振っていた。アサノも軽く手を振り返して、店を出た。

 同じように予備校に向かうと思しき姿がちらほら見える道を早足に歩きながら、アサノはつらつらと考える。

 果たして、田中はアサノに何を求めていたのだろうか。アサノが歪曲視だと知って接触してきたのは確かだが、アサノの答えで満足したのだろうか。そうではないだろう、アサノはほとんど答えていないも同然だ。

 ただ、本当に聞きたかったことは田中自身にもわかっていないように見えた。結局、判断する材料は田中が与えてくれた二つのキーワードだけ。

 幽霊、それにドッペルゲンガー。

 それが、長谷川梢を調査するという依頼に何の関係があるというのか。

 ……関係が、ある?

 アサノの中で、何かが繋がりそうな気がした。だが、直接繋げるにしてはまだ、何かが決定的に足らない。アサノにはそれが「何」なのかがさっぱり見当もつかなかった。

「これは……やっぱアキヤさんとコバヤシさんに相談、っすかねえ……」

 小さな声で呟いて、アサノは予備校の扉をくぐった。

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