されどボールペン
「じゃあ行って来ますから。明日の夕方までには帰って来ますからね。ああ、台風が近付いている様だから気を付けて下さいよ。
寝る前にはガスの元栓をしっかり締めておいた方がいいわよ。鍵もちゃんと掛けて、それから……」
「分った、分った、じゃあな」
話をごく短い言葉で遮って、山路幸造は妻の由香里を送り出した。
由香里の運転する軽自動車が走り始めるや否や、家に入って台所に行き、先ずやかんに適量の水を入れて、ガスコンロの上に置き、火を点ける。
直ぐ二階にある自称『書斎』に行く。予め用意しておいた具の沢山入った大型のカップめんを持って台所に戻る。
お湯が沸騰するとコンロの火を止め、カップめんにお湯を注ぐ。それを持って居間に行き、テレビを見ながら出来上るのを待った。出来上ると早速、これも隠しておいた割り箸を机の引き出しから取り出して使い、
「ふう、ふう」
しながらすする。
「うーん、美味い!」
誰もいない気安さからか、結構大きな声が出せる。
由香里は長期に隣町の町立病院に入院している彼女の母に付き添う為に、土曜日の晩だけ家を空ける。普段は隣町に住む彼女の兄の嫁が付き添っている。
時々は休みが欲しいという事で、週に一度だけ交代する事にしていた。そんな事がここ数ヶ月続いている。妻が一晩でも家を空ける事に若い頃は不満だったが、
『口うるさい女房が居なくてせいせいする』
今ではそんな風に感じていた。
「何と言っても健康が第一よ。その為には私の作った料理が一番良いのよ」
そう言い続ける彼女の前では、カップめんさえうかつに食べられない。留守の間に食べるようにと、ちゃんと三食分作って冷蔵庫に入れてある。しかしカップめんの大好きな幸造は密かに買って『書斎』に隠している。
カップめんを一滴残さず汁も飲み干して食べ終わると、容器を幾つかに切って折畳み、割り箸も幾つかに折って、小さめのスーパーの袋にぎゅうぎゅうに押し潰して入れる。それとは判らない状態にして屑入れに捨てて証拠隠滅完了である。
一食分余る勘定になるが、大食らいの幸造にとって、妻が帰って来るまでの間に、三食分綺麗に平らげるのに何の問題も無かった。
「多かれ少なかれ台風は来るのか。しかし勢力が衰えているから大した事は無さそうだな……」
幸造はテレビの台風情報を仕入れてから二階の『書斎』に行った。趣味で作詞の真似事やエッセー風な事、俳句や川柳の様なものなどを、ノートにボールペンであれこれ書いていた。
最近特に熱心なのは、この地方で行われる「素人文芸大賞コンクール」に、作品を応募しようと思っているからである。色々な部門があるが彼は殆どの部門を対象にしている。
『下手な鉄砲も数打ちゃ当る!』
を、実行するつもりなのだ。思い付いた事を手当り次第に書いていたので、ノートもボールペンも消費が早い。
「ああーっ! ここで切れちゃったか!」
思わずそんな声が出てしまった。それが最後の一本である事は、十分知っていたのに、うっかりボールペンを使い切ってしまったのだ。
『仕事帰りにでも何処かの店で買えばいいさ』
数週間前からそう思っていた。車で通勤していたので、寄り道して買ってくる事は容易い事である。しかし何時も家に帰って来てから気が付くのだ。
『しまった、また忘れた! よーし、明日こそ忘れずに買って来るぞ!』
ところがまた次の日も同じ様に忘れてしまう。仕事が休みの土、日はそもそもボールペンの事など頭に無い。
仕事用のボールペンは会社に置いてあるので、何と無く安心してしまう。仕事に必要ならば絶対だが、趣味用では「忘れた」で済むからである。
そうこうしている内に、彼の家には一本のボールペンも無くなった。いや、赤のボールペンなら居間に何本か置いてある。
買ったのではなく、何かの景品に付いてきたものだったろう。もう十年以上前から、インスタントコーヒーの空き瓶に挿したままになっている。
仕方無しに赤のボールペン二本を持って「書斎」に戻った。一本はインクが固まっていて、全然使い物にならなかったので、屑入れにポイッと捨てた。そういう事もあろうかと二本持って来たのである。もう一本はスイスイ書ける。
『うん、これならいいぞ!』
暫く使っていたのだがどうにも落ち着かない。誰に見せる訳でもないので、インクの色が赤かろうが青かろうが構いはしない筈である。
しかしやはり違和感がある。ノートの全面が赤の文字で埋め尽くされると、目がチラチラして来てどうにも我慢出来なくなった。
「はあーっ、買って来るか。しょうがないなあ、たかがボールペンの一本や二本買うのに、わざわざ夜に出歩かなきゃならないとはな。台風も来てるっていうのに……」
ぶつぶつ言いながら家から最も近い、徒歩一、二分ほどの小さなスーパーに買いに行く。もう午後九時を過ぎている。
以前は午後八時に終っていたのだが、コンビニとの競争の為か去年辺りから、午後十時まで営業するようになった。こういう時には有難い。
山路幸造はある小さな会社の経理を担当している。一度リストラされて再雇用されていた。給与は大幅に減額されたが、仕事が無いよりはましである。
リストラの最中に妻の由香里は本格的にパート勤めを始めた。多分その頃から口うるさくなって来たのだろう。稼ぎの無い男には強い反撃は出来なかった。
ただ二人の息子達はタイミング良く就職し、独立して早々と家を出ていて手の掛らない状態だったので、何とか凌げている。
外に出てみると幸いにも雨は降っていなかったが、意外に風は強かった。『書斎』に居た時に風を殆ど感じなかったのは、風向きに因るものなのだろう。
流れの速い雲の合間から、時折月が見える。丁度満月に当っていた。暗い街灯よりも満月の方が遥かに辺りを見渡せる。
程なくスーパーの駐車場の辺りに差し掛かった。その右側にスーパーはあるが、駐車場の左側は大きな三叉路になっている。その上を黒い影が走って行った。
『今のは何だ?』
幸造は影の正体を知る為にスーパーを背にして満月の方を見た。低い空に浮かぶねずみ色のふわふわした塊の様な物が、左から右へ次から次へと流れて行く。その塊の様な物が、満月の光を受けて路上に影を作りながら流れていたのだ。
『煙突の煙? いや、そんな工場はこの付近には無い。それに煙だったら直ぐに消えてしまう。やっぱり雲だ!
……こんなに低い所を飛んで行く雲があるのか? 初めて見たな。うーむ、それにしても面白い!』
幸造は思いも掛けない光と影のショーにしばし見とれていた。もっと見ていたかったがポツリポツリと降り出して来たので慌ててスーパーに入った。
嵐の夜である。客は殆どいないだろうと思った。が、思ったよりは客が居る。嵐だろうと夜だろうと関係無く人は出歩く。
『こういう時代になったんだな。善いんだか、悪いんだか、ふうむ』
ちょっとした感慨にふけった幸造だったが、自分もその一人である事には気が付かなかった。
「ええと、ボールペン、ボールペン、……」
ここのスーパーでボールペンを買うのは初めてである。何時もはホームセンターで買っている。小声でボールペンと念じながら売り場を探した。
大きなスーパーだとこんな時には随分歩かなければならないのだが、小さなスーパーなので直ぐ見つかった。何種類かあって迷ったが、105円のノック式で、五本入りの奴が目に付いた。
『へえー、馬鹿に安いな! だけど聞いた事も無い様なメーカーだぞ、大丈夫かな?』
そう思いながらも、結局買ってしまった。
『まあ一本ぐらい駄目なのがあっても良いんじゃないか? 四本もあれば当分は持つんだし、損にはならないさ』
何故かそんな言い訳を自分にして、強くなり出した雨の中を足早に、それでも結構気分良く自宅の『書斎』に戻った。
早速ノートを開いて、恐らく自己満足でしかない、作詞やら何やらの続きを始めた。しかしやっぱり安物のボールペンは、何処まで行っても安物のボールペンでしかなかった。スラスラとは書けないのだ。かなり力を入れて書かないとインクが出てこない。
『別なのにしてみようか? ……ああ、やっぱり駄目だ!』
五本全部使ってみたが、書き味の良いものは一本も無かった。
『失敗した! 105円で二本の有名メーカーの奴にしておけば良かった! しかし書けない事は無いんだからな……』
ムカつく気持ちを抑えながら、その書き味の悪いボールペンを使い続けていたが、
『この最悪の道具を使い切るのに、あとどの位時間が掛るんだろう』
と思うと、何とも憂鬱である。インクの出が悪い分相当長持ちしそうだった。
ところが使い始めてから一時間ほどした頃に
「ブキッ!」
と、音がしてインクが全く出て来なくなった。何度か線を引いてみたが、幅一ミリほどの白い筋が出るだけである。ペン先を良く見ると案の定ボールが無くなっている。
「あーあ、最低だな!」
声に出して罵りながら、使い物にならなくなった黒のボールペンを、赤のボールペンの時と同様に、屑入にポイッと捨てた。
少し気になったのは取れてしまったボールの行方である。ノートの上を良く見ると、インクが盛り上がって固まりになっている所がある。
『ひょっとすればここかな?』
目を近付けて良く見ると、黒インクにまみれた小さな小さなステンレス製のボールがあった。指を汚さないようにティッシュで摘み上げ、ノートの白い部分に置いた。
余りに小さいので無くしてしまわない様に、慎重にやはりティッシュでインクを拭取り、親指と人差し指で摘んで、何時もの癖で左目に近付け、右目を瞑ってじっと見た。丁寧に拭いたので表面はつるつるで、ステンレスらしい光沢がある。
『完璧な球だ!』
幸造は感嘆した。勿論本当に完全ではあるまいが、肉眼では完璧な球としか思えない。
『しかしどうやってこんなに小さな球を作るんだ?』
一瞬、調べてみようかとも思ったが、どういう訳かおかしな衝動が走った。
「分ったって作れるもんか!」
と、強く否定したのである。
それは近付きつつある台風のせいなのか、一人だけで家に居るせいなのか、それとも満月のせいなのか。
ひょっとするとそれらが全て総合されて、普段とはかなり違う状況になっていたからなのか、全く別の考えが浮かんで来た。
『待てよそれならノートが作れるか? それなりの機械とかが無ければ作れないな。なら、ティッシュボックスはどうだ? この机は? パソコンは勿論駄目だし……』
そんな風に考えていくと、あれも作れない、これも作れないという事になって、結局何一つ作れない事に気が付いた。
奇妙な気分だった。部屋中、いやこの家の全てが、釘一本、紙切れ一枚すら自分ひとりの力だけでは作る事が出来ないのだ。
幸造は指で摘んだ芥子粒の様なボールを、左手でノートをめくって、その右側の中央に置いた。それからじっと考え始めた。
『俺は自分では作り出す事の出来ない物の中に、埋没して生きているんだな……』
奇妙な気分はずっと続いている。
台風の接近で風雨は激しさを増していた。強い風が吹くと築四十年以上の古い住宅は
「がたがたっ! ぎしぎしっ!」
引っ切り無しに、壊れてしまうのではないかと心配になる様な音を響かせた。
「ばち、ばち、ばち、ばち、ばちっ!」
大粒の雨が屋根を激しく叩く。二階に居るので、もろにその音が聞こえる。雨の量がもっと増えると、
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、どっ!」
大きな滝の直ぐ側にでも居る様な物凄い音に変わる。
台風の経験なら何度もある。しかし今日は何処か違う。自分では作れない物の森の中に居る様な錯覚に襲われる。何時もと全く変わらない部屋が、まるで別世界の様に思えた。
最も激しい状態は三十分ほど続いた。その間、幸造は自宅に居ながら、嵐の森の古木の穴の中に、じっと身を潜める小動物にでもなった様な、不思議な感覚に囚われ続けていた。
台風の最接近が終り、辺りが静まり始めた頃、何気なく屑入の中を覗くと、使い物にならなくなって捨てた、赤と黒のボールペンの残骸があった。
『動き出す訳は無いよね? ははは、そりゃそうだよな……』
ボールペンは無生物である。動き出す筈は無いし、捨てたからといってどうという事は無い。しかし何故か気になって仕方が無いのだ。しょうが無いので、無理に紙屑を沢山作って屑入に捨て、それらの残骸が見えない様にした。
「ふーっ!」
見えなくなるとほっとした。
『これはどうしようかな、捨てるか?』
ノートの上に置いた、ボールペンから外れたミニボールの処置に困った。このまま捨ててしまうのはちょっと惜しい気がした。
「確か蓋付の薬壜があったよな。あれに入れれば……、ああっ!」
薬壜を取りに行こうとして、椅子から立ち上がった途端にノートにぶつかり、その衝撃でミニボールが床に落ちてしまった。それから数分間、必死になって探したが、ついに見つからなかった。
『ふうっ、疲れたっ! 寝よう……』
普段寝付の悪い幸造だったが、穏やかになって来た台風の風雨の音が、子守唄代わりにでもなったのか、あっという間に寝入ってしまった。
幸い今回の台風では、直撃を受けたものの勢力が弱まっていた事と、行き過ぎる速度が速かった為に大きな被害は出なかった。
次の日から幸造はその書き味の悪いボールペンを、出来うる限り使うようにして、早く使い切ろうとした。
会社にも持って行って徹底的に使った。書き味が悪いからといって、何故だか捨てる気にならなかった。
その実、
『早く壊れてくれないかなーっ!』
と、願っていたのだが、四本のボールペンは六ヶ月程もかけてやっと天寿を全うした。今度は早々と予備を買っておいた。105円で二本の有名メーカー品である。
『書斎』で最後の一本を使い切った時には思わず、
「やったー!」
と、ガッツポーズさえした。ルンルン気分で新品の封を切り、ニコニコ顔で滑らかな書き味を堪能し始めた。
『やっぱり違うねえ、さすがは有名メーカー品だ!』
が、しかし何か物足りない様な妙な気分なのだ。
『こりゃ参ったな、軽過ぎて字が上手く書けないぞ』
それもその筈である。六ヶ月間、常に力を込めてボールペンを使っていた為に、手や腕がそれに順応してしまっていた。
早く使い切ろうとして書かなくても良い事まで書いて、懸命に使い続けた結果、力を入れて書く癖が付いてしまっていたのである。
幸造は困ってしまった。かと言って 105円で五本のボールペンの世界に、今更戻りたいとは思わなかった。
ずっと昔のボールペンは正にこの様な、力を込めて書くボールペンが普通だった。そのようなボールペンしか無かったのだ、という事を思い出していた。
その世界に戻るという事は、何時までも古い時代から抜け出せず、取り残されてしまうという印象があって、受け容れる訳には行かなかった。些細な事にも思えるのだが、どうしても気になるのだ。
『うーむ、仕方が無い。中間の書き味のボールペンを探してみるか』
例の近所のスーパーに行って、それらしいボールペンを探す事にした。よく分らなかったので、何種類か購入して書き味を比較してみた。
その中では 105円で三本のボールペンが丁度具合が良かった。一応有名メーカー品である。最高の書き味ではない。
しかしあの安物のボールペンほどの力は必要でない。少し慣れてくると何とか字も上手く書けるようになった。
それから何ヶ月か過ぎて、幸造のボールペンはサラサラと書けるそれに戻った。随分回り道をしたように思えるが後悔はしていない。
『自分が自堕落だったからボールペンを使い切ってしまったけど、おかげで満月の夜の素敵なショーを見せて貰った。あれはもう二度とは見れないな。
それに何と言ってもあの夜の台風は凄かった。いや、台風と言うよりボールペンが壊れたおかげで不思議な体験をさせて貰った。
自分の家が本当は深い神秘の森なのだ。そういう一面を持っているのだ、何ていう体験をしている人間はそうそうざらにはいないだろう』
そんな風に考えると、高々一本21円の安物のボールペンに感謝さえしたい位である。
もっとも彼が応募した「素人文芸大賞コンクール」への数々の作品は全て、佳作にも入らずに落選した。ボールペンの良し悪しと、作品の良し悪しとは、勿論何の関係も無い。その上、土曜日から日曜日にかけての、あの独りぼっちの至福の時間は今は無い。
妻の母親はあの台風の後、数日して亡くなった。最近は口うるさい妻から逃れる為に、サラサラ書けるボールペンでノートの中に埋没している。
完
作品の何割かは実話です。ただボールペンと台風の夜の話は別々だったのですが、融合させてみました。個々の話だけでは短過ぎるし余り面白く無さそうだったのでそうしたのですが上手く行ったかどうか。是非感想などお寄せ下さい。