川上菜穂美④
翌朝、菜穂美は携帯電話を片手に持ったまま、オロオロしていた。
(なんであんなことを言ってしまったんだろう。一回しか会ったことのない男性に電話するなんて無理すぎる。しかもあんなキャラクターで! 話し方が変わっていたら怪しまれるだろうし……)
昨晩からずっと同じことを考えていた。
昨日のオフ会は菜穂美の中で半分成功、半分失敗という結果だった。
初対面の人間とコミュニケーション取れたことはまぁ、良かったとしよう。
しかし全然自分と違うキャラクターで話を始め、その挙句、変な約束まで取り付けてしまった。
これではこの人間関係がいつ終わってしまってもおかしくない。
菜穂美は軽率な約束を深く後悔していた。
そんな事を考え続け、九時に携帯を持ってみたものの、そこからずっとフリーズしてしまっている状態だった。
朝食代わりに淹れたコーヒーは既に冷めきっていた。
まもなく約束の九時半だ。
(考えてもしょうがない、約束だもんね。一応電話しとかなきゃ)
菜穂美は心を無にするように努めながら、携帯電話のボタンを慎重に操作していく。
昨日交換した電話番号は既に「谷口 貴史」として登録済みだ。
電話番号を表示させ、一つ深呼吸する。
そして恐る恐る発信ボタンを押しこんだ。
プルルルルル プルルルルル プルルルルル……
かかってしまった。
菜穂美は昨日待ち合わせに向かう時と同じくらいの緊張を再度味わっていた。
口から飛び出しそうなほど、心臓が飛び跳ねている。
不意に電話口からガチャと物音がした。貴史が出たようだ。
「ん……、もしもし?」
まだ寝ていたのだろう。寝ぼけた声が聞こえてきた。
相手が寝ぼけていると分かり、菜穂美は少し気が楽になった。
「昨日オフ会で会った菜穂美だけど。まだ寝てたの?」
「菜穂美……?」
「覚えてないの?」
「んー……」
こっちがこんなに苦悩して電話したというのに覚えてないのか……。
菜穂美の中で苛立ちが爆発した。
「もう、いいから今日見た夢教えなさい!」
「夢……? ああ。聡からメールが来て、返信しようか迷っていたら、テーブルの角に足をぶつける、っていう夢だった」
貴史は意識があるのかないのか、虚ろな声でそう言った。
「ふーん、他に何か覚えてることはない?」
「滅茶苦茶足痛かった……」
菜穂美は拍子抜けした。こんな夢が何かに有効活用できるのだろうか。
「分かった。それじゃ」
とにかく任務は果たしたのだ。今日のところはそれで十分だろう。
「ああ……、ありがとう」
最後まで虚ろな声のまま、電話は切れた。
それにしても大したことのない予知夢だ。
こんな内容でも他のメンバーに知らせるべきなのだろうか。
PCからWINKを開いた菜穂美は、しばらく思案した。
そして、夢と関係のない友香とMASTER_Qにだけ今回の予知夢を知らせることにした。
WINKにはチャットの他にメッセージ機能というメールのような機能がある。
これを使って、メンバーに夢の内容を報告することが昨日のオフ会で決まっていた。
菜穂美はメッセージ作成を手早く済ませると、冷めたコーヒーを飲み干した。
時計を見ると十時を回っていた。今日は十時半から講義がある。
遅刻だ。慌てて菜穂美は家を飛び出して行った。
大学に着いた頃には、時刻は十一時前になっていた。
大教室の裏側からそっと忍びこむ。
別にそっと忍びこまなくても何百人といる教室では、咎められたりすることはないのだが、人の注目を集めるのはなるべく避けたかった。
人が少ない机を選び、音をたてないように座る。
周りを何気なく見回すが、誰も菜穂美には注目していなかった。
菜穂美は胸を撫で下ろした。
近くの机に座っているグループはヒソヒソとおしゃべりに興じ、前の方の机に座っている人は堂々と居眠りをしている。
とりあえず出席だけはしている、という学生ばかりだ。
教授は何かをブツブツ話しているが、ここからでは何を言っているのか良く聞き取れない。
菜穂美もこの授業に何かを期待している訳ではない、単位さえもらえれば良いのだ。
しばらく講義を聞くフリを続けていたが、それにも飽きてきた菜穂美は、鞄から携帯電話を取り出した。
WINKにアクセスする。すると、1通のメッセージが届いていた。
PapaPopoからのメッセージ
くだらない予知夢送ってくんな! ナミウザイ!
思わず笑みがこぼれた。
昨日あんな大人しい感じで会ったのに、ネットではキャラクターを変えるつもりはないようだ。
無理ありすぎ、と心の中で突っ込みを入れていると、不意に前方に人の気配がした。
「ひゃぁ!」
驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。
机の前には男子学生が立っており、こちらを見て引いていた。
「こ、これ」
男子学生は怖々と紙を渡してくる。
気がつけば授業時間も終わりに近づき、出欠確認のカードを配っているところだった。
「あっ、すいません」
ほとんど聞き取れないくらいの声で謝り、出欠カードを受け取る。
顔はおろか耳まで真っ赤になっていた。恥ずかしすぎる。
菜穂美は出欠カードを急いで記入し、逃げるように教室を後にした。
教室を出た菜穂美は、校舎の裏側にある非常階段にやってきていた。
昼時でもここには誰も来ることはない。菜穂美が昨年見つけ出した穴場だった。
少々湿っぽい場所だが、それは致し方ない。
その前はトイレで過ごしていたのだ。それを考えれば大分快適だった。
菜穂美は先ほどの大失態を悔やみながら、自作の弁当を食べだした。
(なんでいつもまともにしゃべれないかなあ……)
昨日は、そういう意味では奇跡にも近かった。
変なキャラクターになっていたとは言え、まともな会話が成立していたのだから。
(普段から高圧的なキャラでいけば話せるようになるのかな?)
そうとも考えたが、すぐにその考えは取り消した。
今更学校でそんな話し方できるはずない。
そもそも話そうと思うと、頭が真っ白になって言葉すら出てこないのだ。
(来年からは就職活動も始まるんだよね……)
考えるだけで頭が痛くなってくる。
いっそのこと、貴史のようにニートでもなろうかという投げやりな気持ちになってしまう。
しかし、昨日の貴史を見た感じでは、あの生活もそれはそれで大変なのだろうとも思う。
かといって聡の方は表にこそ出していなかったが、もっと辛そうに見えた。
あれは、仕事で相当なストレスを抱えているに違いない。
(どっちにしても、なかなか幸せになるのは難しいものよね)
菜穂美は悟ったような事を考えつつ、卵焼きを頬張った。