谷口貴史②
目を開ける。
いつも見慣れた白い天井が見えている。
布団をがばっとめくり上半身を起こしてみるが、無論どこにも傷などなかった。
(夢、か……)
それにしても生々しい夢だった。
膀胱の張り具合や、恐怖で身体が縮みあがる感じは、今現実に起こったかのように尾を引いている。
というか膀胱の張りは今でも残っていた。
貴史は急に現実に引き戻され、トイレに駆け込んだ。
「うー、さみい」
用を足しながら独り言を呟く。
時間は午前十時を回っていたが、部屋の中の気温はまだ七度くらいしかない。一月に入ってからは、ずっと寒い日が続いていた。
とても早起きしようという気持ちにはならない。そもそも早起きしなくてはいけない理由が、貴史にはないのだ。
貴史は中堅の大学を卒業後、ニートとなっていた。別に望んでなった訳ではない。
いくら会社の面接を受けても内定がもらえなかったのである。
在学中はもちろんのこと、卒業後もしばらくは就職活動を続けていたが、不採用通知が百五十枚を数える頃、遂に貴史の心は折れてしまった。
全てがどうでも良くなった。
それからというもの、目的もなく、ただダラダラと日々を過ごす生活が続き、既に三年以上が経過していた。
トイレから出た貴史は、部屋に戻り、テレビを点けた。
二十五インチの液晶画面には朝の情報番組が流れ始めた。
内容は、ご近所さんの変わった行動を面白おかしく、再現VTRにしているというものだ。貴史には全く興味のない内容であったが、BGM代わりにはちょうどいい。
キッチンへ向かい、戸棚にあるインスタントコーヒーを取り出す。
マグカップにスプーン一杯の粉を入れ、お湯を注ぐ。
熱気とともに、香ばしいコーヒーの匂いが立ちこめた。
ずずっと熱いコーヒーを啜った貴史は、再び戸棚の方に目をやる。
インスタントコーヒー以外の物は何もなかった。
冷蔵庫を開ける。
こちらにはマヨネーズと水しかない。
そういえば、昨日食べたラーメンで食料が尽きてしまっていた。
貴史はため息をついた。面倒臭いが、食料を調達に行くしかないだろう。
貴史は渋々外出の準備を始めることにした。
貴史の住む街は都心まで三十分というなかなか好条件な立地である。
大学時代、通学に良い物件ということで選んだ場所だった。
今の貴史にとっては都心に行く用事がないため、あまりこの場所にいる意味はない。
ただ、そのような好立地である為、必要な買い物が駅前で全て済ませられるという恩恵があり、遠出が億劫な者にとっては便利な場所でもあった。
貴史は駅まで十分ほどの道を俯いて歩いていた。
時折、冷たい強風が吹き、自然と身震いしてしまう。
厚手のダッフルコートも、この寒さでは完全な防寒具にならないらしい。
雪こそ降っていないものの、顔に当たる風は痛いほどであった。
(こんな寒い時に外出しなければいけないなんて、ついてないな)
心の中でため息をつく。
貴史くらいの年齢の人間ならば、大多数がもっと寒い時間帯に仕事に出かけているのだが、今の貴史の生活からは考えられないことであった。
不意に貴史の肩に何かがぶつかった。誰かがぶつかったのだろうか。
振り向くのも面倒くさく、無視しようとしたが、その手は完全に貴史の肩を掴んでいた。
貴史はほとんどこの街に知り合いと呼べる人間がいない。
何かのセールスだろうか。こんな街の外れで?
そもそも最近の勧誘は相手の身体に触れてはいけないんじゃなかったか。
そんなことを考えながら渋々振り返る。
「やっぱり貴史か! 久しぶりだな」
頭より少し高い位置から声が聞こえた。
見上げると、高校時代に友人だった聡が微笑んでいる。
聡は黒いスーツの上にグレーのコートを着込み、ビジネスバッグを持っていた。
どこからどう見ても社会人だった。
それは貴史にとって最悪な再会だった。
「おう、聡。久しぶり」
なんとか作り笑いを浮かべ、穏便に逃げるための作戦を練る。
しかし、聡と会うのは久しぶりだっただろうか? つい最近どこかで会ったような気がする。この場面自体をどこかで見たような……。
「変わってないな。今何やってるんだ?」
剛速球が顔面にストライクした気分だった。
貴史にとっての聞かれたくないランキング、ナンバーワンの質問だ。
貴史は必死に思案する。上手く誤魔化し、かわせる方法はないだろうか。
ニートなんて恥ずかしくて言えるはずもない。
そうだ、今日はたまたま休みだってことにしよう。
あぁ、でも聡の質問は今日何やっているのかを聞く質問ではないはずだ。
どうやって話を逸らそうか……。
それにしてもやはりこの場面には見覚えがある。最近どこかで……。
そうだ、今朝の夢だ。夢の状況とほぼ同一だ。
夢の内容を思い出した途端、貴史の身体に異常が起きた。
急に尿意を催したのだ。
そういえば、夢の中でもこんな状況だった……。
「どうしたんだ? 考え込んで。」
聡には真剣な顔で思案しているように見えたのか、貴史の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「い、いや、なんでもないよ。ははは」
しどろもどろになり、作った笑顔が泣いているのか笑っているのか分からない奇妙な表情になってしまっていた。
「すまん、聡。少し急ぎの用があるんだ。また今度な」
ポカンとした表情の聡を残し、貴史は回れ右して歩き出した。
とりあえずはトイレだ。
道向かいにある公園に、確かトイレがあったはずだ。
貴史は聡との出会いや、急に湧いて出た尿意に頭が混乱していた。
「おい、貴史!」
後ろから聡の呼び声が聞こえる。
急に別れを告げられて、動揺しているのだろうか?
罪悪感に駆られた貴史は、手を振ろうと身体をひねった。
しかし、右に九十度曲がったまま、貴史の身体はフリーズした。
大型トラックが迫っていた。
ああ、そうだった。夢でもこんな展開だった。
今更になって夢の続きを思い出す。
冷たい身体が更に冷え込む。全身の毛が逆立ちし、危険を知らせてくる。
しかし、普段あまり運動しない貴史の身体は、咄嗟の動きに慣れておらず、トラックを避けようと動いた結果は、その場で尻もちをついただけだった。
すぐ間近に車のヘッドライトが迫っていた。
貴史が目を瞑った瞬間、大型トラックから急ブレーキの音と共に、心臓が高鳴るような大きな音が発せられた。
トラックのクラクションだ。
貴史は恐る恐る目を開ける。
すぐそこにまで迫ったトラックの窓から、厳つい男が顔を出し恐ろしい剣幕で怒鳴り散らした。
「ばかやろう! 危ねえだろ!」
男の怒鳴りに圧倒されながら、いつの間にか自由になった身体を動かし、すごすごともと来た歩道へ引き返した。
「大丈夫か?」
聡が心配そうに駆け寄って来た。
最悪だ。こんな醜態を晒してしまうなんて。
「すまん、聡。じゃあな……」
聡に一礼した貴史は再び、駅に向けて歩き出した。
尿意はいつの間にか消えていた。
背後には聡の視線を感じていたが、振り返ることはできなかった。