川上菜穂美⑦
(はあ、情けないわ。電話一本でこんなに時間かかるなんて……)
朝、菜穂美はいつもの如く、携帯を握りしめてフリーズしていた。
もはや朝の恒例行事である。
かけてしまえば問題ないことは分かっているのだが、電話をするまでにやはり勇気が必要だった。
元々、他人に電話をすることなど考えてもみなかったことだ。電話できるようになっただけでも大きな進歩だと言える。
精神統一の儀式が終わった菜穂美は、意を決して通話ボタンを押す。
プルルルルル プルルルルル プルルルルル……
「はい、もしもし……」
「寝ぼけてる割にはいつも電話出るタイミングは一緒ね」
「ん……?」
いつも起きていない貴史を若干皮肉ってみたのだが、寝ぼけている貴史には理解できていないようだ。
「菜穂美だけど、今日の夢教えて」
「あ、うん……。外を歩いていたら急に雨が降ってきて……全身びしょ濡れになる夢だった」
「何時頃?」
「うーん、……昼間かなあ」
「どこを歩いてたの?」
「えっと……坂上駅前のあたり」
なんだって? 坂上駅は菜穂美の最寄駅だった。
「その辺りに住んでるの?」
恐る恐る尋ねてみる。
「うん……駅から少し離れてるけど……」
なんてことだ。前回のオフ会では現地解散だったから分からなかった。
こんな近所に貴史が住んでいるとは……。
「わかった。じゃあ今日も後でメッセージ送るから」
「うん……。ありがとう」
平静を装って電話を切る。
胸が高鳴っている。
こちらの動揺は貴史にばれていないだろうか?
いつものように電話の内容を忘れてくれることを祈りながら、菜穂美は四人にメッセージを送信した。貴史へのメッセージには今日は外出しないように書き添えておく。
そうしているうちに十時を少し回っていた。
菜穂美は慌ててコートを羽織り、家を出る。
(あっ、そういえば、雨が降るんだっけ)
閉めようとしたドアを開いて、玄関脇に立てかけてある傘を掴むと、菜穂美は駈け出して行った。
(やっぱり雨は降るのね……)
昼休みを挟んで四コマの講義を終えた菜穂美は、校舎内のカフェで雨宿りをしていた。
カフェの窓に大きな水滴がいくつも張り付いて地面に流れていく。
午前中晴れ渡っていた空は、午後から次第に雲が広がり始め、二時ごろから遂にバケツをひっくり返したような雨が降り始めた。この時期では珍しいほどの大雨だ。
今は少し小降りとなってきたが、道路のあちこちに大きな水溜りができている。
菜穂美の忠告通りに貴史が外に出ていないとすると、「びしょ濡れになる未来」は回避できたものの、「雨が降る未来」は回避ができなかったということになる。
貴史が雨を降らせるわけではないのだから、これはまあ想定の範囲内と言えるだろう。
携帯電話を取り出し、WINKにログインする。二通のメッセージが届いていた。
PapaPopoからのメッセージ
雨なんか降るはずないだろ! いい加減にしろ!
TAKA_302からのメッセージ
分かった。今日は家にいることにするよ。また夜になったら結果報告する。
やはり貴史は家から出ていないようだ。
「びしょ濡れになる未来」は回避できたのだ。
すぐにでも結果を聞きたかったが、残念ながら貴史はログインしていなかった。
窓の外に目を向ける。
雨は先程より小雨になってきていた。
菜穂美は注文していたレモンティーを飲み干すと、家路に向かうことにした。