春の招待状
ガロン山脈に積もる雪が融け、若葉の柔かな緑がトゥディール領を覆い出した頃、一通の招待状が私の元へ届いた。
――クロード・ガディアス公爵と勇者サクヤの婚姻の儀に御参列願う。
ガディアスの家紋である剣と百合の意匠が浮かぶ上質な白いカード。あの人の正装にも必ず縫い取られていた紋章を指でなぞると、言い表すことの出来ない幾つもの感情が私の胸を過った。
宛先はヴィオレーヌ・トゥディール辺境伯夫人、つまりは私個人へのもの。
王国内で頭角を現しつつあるトゥディール辺境伯へは別途、招待状が届けられたのだという。
何気ない調子で招待状を渡してくれた夫を見上げると、深緑の瞳は不思議な光を浮かべていた。いつもは素直に心を映すその瞳から、今は何も読み取ることが出来ない。
「一人で行く?それとも、行かない?」
「……貴方は、行かれないのですか」
「丁度、北領街道の建設事業でてんやわんやの時期に当たるんだ」
さらりと言ってみせる優しい大型犬の真意はどこにあるのだろう。筆頭貴族の慶事に参列しないなど、後々どんな不利益を被るか知れないというのに。
あの人が、私ではなく選んだ誰かと結ばれるところをたった一人で目にせよというのか。
余りに残酷だと思いかけて――そうではないと俯いた。
夫は、アベルは、私が未だクロード様を愛していることを知っている。
初夜の床であの人の名前を呼んで泣いてしまった時から。あの時から、彼が私に触れようとすることはない。ただ、寄り添うように温もりに満ちた賑やかな日常を与えてくれた。
――私の心のままに。
今回もアベルは選ばせてくれたのだろう。私が完全に打ちのめされて恋心を断ち切るか、叶わぬ恋心と知っても尚抱え続けるか。たった一人で、泣いて苦しんで、それでも誰にも邪魔されずに考え抜けるように。隣の彼に気を遣ってしまわないように。
向けられる優しさに胸が痛んで、上手に言葉を選ぶことが出来ない。
曖昧なままの狡い態度で、きっと彼を苦しめている。
どこかで決着をつけなくてはいけなかった。アベルを心から愛せないのなら、彼の為に真実尽くしてくれる誰かにこの場所を譲るべきだ。貴族に生まれついた身にはそれがひどく難しいことだとしても。
「一人で、行きます」
ようやく頭を上げた私を眩しげに見つめ、夫は何も言わず微笑んだ。その静かな緑は窓の外に広がる山々を染める色とやはり良く似ていると、私は思う。
「一ヶ月は留守にしてしまいますね、村に言っておかないと」
「学校設立のプランはまだ二転三転しているし、少しくらい大丈夫じゃないかな」
「ふふ、皆いざつくるとなると夢が膨らんでしまうのでしょう。……お仕事のことは抜きにしても、あの子達は淋しがってくれそうな気が、するものですから」
トゥディール辺境伯領に点在する山の麓の村々にはシステム化された教育機関が殆どない。中心市街に十五歳以上の高等教育を行う学校が一つあるのだが、そこへ通えるのはある程度裕福で幼い頃から家庭教師をつけていたような人間だけ。どれほど才があっても、幼い頃に教育を受けられるだけの環境がなければ知識を身に付ける道が断たれてしまう状態なのだ。
前々から子供達に広く教育を行う方法を考えていると零したアベルに、手伝わせて欲しいとお願いしたのは私からだった。
貴族の子女としてかなり厳しく教育を受けてきたけれど、女の教養は社交の道具に過ぎない。知識も、理論も、誰かの為に使って役立てたことなど一度もなかった。 けれど、領内を良くしようと日々懸命に働く夫の姿を見ていて、何かしたいと思ったのだ。
とはいえ、経験も見聞も浅い若い女が机上で考える案に実現性などあろうはずもない。まずは実態を知らねばと私は領主館から最も近い村へ視察を重ねていた。
子供達がどんな風に日々を暮らしているのか。どんな夢を持ち、何を学びたいと願っているのか。
最初は見慣れぬ風体の女の前で警戒と緊張を露わにしていた子供達だったが、私がしつこくやってくるものだから段々面白くなってきたらしい。ある日追いかけっこの様相を呈した時、ドレスが汚れるのも構わず彼等の秘密基地に至った私をとうとう認めてくれたのだ。
――秘密基地は、木の上だった。
『すげーな、おくがたさま!』
『むしろそのドレスでどうやって登ったんだ』
『おくがたさま、ちかくでみるとホントにきれーい』
丈夫な枝と枝の間に板を渡して造られた秘密基地はなかなか本格的なものだった。子供達がくすくすきゃっきゃと笑いながらそこへ逃げこんだ時、私はとても羨ましかったのだ。政略結婚の駒に相応しい淑女となるべく育てられ、品行方正な幼少時代を送った私は木登りなどしたこともなかった。茶会で顔を合わせる同年代の子女は居れど、心を分かち合い共に季節を過ごす友は一人とて居なかった。
ドレスをたくし上げ木の幹にしがみついた私を見たら、家の者は全員絶叫したことだろう。けれどあの頃果たせなかった何かを手繰るように秘密基地を目指した時、私の心は大層晴れ晴れとしていたのだ。
『ねえ、私も仲間にいれてくれる?』
社交界の華と謳われたとっておきの微笑みを披露すると、子供達は一斉に笑い出して、それから皆して頷いてくれた。
あの日から子供達の仲間として認められた私は、彼等の将来が少しでも幸せに繋がるようにと奔走している。村の実態調査の傍ら、別の地域の教育機関を研究したりだとか、識者を呼んでお話を聞いてみたりだとか。
「君は子供達に愛されてるからね。いつだったか、木から下りられなくなったって連絡を受けた時は驚いたけど」
「……もう、そのことは言わない約束です!」
「ごめんごめん、だってあの時の君があんまり可愛くて」
子供達の仲間になった日、武勇伝と共に黒歴史も生まれた。
夢中になる余り木に登ったは良いが下りられなくなり、アベルに迎えに来て貰う羽目になったのだ。
激務に疲れている彼を煩わせてしまったことはとても申し訳なかったけれど、私を抱えて下りながら大爆笑する夫の頬を抓ってしまいたくなったのはしょうがないと思う。
その後もこちらを見る度に吹き出すものだから、私が少々臍を曲げてしまったのは記憶に新しい。
「自分があんなに無鉄砲だったなんて、知りませんでした」
「――ああ、君は随分と君自身を知らない。こんなに沢山の表情を持っているのに」
耳元へそっと落される呟き。
「アベル……?」
「宴の為のドレスを仕立てさせよう。君が世界で一番美しく見えるように」
そう言ってにっこりと笑った彼の瞳からは、やっぱり何の感情も読み取れなかった。